第三十四話 もう逃げないーーネッケル留任
一七八九年七月十日。
深夜。
マリー・アントワネットの胸へ顔を預けていたルイ十六世は、長い時間をかけて、ようやく身体の震えを鎮めた。
窓の外は暗い。
宮殿の廊下から聞こえるのは、衛兵の足音だけだった。
群衆の怒号もない。
太鼓の音もない。
刃の落ちる金属音も聞こえない。
それでもルイは、何度も自分の首へ手を当てた。
首はつながっている。
皮膚は温かい。
呼吸もできる。
処刑台の上ではない。
それを一つずつ確かめなければ、今この瞬間さえ、死の直前に見ている幻ではないかと思えてしまった。
マリー・アントワネットは、夫が落ち着くまで何も言わなかった。
ただ背中を撫で続けた。
やがてルイはゆっくりと身体を起こした。
泣き腫らした目で、机の上を見つめる。
そこには、一通の書類が置かれていた。
ジャック・ネッケルの罷免を命じる文書。
まだ、国王の署名はない。
だが、あとは署名さえすればよい状態まで整えられている。
明日、ネッケルへ渡される予定だった。
ネッケルは即座にヴェルサイユを去り、国外へ向かう。
その知らせはパリへ伝わる。
人々は、国王が軍隊を使って憲法制定国民議会を解散させるつもりだと考える。
武器を求めて立ち上がる。
そして七月十四日、バスティーユ牢獄が襲撃される。
ルイは、その先に続く光景を全て知っていた。
怒号。
銃声。
煙。
切り落とされた首。
槍の先へ掲げられた人間の頭。
ネッケルの罷免は、フランス革命を生み出した唯一の原因ではない。
ネッケルを残せば、財政危機も食糧不足も消えるわけではない。
国民議会と王権の対立も、パリへ集められた軍隊も、民衆の不安も残る。
それでも、その罷免が火薬庫へ投げ込まれる火花となったことを、ルイは知っていた。
「最初に、何をなさいますか。」
マリー・アントワネットが尋ねた。
ルイは罷免命令書を見つめたまま答えた。
「ネッケルを罷免しない。」
王妃の表情が、わずかに動いた。
彼女自身、ネッケルを全面的に信頼しているわけではない。
ネッケルは民衆の人気を背負い、それを政治的な力として利用しているようにも見えた。
宮廷の人間から見れば、国王の大臣でありながら、国王よりも世論へ近い人物だった。
「民衆が望んでいるからですか。」
「それだけではない。」
ルイは首を横へ振った。
「むしろ、民衆がネッケルを求めていることが、余には恐ろしかった。」
「恐ろしい。」
「余には、彼らがネッケルを支持しているようには見えなかった。」
ルイの指先が、机の上で震え始めた。
「ネッケルを差し出せ。」
「虚偽の報告書を作ったネッケルに責任を取らせろ。」
「国庫が空であることを隠した男を、我々の前へ連れてこい。」
「民衆は、そう叫んでいるのだと思っていた。」
マリー・アントワネットは、しばらく夫の顔を見つめた。
「実際に、そのような報告が届いているのですか。」
ルイは答えられなかった。
机の端には、パリから届けられた報告書が積まれている。
カフェや広場で交わされている言葉。
新聞やパンフレットに書かれた主張。
民衆の間に広がる噂。
そこには、ネッケルへの批判もあった。
だが、それ以上に多かったのは、ネッケルを支持する声だった。
ネッケルを罷免してはならない。
彼だけが国庫の真実を知っている。
彼だけが国王と国民の間をつなげられる。
ネッケルを守れ。
ネッケル万歳。
ルイも、それらを読んでいた。
しかし、言葉を正しく受け取ることができなかった。
「余が、そう聞いていた。」
ルイは絞り出すように答えた。
「誰かに言われたわけではない。」
「民衆がネッケルの名を叫ぶたび、責任を追及しているように聞こえた。」
「ネッケルの報告書が語られるたび、余まで嘘をついたと責められているように思えた。」
「だから、彼を遠ざけたかった。」
「ネッケルがいなくなれば、あの報告書のことも忘れられると考えた。」
「彼一人を国外へ追放すれば、余は責任から逃れられると。」
マリー・アントワネットは、罷免命令書へ目を落とした。
「あなたは、ネッケルを信用していないのですか。」
ルイはすぐには答えなかった。
「信用していない。」
やがて、正直に認めた。
「ネッケルは、民衆からの信用を重んじる。」
「銀行家や金融業者からの信用も重んじる。」
「国債を引き受ける者たちが何を望んでいるのかを考える。」
「だが、余に対して全てを話しているのか分からない。」
「国王の大臣でありながら、国王より世論を恐れているように見える時がある。」
「自分の評判を守るためなら、都合の悪い事実を隠すのではないかと思ってしまう。」
「それでは、罷免しますか。」
「いや。」
ルイは罷免命令書から目を逸らさなかった。
「余が彼を信用していないことと、彼を何の説明もなく追放してよいことは別だ。」
「これまでの余は、それを同じことだと思っていた。」
「信用できない。」
「だから遠ざける。」
「怖い。」
「だから逃げる。」
「民衆が集まる。」
「だから兵を向ける。」
「いつも、恐怖を消すために目の前のものを遠ざけようとした。」
「だが、それでは何も分からないままだ。」
ルイは両手を強く握り締めた。
「ネッケルを呼ぶ。」
「今からですか。」
「今でなければ、また逃げる。」
「朝になれば、アルトワ伯や他の者たちが罷免を勧める。」
「余は恐ろしくなり、この書類へ署名するかもしれない。」
「だから、今のうちに話す。」
ルイはそう言ったものの、すぐに立ち上がることはできなかった。
ネッケルを呼びたくなかった。
顔を見たくなかった。
一七八一年に公表された『国王への財政報告書』。
コンプト・ランデュ。
あの報告書は、数字を何もないところから作り出したものではなかった。
経常的な歳入と経常的な支出だけを比べれば、約一千万リーブルの余剰があるように示すことはできた。
しかし、アメリカ独立戦争のために重ねられた借入。
臨時の軍事支出。
増え続ける国債の元本。
将来にわたって国庫を圧迫する利払い。
それらの全体像は、国民へ十分に伝えられなかった。
報告書を読んだ多くの人々は、フランス王国の財政には余裕があると信じた。
国家に十分な歳入があり、宮廷の浪費さえ止めれば問題は解決できると思った。
その誤解は、カロンヌの改革を妨げた。
名士会では、何度説明しても同じ言葉が返ってきた。
ネッケルは黒字だと言っていた。
国庫に余裕があるはずだ。
新たな税など必要ない。
特権階級へ負担を求めるのは、王と大臣が浪費の責任を押しつけているからだ。
ルイは、それをネッケルの罪だと思おうとした。
だが、本当は違う。
国王は、報告書の公表を認めた。
戦争を続けるためには、新たな国債を売らなければならなかった。
国家の信用を保つため、フランスには返済能力があると示す必要があった。
増税を避けながら戦争を続けたいという国王の望みと、国債市場から資金を集めたいというネッケルの方針が一致した。
二人で作った誤解だった。
ネッケル一人の嘘ではない。
「呼びましょう。」
マリー・アントワネットが言った。
「ですが、一つだけ約束してください。」
「何をだ。」
「ネッケルがあなたの望む答えを口にしなかったとしても、すぐに追い出さないでください。」
ルイの表情が強張った。
「余が怒ると思うのか。」
「怒るのではなく、怖くなるのだと思います。」
王妃は静かに答えた。
「人は、自分が聞きたくないことを言う者を恐れます。」
「今までのあなたは、その恐怖を怒りや不信という言葉へ置き換えてきたのでしょう。」
ルイは否定できなかった。
「最後まで話を聞く。」
「約束しますか。」
「約束する。」
「では、呼びましょう。」
ルイは呼び鈴へ手を伸ばした。
指が鈴へ触れる直前、動きが止まった。
ネッケルが部屋へ入ってくる姿を想像した。
軽蔑されるかもしれない。
責任を押しつけるつもりかと問い詰められるかもしれない。
報告書の公表を認めたのは陛下ではないかと言われるかもしれない。
国王に対する信用は失われたと告げられるかもしれない。
逃げたかった。
明日に延ばしたかった。
マリー・アントワネットの手が、ルイの震える手へ重なった。
「二人で。」
王妃が言った。
ルイは頷き、鈴を鳴らした。
「ネッケルを呼べ。」
入ってきた侍従へ命じた。
「今すぐにだ。」
しばらくして、ジャック・ネッケルが部屋へ入ってきた。
突然の召喚だった。
しかも、すでに夜は深い。
何か重大な決定が下されるのだと悟っているのか、その表情は硬かった。
マリー・アントワネットが同席していることへ気づくと、ネッケルの警戒はさらに強まった。
「陛下。」
ネッケルは深く頭を下げた。
「お呼びでしょうか。」
ルイは口を開いた。
だが、声が出なかった。
目の前にネッケルがいる。
自分が何度も罷免し、追放し、ある時には再び呼び戻した男。
前の人生で、民衆から圧倒的な支持を受けながら、最後まで王国を救うことができなかった男。
ルイの心の奥で、囁く声があった。
この男を残しても救われない。
ネッケルは革命を止められない。
財政危機も解決できない。
最後には、また処刑台へ送られる。
今のうちに遠ざけろ。
ルイは机の下で、自分の膝を強くつかんだ。
逃げない。
助かる保証がなくても、逃げない。
「座ってくれ。」
ネッケルは戸惑った。
国王の前で大臣が着席を許されること自体は珍しくない。
だが、今のルイの声には、命令というより懇願に近い響きがあった。
ネッケルが椅子へ腰を下ろす。
ルイは、罷免命令書を彼の前へ差し出した。
ネッケルは文面を読み、わずかに顔色を変えた。
「これは。」
「君を罷免するために用意させた。」
部屋の空気が凍りついた。
ネッケルの目が、国王の署名欄へ向けられる。
何も書かれていない。
「いつ、私へお渡しになるおつもりでしたか。」
「明日だ。」
「理由をお聞かせいただけますか。」
ネッケルの声は平静だった。
だが、膝の上へ置かれた手は固く握られていた。
「君を信用できなかった。」
ルイは答えた。
「君が民衆の人気を利用し、王権を弱めようとしているのではないかと思った。」
「財政の全てを余へ伝えず、自分の評判を守ろうとしているのではないかと疑った。」
「パリの民衆が君の名を叫ぶたび、余ではなく君がフランスを治めているように感じた。」
ネッケルの表情が硬くなる。
「陛下がそのようにお考えであるなら、私が留まることはできないでしょう。」
「最後まで聞いてくれ。」
立ち上がりかけたネッケルが止まった。
ルイの声は震えていた。
それでも、逃げずに言葉を続けた。
「余は、君を信用していない。」
「だが、君も余を信用していないのだろう。」
ネッケルは答えなかった。
沈黙が、答えの代わりだった。
「正直に言ってくれ。」
ルイが促した。
「これは命令ではない。」
「余が聞かなければならないことだ。」
ネッケルは国王と王妃を交互に見た。
「それでは、申し上げます。」
「私は、陛下が最後まで私を守ってくださるとは思っておりません。」
あまりに率直な言葉だった。
マリー・アントワネットの眉がわずかに動いた。
ルイの胸にも鋭い痛みが走った。
「なぜだ。」
「陛下は、資金が必要な時には私をお使いになります。」
「国債を売らなければならない時。」
「銀行家を安心させなければならない時。」
「民衆の不満を和らげなければならない時。」
「そのような時には、私の信用を必要となさいます。」
「ですが、宮廷から批判が起こり、特権を持つ者たちが私の改革へ反対し始めると、陛下は沈黙なさる。」
「そして最後には、私一人へ責任を負わせる。」
ルイは唇を噛んだ。
腹が立たなかったわけではない。
国王へ向かって、よくもそのようなことが言える。
そう叱りつけたい衝動が生まれた。
しかし、その怒りの下にあるものが何なのか、今のルイには分かった。
図星を突かれた恐怖だった。
「その通りだ。」
ルイは認めた。
ネッケルが目を見開いた。
「余は、君を盾にした。」
「国庫が危機へ陥った時、君の信用を使った。」
「君の報告書によって国債が売れることを望んだ。」
「だが、その報告書が誤解を生んだ時には、全て君の責任だと思おうとした。」
ルイは机の上に置かれた古い報告書へ手を載せた。
「コンプト・ランデュについて、今ここで正直に答えてくれ。」
「一七八一年、君はフランスの財政が黒字であるかのように国民へ示した。」
「本当に、あの報告書が正しいと思っていたのか。」
ネッケルはしばらく黙っていた。
「記載した数字そのものは、虚偽ではありません。」
やがて答えた。
「経常的な歳入と経常的な支出を比較すれば、余剰は存在しました。」
「ですが、戦争に伴う臨時支出と、そのための借入は別に扱った。」
「そうです。」
「なぜ、全てを示さなかった。」
「全てを一度に公表すれば、王国の信用が崩壊すると考えたからです。」
ネッケルの声にも、少しずつ感情が表れ始めた。
「当時、我々はアメリカ独立戦争の最中にありました。」
「陸軍も海軍も、毎月のように資金を求めていた。」
「増税を行わずに戦争を続けるためには、借り入れるしかなかった。」
「その状況で、フランスが巨額の赤字を抱え、今後も借金を増やさなければならないと公表すれば、誰が低い利率で国王へ金を貸すでしょうか。」
「だから、国民へ誤解させたのか。」
「信用を守ろうとしました。」
「言葉を変えただけではないか。」
ネッケルの顔に苦悩が浮かんだ。
「今振り返れば、報告書が人々へ与える印象について、私は楽観的すぎました。」
「経常収支に余剰があると示せば、戦争が終わった後も国家全体に余裕があると受け取られる。」
「借入によって増えた元本と利払いが、後の政府を苦しめる。」
「それを、もっと明確に示すべきでした。」
「だが、示さなかった。」
「はい。」
ネッケルは認めた。
「信用を失うことが怖かったのです。」
その言葉を聞き、ルイは顔を上げた。
ネッケルも怖かった。
国王と同じだった。
恐れているものは違う。
ルイが死と群衆を恐れていたのに対し、ネッケルは国家の信用が崩れ、資金が途絶えることを恐れていた。
だが、恐怖から都合の悪い事実を先送りしたことは同じだった。
「余も怖かった。」
ルイは言った。
「戦争の途中で金がなくなることが怖かった。」
「増税を求めれば、貴族と高等法院が反発することも分かっていた。」
「だから、君の報告書を認めた。」
「数字が何を隠しているのか、全く知らなかったわけではない。」
「それでも公表を許した。」
「余も、国民に誤解させた。」
「陛下。」
「コンプト・ランデュは、君一人の罪ではない。」
ルイは罷免命令書を持ち上げた。
「それなのに余は、君だけを追放しようとした。」
「君が国外へ去れば、報告書の責任までフランスから消えると思おうとした。」
「余自身の名前を、あの報告書から切り離そうとした。」
「だが、それはできない。」
ルイは命令書を二つに破った。
静かな部屋へ、紙の裂ける音が響いた。
処刑台で刃が落ちる音に比べれば、あまりにも小さな音だった。
それでもルイは一瞬、身体を震わせた。
破った紙を机の上へ置く。
「君を罷免しない。」
ネッケルは、すぐには答えなかった。
「民衆が私を支持しているからでしょうか。」
「違う。」
ルイは首を横へ振った。
「民衆の怒りを恐れ、君を残すのではない。」
「君を犠牲にして、余だけが責任から逃げることをやめるのだ。」
「余は君を全面的に信用しているわけではない。」
「おそらく、君も余を信用していない。」
「だからこそ、今から信用を作り直す。」
「信用とは、都合のよい数字を見せることではない。」
「相手が聞きたくないことでも、必要ならば話すことだ。」
ネッケルが、ゆっくりと息を吐いた。
「陛下は、私に何をお望みですか。」
「真実を話してほしい。」
「国庫の現状を。」
「国債の残高を。」
「毎年支払わなければならない利息を。」
「税収のうち、実際に国庫へ届いている金額を。」
「このまま何も変えなければ、いつ支払いができなくなるのかを。」
「余にも、国民議会にも隠さず説明してほしい。」
ネッケルの表情が曇った。
「全てを、直ちに公表するのですか。」
「それは危険です。」
「やはり、隠すのか。」
「隠すのではありません。」
ネッケルは身を乗り出した。
「数字だけを並べれば、国債を持つ者たちは国家破産が近いと判断します。」
「国債が売られ、価格が下がり、新たな借入は不可能となる。」
「支払い能力を失っていない国家であっても、誰も金を貸さなくなれば、その瞬間に支払い不能となります。」
「真実を語るだけでは足りません。」
「その危機を乗り越えるための方策と共に示さなければならない。」
ルイは反射的に疑いそうになった。
また都合の悪いことを隠すつもりではないか。
再び美しく整えた数字で、人々を安心させようとしているのではないか。
しかし、今はその疑いを黙って抱え込まなかった。
「時間稼ぎではないのか。」
「時間は必要です。」
ネッケルは答えた。
「ですが、以前と同じ報告書を作るつもりはありません。」
「経常収支だけではなく、戦争によって増えた債務も示します。」
「今後の利払いが歳入をどれほど圧迫するのかも示す。」
「その上で、国民議会へ協力を求めます。」
「新たな税制。」
「徴税制度の整理。」
「不要な支出の削減。」
「そして、国家が債務を返済する意思を持っていることを明らかにする。」
「国王だけの言葉では、もう信じてもらえないかもしれません。」
その言葉に、ルイの胸が痛んだ。
だが、目を逸らさなかった。
「分かっている。」
「余の信用は、ほとんど残っていない。」
「だから、君の信用を借りる。」
「だが今度は、借りたままにしない。」
「君だけを国民の前へ立たせることもしない。」
「報告書を公表するなら、余も責任を認める。」
ネッケルが息を止めた。
「国王が、ご自身の責任を公に認めると。」
「そうだ。」
「それが王権を弱めると、周囲は申すでしょう。」
マリー・アントワネットが口を開いた。
「すでに、黙っていても王権は弱まっています。」
ネッケルの視線が王妃へ向けられた。
「国民は、宮廷が何かを隠していると疑っています。」
王妃は続けた。
「その疑いに対して軍隊だけを見せれば、彼らは最も悪い想像をするでしょう。」
「国王が誤りを認めることは、確かに危険です。」
「ですが、全てを大臣の責任とする国王が、今後も信用されるでしょうか。」
ネッケルは答えなかった。
ルイは、妻の言葉に支えられるように続けた。
「明日の朝、君の留任を正式に発表する。」
「罷免の噂を否定する。」
「同時に、財政の現状を憲法制定国民議会へ説明する準備を始めると伝える。」
「君には、そのための報告書を作ってもらう。」
「どれほどの時間をいただけますか。」
「完全な報告には時間がかかるだろう。」
「だが、何かが隠されているという不安は、一日ごとに大きくなる。」
「まず概要を示してくれ。」
「その後、項目ごとに帳簿を整理し、国民の代表へ開示する。」
ネッケルは考え込んだ。
「条件がございます。」
「言ってくれ。」
「私が陛下のご意向へ反対したとしても、それだけを理由に秘密裏に罷免しないとお約束ください。」
ルイの指がわずかに震えた。
大臣を任免する権利は国王にある。
その権利へ条件を付けられたように感じた。
以前のルイなら、不敬だと退けていただろう。
「罷免する必要が生じることはある。」
ルイは答えた。
「だが、その時は理由を本人へ伝える。」
「夜のうちに国外へ追放し、翌朝には誰も説明できないということはしない。」
「国民にも、理由を公表する。」
「それでよいか。」
「はい。」
ネッケルは頭を下げた。
「もう一つございます。」
「何だ。」
「パリ周辺の軍隊です。」
その言葉だけで、ルイの呼吸が止まりかけた。
兵士を呼ばなかった人生。
群衆の中へ一人で入り、踏み殺された。
兵士を集めた人生。
民衆が恐怖し、武器を求め、バスティーユを襲撃した。
どちらを選んでも死んだ。
ルイの視界が狭くなる。
無意識に胸を押さえた。
マリー・アントワネットが机の下で夫の手を握った。
その温かさを感じながら、ルイは呼吸を整えた。
「続けてくれ。」
「パリの人々は、軍隊が国民議会を解散させるために集められたと考えています。」
「ネッケルを留任させても、砲と外国人連隊を首都へ向けたままでは、国王の言葉は信じられません。」
「全軍を撤退させろと言うのか。」
「少なくとも、威嚇と見なされる配置は改めるべきです。」
ルイはすぐには答えなかった。
全て撤退させればよい。
あるいは、さらに兵を増やせばよい。
以前の自分なら、二つのうち一つを選ぼうとした。
だが、恐怖から極端な答えへ飛びつくことこそ、何度も繰り返してきた間違いだった。
「軍隊をなくすことはできない。」
ルイは慎重に言葉を選んだ。
「王宮を守る者は必要だ。」
「穀物倉庫と、パリへ食糧を運ぶ街道も守らなければならない。」
「略奪が起これば、最初に苦しむのはパンを買えない者たちだ。」
「ですが。」
「最後まで聞いてくれ。」
今度はルイがそう言った。
「軍隊を、国民議会の解散やパリへの威嚇には使わない。」
「理由なく市内へ進軍させない。」
「民衆が集まったというだけで発砲させない。」
「パリの門へ向けられた部隊は、秩序を保ちながら段階的に距離を取らせる。」
「その代わり、穀物倉庫、街道、王宮の防備は残す。」
「軍を撤退させるか、民衆へ向けるか。」
「その二つだけではないはずだ。」
ネッケルは、しばらく国王を見つめた。
「承知いたしました。」
「それで民衆の不安が全て消えるとは思いません。」
「余も思っていない。」
ルイは答えた。
「ネッケルを残しても、パンの値段は下がらない。」
「財政赤字も消えない。」
「国民議会が、王権をどこまで制限するつもりなのかも分からない。」
「だが、分からないからといって、相手を消すことはやめる。」
「まず話す。」
「それでも駄目なら、また考える。」
「一人ではなく。」
ルイはマリー・アントワネットを見た。
王妃は小さく頷いた。
ネッケルも、その視線の意味を察した。
この夜、国王と王妃の間で何があったのかは分からない。
だが、目の前にいる国王が、数時間前までの国王とは何かが違うことだけは理解した。
臆病さが消えたわけではない。
声は震えている。
顔色も悪い。
机の下では、王妃の手を握っている。
それでも、恐怖を隠すために他人を遠ざけることだけはやめようとしていた。
ネッケルは椅子から立ち上がった。
「陛下。」
「私は、フランスの財政を一日で立て直せるとは申し上げられません。」
「国民議会を従わせることも、パリの不満を消すこともできません。」
「私の人気と呼ばれているものも、期待が外れれば、たちまち憎悪へ変わるでしょう。」
ルイの首筋に、冷たい感覚が走った。
処刑台の刃が浮かびかけた。
それでも逃げず、ネッケルを見つめた。
「分かっている。」
「君を残せば助かるとは思っていない。」
「君を追放すれば助かるとも、もう思わない。」
「では、なぜ私を。」
「助かるためだけに選ぶことを、やめると決めたからだ。」
ルイは答えた。
「余は君と共に、国民へ誤解を与えた。」
「ならば、君と共に説明する。」
「それが国王にとって不名誉であっても。」
「余は、もう自分の責任から逃げない。」
ネッケルは深く頭を下げた。
「留任の命、謹んでお受けいたします。」
「夜が明け次第、財政報告の準備を始めます。」
「頼む。」
ネッケルが退出した後も、ルイはしばらく扉を見つめていた。
足から力が抜け、椅子の背へ身体を預ける。
「怖かった。」
「ええ。」
マリー・アントワネットが答えた。
「何度も、追い出せと言いそうになった。」
「ですが、言いませんでした。」
「彼を残したことが正しいのかは、まだ分からない。」
「それでも、正直に話すことはできました。」
王妃は、机の上に残された罷免命令書の断片を重ねた。
「これは、以前の人生にはなかったことなのでしょう。」
「ああ。」
ルイは頷いた。
「以前の余は、ネッケルへ何も話さなかった。」
「不信も。」
「負い目も。」
「自分も報告書の責任を負っていると思っていたことも。」
「ただ彼を遠ざけた。」
「そして民衆が怒ると、なぜ理解してくれないのだと思った。」
窓の向こうで、空がわずかに白み始めていた。
七月十一日の朝が近づいている。
かつての人生では、この日にネッケルが罷免された。
その知らせがパリへ届き、人々は国王が軍事力による反革命へ踏み切ったと受け取った。
だが、今度は違う。
夜が明けると、国王の名で布告が出された。
財務総監ジャック・ネッケルは、その職に留まる。
国王は財政の現状を憲法制定国民議会へ説明する。
パリ周辺の軍隊は市民への威嚇に用いず、配置を改める。
穀物輸送と公共の安全を守るための部隊を除き、首都へ向けた進軍は行わない。
布告を受け取った廷臣たちは動揺した。
アルトワ伯をはじめとする強硬派は、国王が民衆の圧力へ屈したのだと反発した。
「今ここでネッケルを残せば、群衆は自分たちが国王の人事を決められると思い上がります。」
「次は軍の撤退を要求するでしょう。」
「その次は国王の権限です。」
「譲歩すればするほど、要求は大きくなります。」
ルイは彼らの言葉を聞きながら、何度も喉を鳴らした。
正しいのかもしれない。
ネッケル留任が、王権の弱さを示すことになるかもしれない。
一度譲れば、二度目を求められるかもしれない。
それでも、ルイは決定を撤回しなかった。
「これは、群衆に大臣の任免権を与えるという意味ではない。」
ルイは震える声で答えた。
「余が、自らの判断でネッケルを留任させる。」
「今彼を罷免すれば、軍隊によって国民議会を解散させる準備だと受け取られる。」
「その誤解を生むと知りながら罷免することはできない。」
「陛下は、民衆の誤解にまで責任を負われるのですか。」
「全ての誤解へ責任を負うことはできない。」
ルイは答えた。
「だが、誤解されると分かっていながら、説明もせずに行うのであれば、それは余の責任だ。」
反対する者たちは、なおも言葉を重ねようとした。
だが、マリー・アントワネットが静かに告げた。
「国王は、すでに決断なさいました。」
王妃がネッケル留任を支持したことで、廷臣たちの間にさらに大きな驚きが広がった。
それでも決定は覆らなかった。
その日の午後。
ネッケル留任の知らせが、パリへ届いた。
人々は歓声を上げた。
少なくとも、国王がただちに国民議会を軍隊で解散させるつもりではないという安堵が広がった。
しかし、全ての不安が消えたわけではない。
パンは高い。
仕事はない。
国庫には金がない。
武器を持った兵士は、依然としてパリの周囲にいる。
国王を信用しない者もいる。
ネッケル一人を残したところで、フランスを覆う危機の全てを解決することはできない。
バスティーユを襲撃するための火薬庫は、まだそこにあった。
ルイが消したのは、その火薬庫へ落ちるはずだった一つの火花にすぎない。
未来が変わったのか。
処刑台を避けられたのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ルイ自身にも分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
これまでのルイは、死ぬことが怖くなるたび、誰かを遠ざけてきた。
ネッケルを追放した。
民衆から逃げた。
パリから逃げた。
妻にすら真実を隠した。
だが、この夜、初めて立ち止まった。
恐怖を抱えたまま相手を呼び、自分の過ちを認めた。
ネッケルを留任させたことが、正しい選択だったとは限らない。
それでも、それは処刑台から逃れるためだけの選択ではなかった。
自分が負うべき責任から、もう逃げないための選択だった。
一七八九年七月十一日。
ジャック・ネッケルは罷免されなかった。
そしてルイ十六世は、何度目かの人生で初めて、未来を恐怖だけに選ばせなかった。




