第三十三話 死、そして打ち明けた夜
一七九一年六月二十二日。
ヴァレンヌで拘束されたルイ十六世と王家の一行は、パリへ連れ戻されることになった。
逃亡に使われた大型のベルリン馬車は、今度は国民衛兵と武装した市民に囲まれて西へ進んだ。
誰も歓声を上げなかった。
石を投げる者も、罵声を浴びせる者もほとんどいなかった。
ただ、重い沈黙だけが街道を満たしていた。
ルイにとっては、その沈黙の方が恐ろしかった。
怒号なら、まだ相手が何を考えているのか分かる。
しかし、沿道に並ぶ人々は何も言わない。
国王を憎んでいるのか。
裏切られたと感じているのか。
哀れんでいるのか。
それとも、すでに国王など存在しないものとして見ているのか。
誰の顔からも読み取れなかった。
ルイは馬車の奥で両腕を胸へ巻きつけていた。
ヴァレンヌへ向かう途中で起こした過呼吸の感覚が、まだ残っている。
人の多い町へ入るたび、呼吸が速くなった。
馬車が減速するたび、前回の死が蘇った。
石畳へ倒される。
後頭部を打ちつける。
折れた肋骨が肺へ食い込む。
無数の靴に踏みつけられる。
その記憶に、もう一つの未来が重なっていた。
革命広場。
処刑台。
白く光る斜めの刃。
「また、あそこへ戻る。」
ルイが呟いた。
マリー・アントワネットが夫を見る。
「まだ決まったわけではありません。」
「決まっている。」
「私は知っている。」
ルイはそれ以上、何も説明しなかった。
王妃も尋ねなかった。
ヴァレンヌへ向かう途中から、夫は死を知っている者のような言葉を繰り返していた。
その意味を理解できなくても、尋常ではない恐怖に苦しんでいることだけは分かっていた。
六月二十五日。
王家の馬車はパリへ戻った。
窓という窓が人で埋まり、街路の両側には国民衛兵が並んでいた。
馬車を迎える歓声はなかった。
国王へ敬意を示すために帽子を取る者もいなかった。
ルイは、テュイルリー宮殿へ連れ戻された。
今度は、以前より厳重な監視の下へ置かれた。
逃亡の前まで、国王は革命と共に歩もうとしていると信じる者がいた。
国王と国民議会が協力すれば、立憲君主制を成立させられると考える者もいた。
だが、ヴァレンヌ逃亡はその信用を破壊した。
国王は国民を捨てた。
外国軍と結びつき、革命を潰そうとした。
パリへ残した宣言書も、国王がこれまでの同意を本心では認めていなかった証拠とされた。
ルイの権限は一時停止された。
それでも憲法制定国民議会の多数派は、ただちに王政を廃止しようとはしなかった。
国王が反革命派に誘拐されたという形が作られ、立憲君主制を維持する道が残された。
一七九一年九月。
憲法が成立した。
ルイは憲法へ宣誓し、国王としての権限を回復した。
しかし、以前と同じ国王へ戻ったわけではなかった。
主権は国民に属する。
立法権は議会が持つ。
国王には停止的拒否権が与えられたが、法律を永久に阻止することはできない。
ルイは「フランス国王」ではなく、「フランス人の王」とされた。
表向き、革命と王政は和解した。
だが、失われた信用は戻らなかった。
一七九二年。
フランスはオーストリアへ宣戦した。
戦争は、王政を救うものにはならなかった。
前線から敗北と混乱の報告が届く。
将校の亡命。
兵士の命令拒否。
補給の不足。
敵と通じている者が国内にいるという疑い。
その疑いは、王妃がオーストリア出身であること、王家がヴァレンヌで逃亡を試みたことと結びついた。
国王は敵国と内通しているのではないか。
フランス軍の敗北を望んでいるのではないか。
外国軍をパリへ呼び込み、革命を潰そうとしているのではないか。
六月二十日。
群衆がテュイルリー宮殿へ押し入った。
ルイは大勢の人々に囲まれた。
槍。
銃。
棒。
汗と酒の臭い。
怒鳴り声。
誰かが赤い帽子を差し出した。
ルイは拒まず、自ら頭へ載せた。
机の向こうへ押し込まれながら、群衆の要求を聞いた。
拒否権を撤回しろ。
大臣を戻せ。
革命を裏切るな。
ルイは表面上の平静を保った。
しかし机の下では、両膝が震えていた。
誰かの肩が触れるたび、踏み殺された時の痛みが蘇る。
この日、ルイは殺されなかった。
だが、宮殿の中まで入り込んだ民衆を見て、確信した。
逃亡に失敗した時点で、結末は決まっていた。
八月十日。
武装したパリ市民と連盟兵が、テュイルリー宮殿へ押し寄せた。
鐘が鳴る。
大砲が宮殿へ向けられる。
スイス衛兵が配置につく。
窓の外を見たルイは、逃げることも戦うこともできなかった。
一度は兵士を呼ばずに死んだ。
次には兵士を集め、そのことが暴動の引き金となった。
今、宮殿には自分を守ろうとする兵士がいる。
だが、彼らへ戦わせれば多くの血が流れる。
「国民議会へ避難しましょう。」
側近が勧めた。
ルイは、マリー・アントワネットと子供たちを連れ、議会へ向かった。
国王一家が宮殿を離れた後、戦闘が始まった。
スイス衛兵の多くが殺された。
宮殿は占領された。
王権は停止された。
ルイと家族は、タンプル塔へ幽閉された。
九月二十一日。
国民公会は王政の廃止を決定した。
フランス共和国が成立した。
ルイ十六世という国王は消えた。
残ったのは、「ルイ・カペー」と呼ばれる一人の囚人だった。
一七九二年十二月。
国民公会。
ルイの裁判が始まった。
王権を利用して国民の自由を破壊しようとした。
国民へ対して陰謀を企てた。
外国勢力と接触した。
ヴァレンヌへ逃亡した。
拒否権を用いて革命を妨害した。
テュイルリー宮殿で発見された文書も証拠とされた。
ルイは議場の中央へ立たされた。
議員たちが自分を取り囲んでいる。
前世でも見た光景だった。
一つ一つの罪状が読み上げられる。
ルイは弁明した。
知らなかった。
大臣の責任である。
憲法に認められた権限を行使した。
国民の血を流すことは望んでいなかった。
だが、何を答えても結果が変わらないことを知っていた。
「国民公会は、ルイ・カペーを有罪と認める。」
判決が下された。
続いて刑罰を決める投票が行われた。
死刑。
追放。
拘禁。
死刑執行の延期。
議員たちが一人ずつ壇上へ上がり、自らの票を口にする。
長い夜だった。
ルイはタンプル塔で、結果を待った。
「死刑。」
知らせを聞いても驚かなかった。
身体が震えることもなかった。
恐怖が消えたのではない。
あまりにも長く恐れ続けたため、心が反応できなくなっていた。
「やはり、ここへ戻った。」
それだけを呟いた。
一七九三年一月二十日。
国民公会からの使者が、タンプル塔へ判決を伝えに来た。
刑は翌朝執行される。
ルイは三日間の猶予を求めた。
拒否された。
家族との面会だけは認められた。
夕刻。
マリー・アントワネット。
王妹エリザベート。
王女マリー=テレーズ。
幼いルイ=シャルル。
家族が部屋へ入ってきた。
王妃は夫の顔を見ただけで、判決を悟った。
「いつですか。」
「明日の朝だ。」
マリー・アントワネットの唇が震えた。
子供たちは父へしがみついた。
ルイは一人ずつ抱き締めた。
「泣かないでくれ。」
そう言った本人の声が震えていた。
王妃はルイの手を握った。
「怖いですか。」
ルイはしばらく答えられなかった。
国王としてなら、平静を装うべきだった。
家族を安心させるためなら、死を恐れていないと言うべきだった。
だが、本当は怖かった。
刃が落ちる瞬間を知っている。
首を固定する板の冷たさも知っている。
群衆の怒号も知っている。
一度目の処刑で感じた恐怖が、身体の奥に残っている。
「怖い。」
ルイは初めて、正直に答えた。
「たまらなく怖い。」
マリー・アントワネットは夫の手を強く握った。
何かを尋ねたそうにしていた。
しかし面会時間は限られていた。
ルイは、明日の朝もう一度会うと約束した。
だが、別れの苦しみに耐えられないと考え、翌朝家族を呼ぶことはなかった。
それが最後の面会となった。
一月二十一日。
早朝。
ルイはミサを受けた。
外では軍隊が配置され、処刑場までの道が厳重に警戒されていた。
革命広場にはギロチンが組み立てられている。
午前八時過ぎ。
ルイは馬車へ乗せられた。
隣には聴罪司祭が座った。
太鼓の音が鳴り続けている。
街路の両側には国民衛兵が並び、その向こうを群衆が埋めていた。
ルイは窓から外を見なかった。
目を閉じても、処刑台の姿が見えた。
一度目の人生。
最初の処刑。
刃が落ちた。
その後、時間が戻った。
ネッケルを追放した。
兵を呼ばなかった。
群衆へ説明しようとパリへ入り、石畳で踏み殺された。
もう一度、時間が戻った。
今度は兵を呼んだ。
バスティーユが陥落した。
ヴェルサイユからパリへ連行された。
恐怖に耐えられず、ヴァレンヌへ逃亡した。
捕まった。
そして今、再び処刑台へ向かっている。
何を選んでも、ここへ戻ってきた。
馬車が止まった。
扉が開けられる。
ルイは足を下ろした。
革命広場。
目の前に、ギロチンが立っている。
前世と同じ形。
自分が少しでも苦しまずに済むよう、斜めの刃を提案したことさえあった。
だが今は、その改良された刃が自分を待っていた。
階段を上がる。
死刑執行人が両手を縛ろうとした。
ルイは反射的に抵抗した。
「縛る必要はない。」
声が震えた。
説得を受け、最後には両手を差し出した。
縄が手首へ巻かれる。
逃げられない。
群衆が見ている。
ルイは処刑台の端へ進み、自分は無実であり、フランス国民を赦すと訴えようとした。
だが、命令を受けた太鼓が激しく鳴らされた。
言葉は群衆へ届かなかった。
一度目と同じだった。
伝えようとした言葉は、最後まで誰にも届かない。
死刑執行人たちがルイの身体を押さえた。
首が台へ置かれる。
板が閉じた。
冷たい木が頬へ触れる。
「嫌だ。」
小さな声が漏れた。
国王の言葉ではなかった。
死を恐れる一人の男の言葉だった。
「もう死にたくない。」
上で金属音が鳴った。
ルイの目から涙が流れた。
マリー・アントワネットの顔が浮かんだ。
昨夜、怖いと認めた時、自分の手を握ってくれた妻。
なぜ、もっと早く話さなかったのだろう。
処刑されたこと。
時間が戻ったこと。
群衆に踏み殺されたこと。
未来を変えようとしても、何度も同じ場所へ戻ってきたこと。
狂人だと思われるのが怖かった。
国王として弱さを見せるのが怖かった。
妻にすら、自分の恐怖を知られることが怖かった。
だから全てを一人で抱えた。
一人で決断し、一人で間違え、一人で処刑台へ戻ってきた。
「マリー……。」
刃が落ちた。
一七九三年一月二十一日、午前十時二十二分。
ルイ十六世は、再び処刑された。
「どこへ向かうのです。」
声が聞こえた。
ルイは目を開いた。
目の前に、マリー・アントワネットがいた。
処刑台ではない。
タンプル塔でもない。
テュイルリー宮殿の一室だった。
窓の外は暗い。
机の上には燭台が置かれ、炎が小さく揺れている。
王妃は、心配そうな顔で夫を見つめていた。
「あなた。」
「パリから逃げるとおっしゃいました。」
「どこへ向かうおつもりなのですか。」
ルイは答えなかった。
自分の首へ手を当てる。
つながっている。
手首にも縄の痕はない。
それでも、刃が首を通り抜けた感覚が残っていた。
「今は。」
ルイの声が掠れた。
「今は、いつだ。」
「七月十日です。一七八九年の。」
マリー・アントワネットが答えた。
戻った。
ヴァレンヌ逃亡は。まだ計画は始まっていない。
ネッケルを罷免する前。
バスティーユ牢獄事件の前。
フェルセンへ具体的な準備を命じる前。
大型のベルリン馬車を選ぶ前。
ドルーエに顔を見られる前。
国民から逃亡した王と呼ばれる前。
処刑台へ送られる前。
ルイはマリー・アントワネットを見つめた。
生きている。
タンプル塔で衰弱していた王妃でも、処刑を待つ囚人でもない。
目の前にいる。
手を伸ばせば触れられる。
ルイは突然、王妃へ抱きついた。
「あなた。」
マリー・アントワネットが驚いて身体を強張らせた。
ルイは妻の肩へ顔を埋めた。
全身が震えている。
「生きている。」
「ええ。」
「君が生きている。」
「私は、ここにいます。」
王妃は戸惑いながらも、夫の背中へ両腕を回した。
「どうしたのです。」
「また、何かをご覧になったのですか。」
その問いを聞いた瞬間、ルイは全てを隠そうとした。
いつものように、何でもないと答えようとした。
悪い夢を見ただけだと。
疲れているだけだと。
王として弱みを見せるわけにはいかないと。
だが、処刑台で抱いた最後の後悔を思い出した。
なぜ、もっと早く話さなかったのか。
また黙れば、同じことを繰り返す。
ルイは妻の肩をつかみ、その目を見た。
「聞いてほしい。」
「はい。」
「信じられない夢の話だ。」
「それでも、最後まで聞いてくれ。」
マリー・アントワネットは静かに頷いた。
「聞きます。」
ルイは話し始めた。
最初に処刑されたこと。
革命広場の処刑台へ上がったこと。
群衆からルイ・カペーと呼ばれたこと。
刃が落ち、次に目を覚ました時には、過去へ戻っていたこと。
歴史を変えようとしたこと。
だが、前世の記憶へ囚われ、恐怖から決断を誤り続けたこと。
ネッケルと共に、国民へ誤解を与える財務報告書を作ったこと。
その負い目から、ネッケルを信じられなくなったこと。
民衆がネッケルを求める声を、責任追及の声だと勘違いしたこと。
ネッケルを追放したこと。
史実と違い軍隊を集めなかったこと。
暴動を止めるため、一人でパリへ入ったこと。
そこで群衆に押し倒され、踏み殺されたこと。
胸を潰された痛み。
息ができなくなる恐怖。
石畳の冷たさ。
二度目に目を覚ました時、ネッケルの姿はすでになかったこと。
兵士がいなかったために死んだと考え、今度は慌てて軍隊を集めたこと。
軍隊の存在が民衆の恐怖を煽り、結局バスティーユが襲撃されたこと。
ヴェルサイユへ群衆が押し寄せたこと。
王家がパリへ連れ戻されたこと。
そして、今日。
サン=クルーへ向かう馬車を止められた夜、殺される前に逃げなければならないと即座に決断したこと。
フェルセンとブイエ将軍に協力を求めたこと。
モンメディを目指したこと。
逃亡の途中で恐怖に耐えられず、過呼吸を起こしたこと。
馬車を止めろと叫んだこと。
マリー・アントワネットが、止めずに速度だけを落とすよう命じたこと。
サント=ムヌーでドルーエに顔を見られたこと。
ヴァレンヌで捕まったこと。
国民からの信用を完全に失ったこと。
戦争。
テュイルリー宮殿襲撃。
タンプル塔。
裁判。
死刑判決。
そして、つい先ほど再び処刑されたこと。
ルイは途切れ途切れに話した。
途中で何度も呼吸が乱れた。
言葉にしただけで、身体が死の感覚を思い出した。
マリー・アントワネットは、一度も遮らなかった。
狂っているとも、悪い夢を見ただけだとも言わなかった。
ただ夫の手を握り、最後まで聞いていた。
「君も。」
ルイは涙を流しながら続けた。
「余の後に処刑される。」
王妃の指がわずかに震えた。
「いつですか。」
「余が殺された一年ほど後だ。」
「子供たちは。」
ルイは答えられなかった。
それだけで、王妃は未来が幸福ではないことを悟った。
長い沈黙が流れた。
燭台の炎が揺れている。
ルイは妻の手を離そうとした。
「信じられないだろう。」
「当然だろう。」
「何度も死んだ、などと。」
「余自身にも分からない。」
「神の罰なのかもしれない。」
「同じ間違いを繰り返す臆病な王を、何度も処刑台へ送っているのかもしれない。」
「余は何を選んでも失敗する。」
「兵を呼ばなくても死んだ。」
「兵を呼んでも革命は止められなかった。」
「逃げても捕まった。」
「最後には、必ず処刑される。」
ルイの声が崩れた。
「もう、どうすればよいのか分からない。」
「死にたくない。」
「君にも死んでほしくない。」
「子供たちも失いたくない。」
「だが、余が何かを選ぶたび、もっと悪いことが起きる。」
「余は王になるべきではなかった。」
「余がいるから、皆が死ぬ。」
マリー・アントワネットは席を立った。
ルイは拒絶されたのだと思った。
狂人だと思われた。
王としても夫としても見限られた。
恐怖から顔を上げられなかった。
しかし、王妃は離れていかなかった。
ルイの前へ膝をつき、その頬を両手で包んだ。
「私を見てください。」
ルイは恐る恐る顔を上げた。
マリー・アントワネットの目にも涙が浮かんでいた。
「正直に申し上げれば、時間が戻る理由は分かりません。」
「人が死んだ後、過去へ戻ることが本当にあるのかも分かりません。」
ルイの顔が曇った。
「やはり。」
「ですが。」
王妃は言葉を重ねた。
「あなたが苦しんでいることは分かります。」
「その恐怖が嘘ではないことも。」
「あなたは、群衆を見るたびに胸を押さえていました。」
「馬車が止まるたび、顔色を失っていました。」
「廊下で足音がすると、眠っていても飛び起きました。」
「誰かがあなたの肩へ触れただけで、押すなと叫んだこともありました。」
「ずっと、不思議に思っていたのです。」
王妃の親指が、ルイの涙を拭った。
「あなたは、私たちには見えない何かを恐れていた。」
「今、その理由が分かりました。」
「では、信じてくれるのか。」
「あなたが何度死んだのかを、私には証明できません。」
マリー・アントワネットは静かに答えた。
「けれど、証明など必要ありません。」
「あなたが一人で何度も死を経験し、その記憶を抱えてきたと話している。」
「妻である私が、その苦しみまで疑う必要があるでしょうか。」
ルイの唇が震えた。
「怖くないのか。」
「怖いです。」
王妃は率直に答えた。
「私も処刑されると聞かされて、怖くないはずがありません。」
「子供たちの未来を考えれば、今すぐ逃げ出したいほどです。」
「ですが、あなたはその恐怖を一人で何年も、いいえ、何度もの人生で抱えてきたのでしょう。」
「あなたの方が、ずっと怖かったはずです。」
その言葉を聞いた瞬間、ルイの中で何かが崩れた。
これまで必死に作っていた壁。
国王としての体面。
夫としての虚勢。
未来を知る者としての責任。
全てが崩れ落ちた。
ルイは子供のように泣き始めた。
声を抑えることもできなかった。
「怖かった。」
「ええ。」
「刃が落ちる音が、ずっと聞こえていた。」
「ええ。」
「眠るたび、首を切られる。」
「人が集まると、また踏み殺されると思う。」
「ええ。」
「君に話したかった。」
「でも、狂ったと思われるのが怖かった。」
「話してくださって、ありがとうございます。」
マリー・アントワネットはルイを抱き寄せた。
夫の頭を胸元へ抱え、震える背中をゆっくり撫でた。
「もう、一人で抱えなくてよいのです。」
「だが、余が決めなければならない。」
「国王だから。」
「いいえ。」
王妃は優しく首を横へ振った。
「国王である前に、あなたは私の夫です。」
「私たちは夫婦です。」
「逃げるのであれば、二人で逃げ方を考えましょう。」
「残るのであれば、二人で残る方法を考えましょう。」
「ネッケルを罷免するのであれば、なぜそうするのか一緒に考えましょう。」
「兵士を呼ぶのであれば、その兵士が民衆からどう見えるのかも一緒に考えましょう。」
「あなた一人で、未来の全てに責任を負う必要はありません。」
「余は、何度も間違えた。」
「人は間違えます。」
「王も、王妃も。」
「ですが、間違えたことを話せるなら、次は同じ間違いを避けられるかもしれません。」
「それでも、また処刑されるかもしれない。」
ルイは怯えた声で言った。
マリー・アントワネットは、夫を抱く腕へ力を込めた。
「その時は、あなたを一人で処刑台へ行かせません。」
ルイが顔を上げた。
「そのような意味ではありません。」
王妃は涙を浮かべながら、わずかに笑った。
「一緒に死ぬという意味ではなく、一緒に生きる道を最後まで探すという意味です。」
「あなたは、死なない選択だけを探し続けてきたのでしょう。」
「兵を出せば死なない。」
「逃げれば死なない。」
「ネッケルを遠ざければ裁かれない。」
「けれど、恐怖だけで選んだ道は、いつも別の恐怖を生んでしまった。」
ルイは黙って聞いていた。
「次は、死を避けることだけを目的にしないでください。」
「私たちが、どのような国を残したいのか。」
「子供たちに、どのような未来を渡したいのか。」
「何をすれば、国民に対して恥じずにいられるのか。」
「それを一緒に考えましょう。」
「余にできるだろうか。」
「できるかどうかは、まだ分かりません。」
マリー・アントワネットは正直に答えた。
「ですが、あなたは今、初めて全てを話してくれました。」
「それだけでも、前の人生とは違うのでしょう。」
ルイは、その言葉を胸の中で繰り返した。
前の人生とは違う。
軍隊の有無ではない。
ネッケルを罷免するかどうかでもない。
ヴァレンヌへ逃げるかどうかでもない。
これまでのルイは、未来を知っているという秘密を一人で抱え、恐怖に追い立てられるまま決断していた。
今度は、その秘密を知る者がもう一人いる。
自分の恐怖を理解し、手を握ってくれる者がいる。
「マリー。」
「はい。」
「今夜は、逃げない。」
「分かりました。」
「だが、パリに残ると決めたわけでもない。」
「ええ。」
「まず、考えたい。」
「二人で。」
マリー・アントワネットは微笑んだ。
「二人で考えましょう。」
ルイは再び妻の肩へ顔を預けた。
王妃は何も急かさず、ただ夫の髪を撫で続けた。
やがて、ルイの呼吸が少しずつ落ち着いていった。
吸う。
吐く。
もう胸は押し潰されていない。
首もつながっている。
窓の外に群衆はいない。
耳の奥で鳴り続けていた処刑台の太鼓も、少しずつ遠ざかっていった。
代わりに聞こえてきたのは、夫を抱き締めるマリー・アントワネットの心臓の音だった。
ルイは、何度も過去へ戻った。
だが、自分の秘密を誰かへ打ち明けたのは初めてだった。
処刑台から逃れる方法は、まだ分からない。
革命を止める方法も、王政を救う方法も分からない。
それでも、一つだけ前の人生とは違うことがあった。
今度のルイ十六世は、もう一人ではなかった。
確かマリーアントワネットの処刑は九ヶ月後です




