第三十一話ヴァレンヌ逃亡
逃亡計画は、秘密裏に進められた。
スウェーデン人のアクセル・フォン・フェルセンが準備を担った。
旅行証明書。
変装用の衣服。
街道の宿駅で交換する馬。
東部に配置される護衛部隊。
ブイエ将軍との連絡。
身分を隠すため、王太子の養育係であるトゥルゼル夫人が、ロシア貴族のコルフ男爵夫人を演じることになった。
王家の子供たちは、その娘たち。
マリー・アントワネットは家庭教師。
王妹エリザベートは子供の世話係。
そしてフランス国王ルイ十六世は、男爵夫人に仕える従僕へ姿を変える。
フェルセンは、二台の軽い馬車へ分乗することを提案した。
速く、目立たず、馬の交換も容易になる。
だが、ルイは拒否した。
「家族を分けない。」
「陛下。」
フェルセンが慎重に言った。
「大きな馬車は目立ちます。」
「速度も遅くなります。」
「一台に事故が起きても、もう一台が逃げられるようにすべきです。」
「駄目だ。」
ルイは聞き入れなかった。
一人になることが怖かった。
家族が別の馬車で捕まることも怖かった。
もし群衆に囲まれた時、妻や子供がどこにいるのか分からなくなる。
その想像に耐えられなかった。
「全員で行く。」
その決定により、逃亡には大型のベルリン馬車が用意された。
広く、長旅には耐えられる。
だが重い。
速度が出ない。
多くの馬を必要とし、街道では嫌でも目立つ。
逃亡を決断させたのは恐怖だった。
そして、その逃亡を困難にしたのも恐怖だった。
一七九一年六月二十日。
夜。
テュイルリー宮殿。
ルイは、自室に一通の宣言書を残した。
革命後に認めた多くの措置は、パリで拘束され、自由を奪われた状態で受け入れたものだった。
自分は革命を全面的に否定するのではない。
しかし国王が群衆の監視下に置かれたままでは、自由な同意など存在しない。
その主張を記した文書だった。
ルイ自身にとって、それは弁明だった。
だが国民から見れば、革命と憲法に対する国王の本心を示す文書にもなり得た。
夜が深くなる。
王家の者たちは時間をずらして宮殿を抜け出した。
トゥルゼル夫人が子供たちを連れ出す。
王太子ルイ=シャルルは女児の服を着せられていた。
眠そうな子供たちを、フェルセンが用意した馬車へ乗せる。
ルイも従僕の服をまとい、人目を避けて宮殿を出た。
最後にマリー・アントワネットが姿を現した。
予定より遅れていた。
王妃が馬車へ乗り込むと、フェルセンが手綱を振った。
馬車が動き出す。
宮殿の外へ出た。
見張りを抜けた。
パリの街路を進んだ。
ルイは窓の隙間から、遠ざかっていくテュイルリー宮殿を見つめていた。
「出られた。」
小さく呟く。
「今度こそ。」
胸の奥に、久しく感じなかったものが生まれた。
希望だった。
ボンディで大型のベルリン馬車へ乗り換える。
フェルセンは、そこから別の道を進むことになっていた。
「私が国境まで同行します。」
フェルセンは申し出た。
しかしルイは首を横へ振った。
「計画どおりにしろ。」
「これ以上一緒にいれば、疑われる。」
フェルセンは王妃へ視線を向けた。
マリー・アントワネットは何かを言いかけたが、最後には頷いた。
「お気をつけて。」
それが別れとなった。
ベルリン馬車は、モンメディを目指して東へ進んだ。
だが計画は、すでに遅れていた。
宮殿を出る時間がずれた。
王妃の合流にも時間がかかった。
大型馬車は重く、期待したほど速度が出ない。
宿駅で馬を交換するたび、作業に時間がかかった。
珍しいほど豪華な馬車は、通過する村々で人目を引いた。
当初の予定では、街道の各所にブイエ将軍の騎兵隊が待機しているはずだった。
だが、王家の馬車が予定時刻に現れない。
兵士たちは住民から疑われた。
「なぜ騎兵がいる。」
「誰を待っている。」
「国王が逃げるのではないか。」
噂が生まれる。
兵士たちは長時間待ち続けることができない。
一部の部隊は引き上げ、別の部隊は住民の警戒によって自由に行動できなくなった。
それでも馬車は進んだ。
モー。
シャトー=ティエリ。
シャロン。
パリから遠ざかるほど、ルイの表情はわずかに和らいでいった。
もう群衆は追ってこない。
モンメディへ着けば兵士がいる。
城壁がある。
大砲がある。
今度こそ守られる。
そう思った。
だが、シャロンを過ぎた頃から、再び街道沿いに人が増え始めた。
豪華な馬車を見るため、村人たちが集まっていた。
宿駅へ到着するたび、人々が窓を覗き込む。
「あれは誰だ。」
「ロシアの男爵夫人らしい。」
「ずいぶん大きな馬車だ。」
「従僕にしては、随分と立派な男だな。」
声が聞こえる。
ルイは帽子を深くかぶった。
顔を見られている。
疑われている。
人が集まってくる。
その事実だけで、前世の記憶が蘇った。
石畳。
押し寄せる身体。
怒号。
傾く馬車。
地面へ打ちつけられる身体。
胸へ落ちる足。
「はっ……。」
ルイの呼吸が浅くなった。
「陛下。」
マリー・アントワネットが囁く。
「どうなさいました。」
「人が。」
ルイは窓の外を指した。
「集まっている。」
「ただ馬車を見ているだけです。」
「違う。」
「気づかれた。」
「余を引きずり出すつもりだ。」
「まだ気づかれていません。」
「見ている。」
「全員が余を見ている。」
息が速くなる。
吸っても空気が足りない。
胸が締めつけられ、指先が痺れ始めた。
心臓が激しく打つ。
視界が狭くなる。
「止めろ。」
ルイが叫んだ。
「馬車を止めろ。」
御者台の従者が振り返った。
「陛下。」
「今すぐ止めろ。」
「降りる。」
「隠れる。」
「これ以上進めば見つかる。」
馬車が減速しかけた。
その瞬間、マリー・アントワネットが窓を開けた。
「止めてはいけません。」
御者へ、はっきりと言う。
「しかし、国王陛下が。」
「停止ではありません。」
王妃は言い直した。
「速度だけ落としてください。」
「馬車を揺らさない程度に。」
「決して止めないで。」
御者は手綱を調整した。
馬車の速度が落ちた。
だが、車輪は回り続けた。
マリー・アントワネットはルイの首元へ手を伸ばし、きつく締められていた布を緩めた。
「私を見てください。」
「無理だ。」
「息ができない。」
「吸おうとしすぎています。」
王妃はルイの手を握った。
「ゆっくり吐いてください。」
「馬車は動いています。」
「誰も扉を開けていません。」
「あなたは石畳へ倒れていません。」
ルイは王妃の言葉に合わせようとした。
しかし息を吐こうとするほど、死の記憶が鮮明になる。
「止まりたい。」
「止めてはいけません。」
「怖い。」
ルイが絞り出すように言った。
王妃は一瞬黙った。
それから夫の頭を、自分の肩へ引き寄せた。
「分かっています。」
「それでも進まなければなりません。」
子供たちは怯えた目で父親を見ていた。
王妹エリザベートは窓の覆いを閉じ、人々から車内が見えないようにした。
馬車は通常より遅い速度で街道を進んだ。
止まりはしなかった。
だが、ただでさえ遅れていた逃亡計画は、さらに時間を失った。
夕刻。
王家の馬車はサント=ムヌーへ到着した。
馬の交換が行われる。
宿駅長のジャン=バティスト・ドルーエが、一行を見つめていた。
豪華な大型馬車。
ロシア貴族を名乗る女。
その従僕を装った、恰幅のよい男。
ルイは顔を伏せていた。
しかし過呼吸の名残で身体から力が抜け、姿勢を保てなかった。
ふと顔を上げる。
ドルーエと目が合った。
ルイの背筋が凍った。
見られた。
その男は、自分を見ている。
「出せ。」
ルイが御者へ囁いた。
「すぐに出せ。」
馬の準備が終わる。
馬車が動き出した。
ルイは後方を振り返った。
ドルーエは、まだこちらを見ていた。
「気づかれた。」
「まだ分かりません。」
マリー・アントワネットはそう答えた。
だが、王妃の顔も強張っていた。
ドルーエは記憶を辿っていた。
国王の肖像。
宮廷で見た顔。
重い顎。
鼻の形。
何より、周囲の者がその従僕へ向ける態度。
ただの従僕ではない。
「国王だ。」
やがてドルーエは確信した。
王家の馬車がサント=ムヌーを離れた後、ドルーエは仲間と共に馬へ乗った。
近道を使い、ヴァレンヌへ先回りする。
夜。
王家の馬車はクレルモンを通過した。
その先にはヴァレンヌがある。
モンメディまで、あとわずか。
ルイは窓の外の暗闇を見つめていた。
「追っ手は。」
「見えません。」
従者が答える。
「間に合う。」
ルイは自分へ言い聞かせた。
「モンメディへ着けば、もう誰にも止められない。」
しかし、ヴァレンヌへ到着すると問題が起きた。
予定されていた馬が見つからない。
次の中継場所も混乱していた。
疲れ切った馬を休ませなければ、その先へ進むことは難しい。
ベルリン馬車が止まった。
「なぜ止まった。」
ルイの声が震えた。
「馬を休ませなければ進めません。」
「止めるな。」
「進め。」
「馬が潰れます。」
「それでも進め。」
御者たちが相談している間にも、時間は過ぎていった。
やがて前方から人の声が聞こえた。
ドルーエは、すでにヴァレンヌへ到着していた。
町の住民へ国王の逃亡を知らせ、通路を塞がせていた。
警鐘が鳴った。
家々の扉が開く。
武器を持った住民が集まってくる。
「来た。」
「国王の馬車だ。」
ルイの顔から血の気が引いた。
「引き返せ。」
御者が馬車を回そうとする。
だが、後方にも人が集まり始めていた。
逃げ道がない。
「兵士は。」
ルイが叫んだ。
「護衛部隊はどこだ。」
誰も答えられなかった。
待機しているはずだった王党派の部隊は、予定の遅れと住民の警戒によって、すでに配置を崩していた。
馬車の扉が叩かれた。
ルイは身体を縮めた。
前回と同じだった。
止まった馬車。
周囲を囲む群衆。
扉へ伸びる手。
「開けるな。」
ルイは叫んだ。
「絶対に開けるな。」
町の役人たちは旅行証明書を確認すると主張した。
強引に突破すれば、住民を馬でひくことになる。
銃を使えば流血になる。
マリー・アントワネットが夫を見た。
「ここで戦えば、子供たちも危険です。」
ルイは震えていた。
逃げるためには進まなければならない。
だが群衆へ馬車を突進させることも、兵士へ射撃を命じることもできなかった。
その先に何があるのかを、ルイは知っていた。
誰かが倒れる。
怒号が上がる。
群衆が押し寄せる。
馬車が止まる。
扉が開く。
そして自分は再び地面へ落ちる。
恐怖が、命令を封じた。
扉が開けられた。
王家の一行は、町の役人ソースの家へ移された。
旅行証明書が調べられた。
トゥルゼル夫人はコルフ男爵夫人として振る舞い続けた。
マリー・アントワネットも家庭教師の役を崩さない。
「我々は急いでおります。」
「通していただきたい。」
しかし町の住民は納得しなかった。
やがて、かつてヴェルサイユで国王を見たことのある人物が呼ばれた。
男は部屋へ入った。
従僕の服を着たルイを見る。
その瞬間だった。
男の身体が反射的に動いた。
膝を折りかける。
室内が静まり返った。
もはや否定できなかった。
「陛下。」
男の声が震えた。
ルイは目を閉じた。
モンメディまで、あとわずかだった。
忠実な軍隊。
城壁。
安全な要塞。
群衆の届かない場所。
その全てが、ほんの少し先にあった。
だが、もう進めない。
ルイはゆっくりと立ち上がった。
「そうだ。」
掠れた声で言った。
「余が国王だ。」
外では警鐘が鳴り続けていた。
武装した国民衛兵と住民が家を取り囲んでいる。
馬車は押さえられ、馬も自由には使えない。
王家の者たちは完全に逃げ道を失っていた。
一七九一年六月二十一日。
ルイ十六世とその家族は、ヴァレンヌで拘束された。
群衆に殺されることを恐れたルイは、誰よりも早く逃亡を決断した。
だが、その恐怖は旅の途中で呼吸を乱し、逃亡を遅らせた。
そして最後には、群衆を押し退ける命令を出すことさえできなくした。
ルイは二度、死を経験していた。
一度目はギロチンによって。
二度目は群衆の足によって。
死を知っていたからこそ、生き残るために逃げた。
それでも、また同じ町で捕まった。
ヴァレンヌの暗い部屋で、ルイは窓の外を見つめた。
外には人々が集まっている。
誰もまだ、国王を殺せとは叫んでいなかった。
それでもルイの耳には、あの日の声が聞こえていた。
「王を殺せ。」
「共和国万歳。」
「市民ルイ・カペー。」
ルイは両手で耳を塞いだ。
だが声は消えなかった。
逃亡は終わった。
そしてルイには分かっていた。
この先に何が待っているのかを。
裁判。
有罪判決。
コンコルド広場。
太鼓。
刃。
処刑台へ続く道が、再びルイの前に現れていた。




