第二十九話 戻された七月十一日ーー今度は兵を
まだまだ続きますよー
暗い。
息ができない。
胸が押し潰されている。
無数の靴が背中を踏みつけ、折れた肋骨が肺へ食い込んでいた。
石畳へ流れた血が頬に触れる。
遠くで鐘が鳴り、群衆の叫びが重なっていた。
「ネッケルを戻せ。」
「国王は我々を欺いた。」
「押すな。」
「国王が倒れている。」
ルイは助けを求めようとした。
しかし、喉から出たのは血を含んだ息だけだった。
最後に見えたのは、雲一つない夏の空。
そして、全てが白く消えた。
「――っ。」
ルイは大きく息を吸い込んだ。
身体が跳ね上がる。
両手が何かをつかもうと宙をさまよい、机の上に積まれていた書類を床へ落とした。
羽根ペンが転がった。
インク壺が倒れ、黒い液体が机の上へ広がっていく。
「はっ……はっ……。」
息が止まらない。
ルイは胸を押さえた。
肋骨は折れていない。
誰にも踏まれていない。
後頭部にも傷はなかった。
目の前にあるのは、パリ市庁舎前の石畳ではない。
ヴェルサイユ宮殿。
国王執務室。
窓の外には、夕暮れに沈む庭園が広がっている。
「生きている……。」
震える手で自分の顔へ触れる。
温かい。
血も流れていない。
胸へ触れる。
骨は潰れていない。
息もできる。
それでも身体は、まだ踏みつけられているように痛んだ。
「また……戻ったのか。」
机の上へ目を向ける。
封をされた命令書。
新しい閣僚名簿。
古いコンプト・ランデュ。
そして、床へ落ちた罷免状の写し。
そこには、つい先ほど自分が書いた署名があった。
ルイ=オーギュスト。
インクは、まだ完全には乾いていない。
ルイの顔から血の気が引いた。
「ネッケル。」
死ぬ直前に聞こえた群衆の声が蘇る。
ネッケルを戻せ。
国王は我々を欺いた。
「ネッケル……。」
ルイは椅子を蹴るように立ち上がった。
「ネッケル。」
大声で呼びながら扉へ駆け寄る。
勢いよく扉を開けると、控えていた侍従たちが驚いて振り返った。
「陛下。」
「ネッケルはどこだ。」
「は。」
「ネッケルだ。」
ルイは侍従の肩をつかんだ。
「今すぐ連れ戻せ。」
「しかし、陛下ご自身が国外退去を。」
「命令を取り消す。」
「すぐに探せ。」
「宮殿の門を閉じろ。」
「馬車を止めろ。」
「まだ遠くへは行っていないはずだ。」
侍従は戸惑いながら頭を下げた。
「直ちに。」
数人の侍従が廊下を走っていった。
ルイも、その後を追おうとした。
しかし足がもつれ、壁へ肩をぶつけた。
石畳で踏みつけられた感覚が、まだ身体に残っている。
息をするたび、折れていないはずの肋骨が痛んだ。
「陛下。」
別の侍従が身体を支えようとした。
「触るな。」
ルイは反射的にその手を振り払った。
「余を押すな。」
「誰にも踏ませるな。」
侍従は意味が分からず、その場で立ち尽くした。
宮殿中を探させた。
ネッケルの執務室。
控えの間。
財務関係者が使用する部屋。
馬車の待機所。
宮殿の門。
近隣の宿舎。
しかし、ネッケルの姿はどこにもなかった。
罷免を告げられたネッケルは、国王の命令どおり、すぐに宮殿を離れていた。
妻を伴い、国外へ向かうための馬車へ乗ったという。
どの道を通ったのか。
最初にどこへ向かったのか。
秘密裏の退去だったため、知る者は限られていた。
やがて、一人の侍従が戻ってきた。
「陛下。」
「ネッケル殿の馬車は、すでにヴェルサイユを出ております。」
「追え。」
「騎馬の使者を出しております。」
「一人では足りない。」
「全ての街道へ出せ。」
「パリ方面。」
「サン=ドニ方面。」
「東へ向かう道も、北へ向かう道も探せ。」
ルイの声は裏返っていた。
「必ず見つけろ。」
「生きて余の前へ連れ戻せ。」
「承知いたしました。」
侍従が去る。
ルイは廊下に立ち尽くした。
見つからない。
すでにいない。
そして、死ぬ直前の光景が蘇った。
ネッケルを追放した。
パリが怒った。
自分は軍隊を動かさなかった。
民衆を刺激してはいけないと思った。
兵を集めれば、かえって暴動を起こすと思った。
だから何もしなかった。
そして。
守る者のいないパリへ、自分から入った。
銃声。
逃げ惑う人々。
馬車の傾く音。
後頭部へ走った衝撃。
石畳。
押し寄せる身体。
胸を踏みつける足。
何度も。
何度も。
何度も。
「余は死んだ。」
ルイは小さく呟いた。
「兵士がいなかったから。」
その考えが、頭の中で急速に膨らんだ。
軍隊を集めたから革命が起きたのではない。
軍隊を集めなかった今回も、暴動は起きた。
それどころか、止める者がいなかったために混乱は広がった。
そして自分まで死んだ。
ならば。
今度は逆をやればいい。
兵士を置く。
暴動が始まる前に街路を押さえる。
武器庫を守る。
火薬庫を守る。
群衆が集まる前に散らす。
そして。
自分へ近づけない。
「そうだ。」
ルイは呟いた。
「最初から止めればいい。」
その瞬間、一度目の人生の記憶まで蘇った。
国民議会。
革命。
テュイルリー宮殿。
王権停止。
裁判。
処刑台。
太鼓。
刃。
革命は、最後には自分を殺す。
それをルイは知っている。
今回も、形は違っても殺された。
ギロチンではない。
群衆の足だった。
だが、革命の中で死んだことに変わりはない。
「革命が始まるから、余は死ぬ。」
ルイは自分へ言い聞かせた。
「ならば、革命を始めさせなければいい。」
単純な答えに見えた。
まだバスティーユは落ちていない。
まだ国王はパリへ連れていかれていない。
まだ王権は残っている。
まだ軍隊もある。
まだ間に合う。
未来を知っている自分なら、革命がどこから広がるのか分かる。
アンヴァリッド。
バスティーユ。
パリ市庁舎。
街路。
橋。
徴税障壁。
人が集まる場所。
武器のある場所。
そこを先に押さえればいい。
革命が自分を殺す未来があるのなら。
その未来より先に、革命を潰せばいい。
「誰か。」
ルイが叫んだ。
「ブロイ公を呼べ。」
「バランタンも。」
「アルトワ伯も呼べ。」
「今すぐだ。」
ほどなくして、ブロイ公たちが国王執務室へ集められた。
つい先ほどまで、ルイは軍の増派を拒否していた。
それだけに、突然の呼び出しを受けた彼らの表情には疑念が浮かんでいた。
ブロイ公が頭を下げる。
「陛下。」
「お呼びでしょうか。」
「兵を集めろ。」
ルイは挨拶を待たずに命じた。
「パリとヴェルサイユの周囲へ、可能な限りの兵士を呼びつけろ。」
ブロイ公が顔を上げた。
「先ほど、増派は認めないと。」
「命令を変える。」
「直ちに動け。」
「どの程度の兵力をお望みでしょうか。」
「全てだ。」
「陛下。」
「使える部隊を全て集めろ。」
ルイは机の上へ地図を広げた。
震える指で、次々と地点を示す。
「サン=ドニ。」
「セーヴル。」
「シャン・ド・マルス。」
「チュイルリー。」
「ヴェルサイユ。」
「パリへ通じる主要街道。」
「橋。」
「徴税障壁。」
「市庁舎。」
「アンヴァリッド。」
その名を口にした瞬間、一度目の人生の記憶が蘇った。
七月十四日。
群衆はアンヴァリッドから数万挺の小銃を奪った。
その後、火薬を求めてバスティーユへ向かった。
「アンヴァリッドを最優先で守れ。」
ルイは地図を叩いた。
「小銃を一挺も渡すな。」
「火薬庫もだ。」
「バスティーユの火薬を移すか、守備兵を増やせ。」
ブロイ公は王の切迫した様子に圧倒されながらも、軍人として確認を続けた。
「フランス人部隊だけでは、十分な数を直ちに揃えられません。」
「スイス人部隊やドイツ人部隊も動かしますか。」
ルイの喉が動いた。
外国人部隊。
一度目の人生では、民衆が最も恐れた存在だった。
フランス人への発砲をためらわない兵士。
国王が国民議会を武力で解散させるために呼び寄せたのだと受け取られた兵士たち。
その姿を見たパリの人々は、武装しなければならないと考えた。
本来なら、ここで拒否するべきだった。
そのことをルイ自身も知っていた。
だが、もう一つの記憶が、それ以上に鮮明だった。
踏みつけられる自分。
群衆に埋もれ、誰にも助けてもらえない自分。
肺へ空気が入らず、誰かの靴底だけが視界を埋めていく。
「動かせ。」
ルイは答えた。
「使える者は全て動かせ。」
「外国人部隊もですか。」
「ああ。」
「余の命令に従う部隊なら、どこの生まれでも構わない。」
アルトワ伯が満足そうに頷いた。
「ようやく、ご決断なさいましたか。」
ルイは弟を見なかった。
これは王権を取り戻すためではない。
国民議会を解散させるためでもない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
ただ。
死にたくない。
そのためだった。
だが、心の奥では別の考えも芽生え始めていた。
自分を殺すものが革命なら。
革命を放置してはいけない。
「ただし、発砲は許さない。」
ルイは急いで付け加えた。
「民衆から攻撃された場合を除き、銃を撃ってはならない。」
「銃剣も向けるな。」
「街路を確保し、群衆を解散させるだけだ。」
ブロイ公の表情が曇った。
「群衆が解散を拒否した場合は。」
「押し戻せ。」
「投石を受けた場合は。」
「盾で防げ。」
「兵士が襲われた場合は。」
「その時は……。」
ルイは言葉に詰まった。
軍隊を出す。
だが、撃たせない。
そんな都合のよい命令が、暴動の中で守られるとは限らない。
一人の兵士が恐怖に負けて引き金を引けば、周囲も続く。
一発の銃声が、パリ全体を戦場へ変える。
死ぬ直前に聞いた銃声が蘇った。
「やむを得ない場合に限り、自衛を認める。」
ルイは苦しそうに答えた。
それが、どれほど曖昧な命令なのか。
ルイ自身にも分かっていた。
どこからが自衛なのか。
誰が、やむを得ないと判断するのか。
命令を受ける現場の兵士には分からない。
だが、恐怖に追われるルイにも、より明確な基準を示すことはできなかった。
「急げ。」
ルイは繰り返した。
「今夜のうちに配置を始めろ。」
「暴動が起きてからでは遅い。」
ブロイ公は軍人らしく姿勢を正した。
「承知いたしました。」
「各部隊へ、直ちに命令を伝えます。」
「夜明けまでには、先発部隊を主要地点へ配置いたします。」
「もっと早く。」
「可能な限り急がせます。」
ブロイ公たちが退出しようとした時、ルイが呼び止めた。
「余の周囲にも兵を置け。」
全員が振り返った。
「宮殿の門。」
「階段。」
「廊下。」
「執務室の前。」
「寝室の前にもだ。」
「誰も、許可なく余へ近づけるな。」
「国民議会の議員もですか。」
「誰もだ。」
ルイは震えながら答えた。
「群衆を宮殿へ入れるな。」
「余をパリへ連れ出させるな。」
「余を地面へ倒させるな。」
最後の言葉は、命令ではなかった。
懇願だった。
その夜。
ヴェルサイユと周辺の兵営から、伝令が次々と出発した。
騎馬の使者が街道を駆けた。
休暇中の士官には帰隊命令が下された。
兵士たちは眠りから起こされ、武器と弾薬を支給された。
スイス人部隊。
ドイツ人部隊。
騎兵。
歩兵。
砲兵。
国王の命令により、各地の部隊がパリとヴェルサイユへ向かい始めた。
ルイは執務室の窓から、松明を掲げた兵士たちが宮殿へ到着する様子を見つめていた。
整然と並ぶ銃。
揃って鳴る軍靴。
門の前へ立つ歩哨。
前回にはなかった光景だった。
「これでよい。」
ルイは自分へ言い聞かせた。
「今度は守られる。」
「誰にも近づかせない。」
「暴動が起きても、兵士が止める。」
それでも、手の震えは止まらなかった。
ルイは窓硝子に映る自分の顔を見つめた。
処刑台で死んだ。
群衆にも殺された。
二度とも、革命の中だった。
「三度目はない。」
ルイは小さく呟いた。
「今度は先に止める。」
自分を守るために集めた銃が、窓の外で黒く光っている。
その銃口が、やがて誰へ向けられるのかは分からなかった。
翌朝。
パリへ向かう街道で、住民たちは行進する兵士を見つけた。
最初は一個小隊だった。
その後ろから、さらに別の部隊が現れた。
騎兵の蹄が土煙を上げる。
荷車には弾薬箱が積まれている。
フランス語ではない言葉を話す兵士もいた。
知らせは、部隊よりも速くパリへ届いた。
「国王が軍隊を集めている。」
「外国人部隊もいる。」
「ネッケルを追放した直後だ。」
「次は国民議会が襲われる。」
「議員たちを捕らえるつもりだ。」
「パリを包囲し、食糧を断つつもりだ。」
ルイは、自分を守るために兵士を呼んだ。
そして、革命が自分を殺す前に、その芽を摘み取ろうとしていた。
だが、民衆には当然そうは見えなかった。
改革派の大臣を追放した。
その直後に軍隊を集めた。
二つの出来事を結びつければ、王が武力による反撃を始めたと考えるのが自然だった。
前回、軍隊を呼ばなかったルイは、守る者を失って死んだ。
その死を避けるため、今度は可能な限り多くの兵士を呼び集めた。
しかしルイは、また一つ勘違いをしていた。
兵士は、王の命令だけを実行する存在ではない。
その姿を見た人々が何を恐れ、何を選ぶのかまで、国王が命令できるわけではない。
王にとっては盾だった。
民衆にとっては、自分たちへ向けられた剣だった。
ヴェルサイユ宮殿の窓辺で、ルイは銃を持つ兵士たちを見下ろしていた。
「今度こそ、死なない。」
そう呟いた。
そして、もう一つ。
誰にも聞こえない声で続けた。
「革命になる前に、潰してしまえばいい。」
その頃、パリでは、武器を取るべきだという声が広がり始めていた。
ルイを守るために鳴り響く軍靴の音は、同時に革命を呼び寄せる足音となっていた。
はい。死に戻り系です。




