第二十八話 ネッケル追放、そして
一七八九年七月。
ヴェルサイユ宮殿。
六月二十七日、ルイ十六世が聖職者と貴族の代表へ合同審議を命じたことで、三部会は事実上その役割を終えていた。
七月九日。
国民議会は、自らを憲法制定国民議会と位置づけた。
もはや議員たちが目指しているのは、財政危機を乗り越えるための一時的な協議ではなかった。
フランスという国家そのものを、新たに作り直すことだった。
国王の権限。
議会の権限。
税を決める権利。
法律を作る権利。
軍隊を動かす権限。
国民を代表する者が誰なのか。
それら全てを、成文憲法によって定めようとしていた。
王権は譲歩した。
三身分は合同した。
それでも、国民の不安は消えなかった。
むしろ政治が動き始めたことで、それまで押し込められていた不満が一斉に噴き出していた。
パンの価格は依然として高い。
職を失った労働者が街角にあふれている。
工房の閉鎖が相次ぎ、日雇い仕事を奪い合う者が増えている。
地方からパリへ運ばれる小麦の量が少し減っただけで、飢餓を起こすための陰謀だという噂が広がった。
国庫には金がない。
税収は滞り、徴税請負人も地方官も、いつまで従来の制度が続くのか分からず混乱している。
国債の返済日は迫っている。
役人、兵士、年金生活者への支払いも待ってはくれない。
一方、宮廷では、パリとヴェルサイユ周辺へ軍隊を集めるべきだという意見が強まっていた。
暴動を防ぐため。
王宮を守るため。
国民議会の暴走を抑えるため。
どれも理由としては正しかった。
しかしルイには、地図の上に置かれる部隊の印が、血の染みのように見えた。
軍隊を集める。
民衆がそれを恐れる。
民衆が武器を取る。
軍隊が発砲する。
最初の死者が出る。
そしてフランス全土が燃え上がる。
前世で見た光景が、まだ起きてもいない未来として、鮮明に脳裏へ浮かんでいた。
ルイは、軍隊を呼ばなかった。
外国人部隊をパリの近くへ移動させることも認めなかった。
ヴェルサイユとパリの通常警備に必要な兵士だけを残し、それ以上の増派を禁じた。
軍隊さえ集めなければ、民衆も国民議会も、王が武力弾圧を企てているとは考えない。
少なくとも、史実と同じ形の暴動は避けられる。
ルイは、そう信じようとしていた。
⸻
七月十日。
国王執務室。
ルイの前には、王弟アルトワ伯、国璽尚書バランタン、ブロイ公らが集まっていた。
机の上には軍配置を示す地図が広げられていたが、史実とは異なり、パリの周辺を取り囲む赤い印はほとんど存在しなかった。
ブロイ公が地図を指し示した。
「陛下。」
「今からでも遅くはございません。」
「最低限、サン=ドニ、シャン・ド・マルス、セーヴルへ部隊を配置すべきです。」
ルイは首を横へ振った。
「認めない。」
「しかし、パリの治安は急速に悪化しております。」
「兵士を集めれば、民衆は国民議会を解散させるためだと思う。」
「王室の意図を説明すればよろしいのです。」
「もう、王室の説明だけで信じてもらえる時代ではない。」
ルイの言葉に、部屋が静まり返った。
国王自身が、王室の言葉に信用がないと認めたからだった。
アルトワ伯が苛立ちを隠さずに言った。
「だからこそ、力を示す必要があるのです。」
「国民議会は、陛下の許可なく憲法を作ろうとしております。」
「今日譲れば、明日は課税権を奪われます。」
「明後日には軍の統帥権を奪われ、その次には王冠そのものを奪われるでしょう。」
「分かっている。」
「では、なぜ何もなさらないのです。」
「何もしないのではない。」
ルイは震える指で机の端をつかんだ。
「軍隊を使わずに、王権を守る道を探している。」
「そのような道が、本当に存在するとお考えですか。」
ルイは答えられなかった。
存在するとは言い切れなかった。
だが、軍隊を民衆へ向けた先に何が待っているのかだけは知っていた。
血。
憎悪。
牢獄。
裁判。
処刑台。
人形で済むのなら、まだよかった。
前世の自分は、人形としての価値さえ失った末に殺された。
バランタンが、別の書類を机の上へ置いた。
「陛下。」
「軍隊とは別に、もう一つご決断いただかなければならない問題がございます。」
書類には、一人の男の名前が記されていた。
ジャック・ネッケル。
ルイの身体が強張った。
その名前を見ただけで、胸の奥に沈めていた記憶が蘇った。
一七八一年。
『国王への財務報告書』。
コンプト・ランデュ。
通常歳入と通常支出だけを比較し、王国の財政には余剰があるように見せた報告書だった。
数字の全てが架空だったわけではない。
通常会計だけを見れば、黒字だと説明する余地はあった。
だが、アメリカ独立戦争に伴う巨額の臨時支出は、その中心的な収支から外されていた。
戦争を続けるための借入。
将来の国庫を圧迫する利払い。
次々と迫る償還期限。
それらを十分に示さないまま、フランス財政が健全であるかのような印象を与えた。
ネッケル一人が作った嘘ではなかった。
ルイも内容を知っていた。
国家の信用を維持し、戦争資金を借り続けるために必要だと考え、国王として公表を認めた。
ネッケルと共に、国民へ誤解を与える報告書を作り上げた。
その負い目が、ルイの心には残り続けていた。
短期的には成功した。
公債は売れた。
フランスは戦争を継続できた。
アメリカは独立し、フランスは勝者の側に立った。
だが、数年後にカロンヌが本当の財政危機を説明しても、人々は信じなかった。
ネッケルは黒字だと言ったではないか。
新税は宮廷の浪費を隠すためではないのか。
財政危機そのものが、貴族へ課税するために作られた嘘ではないのか。
信用を維持するために作られた報告書が、後の改革に必要な信用を食い潰した。
ルイにとって、あの報告書は成功ではなかった。
王国を救うためについた、取り返しのつかない嘘だった。
「ネッケルを、どうしろと言うのだ。」
ルイが尋ねた。
バランタンが答えた。
「罷免すべきだという意見が、宮廷内で強まっております。」
「六月二十三日の王室会議を欠席し、陛下の方針へ公然と反対いたしました。」
「国民議会への譲歩を求め、軍隊の使用にも反対しております。」
「何より、その人気は危険な水準に達しております。」
アルトワ伯が言葉を継いだ。
「今やパリの民衆は、国王陛下よりもネッケルを信じております。」
「一人の大臣が人気によって王権を動かせるようになれば、それはもはや大臣ではありません。」
「陛下の上に立つ、もう一人の王です。」
ルイはネッケルの名前を見つめた。
民衆はネッケルを求めていた。
「ネッケルを呼び戻せ。」
「ネッケルならフランスを救える。」
「ネッケルに財政を任せろ。」
一年前、ブリエンヌが辞任し、国家信用が崩壊しかけた時にも、同じ声が上がった。
その声に押されるようにして、ルイはネッケルを再び財政責任者へ呼び戻した。
だが、本音を言えば、呼び戻したくなかった。
ネッケルを信じられなかったからではない。
正確には、もう一度信じるだけの勇気が、ルイの中に残っていなかった。
あの報告書を作った二人が、再び同じ机へ向かう。
そのこと自体が、過去の罪を突きつけられているように思えた。
ネッケルの人気も、ルイには信用の証しには見えなかった。
薄い紙の上に書かれた黒字を信じた人々が、今度はその紙を書いた男に全てを解決させようとしている。
それは期待であると同時に、責任の追及なのではないか。
「ネッケルを出せ。」
「ネッケルを呼べ。」
民衆の叫びは、本当なら救済者を求める声だった。
しかし、負い目に囚われたルイには別の意味に聞こえた。
偽りの報告書を書いた男を出せ。
我々を欺いた責任を取らせろ。
そして、報告書を認めた国王にも責任を取らせろ。
ルイの指先が震え始めた。
ネッケルが宮廷にいる限り、報告書の記憶は消えない。
彼の人気が高まるほど、ルイ自身の罪も人々の前へ引き出される。
何よりネッケルには、財政を立て直すだけの信用が残っているようには思えなかった。
民衆からの人気はある。
しかし金融家、宮廷、国民議会、地方行政を一つにまとめ、破綻寸前の国家を支えるほどの信用ではない。
その人気も、報告書が生み出した幻想の上に築かれている。
幻想が崩れれば、救世主は一夜で詐欺師へ変わる。
その時、ネッケルだけでは済まない。
国王も共犯者として引きずり出される。
「罷免状を。」
ルイが言った。
バランタンが顔を上げた。
「陛下。」
「ネッケルを罷免する。」
アルトワ伯の表情が明るくなった。
だが、ブロイ公は慎重に尋ねた。
「それでは、軍隊の配置も進めてよろしいでしょうか。」
「駄目だ。」
ルイは即座に答えた。
「兵は呼ばない。」
「ネッケルを罷免しながら、軍隊も置かないとおっしゃるのですか。」
「ああ。」
「それは危険です。」
「軍隊を集める方が危険だ。」
ルイは震える声で続けた。
「民衆が暴動を起こすのは、王が軍隊で国民議会を潰そうとしていると思うからだ。」
「ならば、兵を呼ばなければよい。」
「ネッケルの罷免は、あくまで大臣の交代だ。」
「軍隊を伴わなければ、武力による反革命とは受け取られない。」
ブロイ公は眉をひそめた。
「陛下。」
「民衆が怒る理由は、軍隊だけではございません。」
「分かっている。」
ルイは答えた。
だが、本当には分かっていなかった。
前世の記憶が、彼の考えを一つの結論へ縛りつけていた。
ネッケル罷免。
軍隊の集結。
民衆の武装。
バスティーユ襲撃。
それが史実の連鎖だった。
ならば軍隊だけを取り除けば、同じ結果にはならない。
ルイは、そう考えた。
恐怖に囚われた人間は、過去と同じ危険ばかりを見る。
形を変えて近づいてくる危険には、なかなか気づけない。
「罷免状へ署名する。」
ルイは羽根ペンを取った。
手が震え、最初の一画が歪んだ。
一度目の人生でも署名した書類だった。
その先に何があったのかを知りながら、ルイは再び自分の名を書いた。
ただ一つ、史実と違うことがある。
今度の彼は、軍隊を呼ばなかった。
その違いだけが、自分を救うと信じた。
⸻
その日の夜。
ネッケルは、急な呼び出しを受けて国王執務室へ入った。
部屋にはルイ一人しかいなかった。
机の上には、封をされた命令書が置かれていた。
ネッケルは、その書類を見ただけで意味を悟った。
「陛下。」
静かに頭を下げる。
「私をお呼びでしょうか。」
「ああ。」
ルイは椅子を勧めなかった。
ネッケルも座ろうとはしなかった。
「君を罷免する。」
ルイは最初から告げた。
「命令を受け取り次第、フランスを離れよ。」
ネッケルの顔から表情が消えた。
「理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「六月二十三日の王室会議を欠席した。」
「余の方針へ反対した。」
「国民議会へ譲歩しすぎている。」
「それが、公式な理由でございますか。」
「そうだ。」
「では、陛下ご自身の理由は。」
ルイは答えられなかった。
ネッケルは逃げずに王を見つめていた。
「陛下は、私を再びお呼びになった時から、私を信用しておられませんでした。」
ルイの肩が小さく揺れた。
「気づいていたのか。」
「はい。」
「報告を申し上げるたび、陛下は私の数字ではなく、その数字の裏側を見ておられました。」
「当然だ。」
ルイの声がわずかに荒くなった。
「一七八一年、我々は国民へ全体を見せなかった。」
「通常会計の黒字だけを示し、戦争の借金をその外側へ置いた。」
「国民はフランスが豊かだと思った。」
「改革など必要ないと思った。」
「後に財政危機を説明しても、誰も信じなくなった。」
「私は、戦争を続けるために必要だと判断しました。」
ネッケルは静かに答えた。
「国家が破綻寸前だと公表すれば、金融家は公債を買わなくなります。」
「資金を失えば、フランスは戦争から脱落していたでしょう。」
「分かっている。」
「では、なぜ。」
「分かっているから苦しいのだ。」
ルイは机を叩いた。
羽根ペンが転がり、床へ落ちた。
「君が勝手に作った嘘なら、君だけを罰すればよかった。」
「だが、余も知っていた。」
「余も認めた。」
「君と余が、一緒に作った誤解だ。」
ネッケルは黙った。
ルイの呼吸が浅くなる。
「民衆は君を求めている。」
「それを、私はありがたいことだとは思っておりません。」
「違う。」
ルイは首を横へ振った。
「君は分かっていない。」
「彼らは君を救済者として呼んでいるのではない。」
「報告書の責任を取らせるために呼んでいるのだ。」
ネッケルの眉が動いた。
「陛下。」
「パリの民衆は、私を処罰するよう求めているわけではありません。」
「今は、そうかもしれない。」
「今は君なら財政を救えると思っている。」
「だが、君にそんな力はない。」
「誰にもない。」
「パンの価格を一夜で下げることも、借金を消すことも、税の抵抗を止めることもできない。」
「期待に応えられなければ、次に何が起きる。」
ルイは怯えた目でネッケルを見た。
「救済者は詐欺師になる。」
「歓声は告発に変わる。」
「その時、人々はあの報告書を引きずり出す。」
「君だけではない。」
「署名を認めた余も、共に引きずり出される。」
ネッケルは、ようやくルイの考えを理解した。
これは政治的な判断だけではなかった。
国王は、自分が再び裁かれることを恐れている。
まだ存在しない法廷を見ている。
まだ下されていない判決を聞いている。
「陛下。」
ネッケルが慎重に言った。
「私を追放しても、報告書は消えません。」
ルイの頬が引きつった。
「分かっている。」
「国民の記憶も消えません。」
「分かっている。」
「そして、私を求める声を責任追及の声だと考えておられるなら、私を国外へ出すことは、国王が証人を逃がしたように見えるかもしれません。」
ルイの顔から血の気が引いた。
その考えはなかった。
「違う。」
「そのような意図ではない。」
「陛下の意図が何であるかは、もはや大きな問題ではございません。」
ネッケルの声は静かだった。
「人々が、陛下の行動をどう受け取るかが問題なのです。」
「軍隊は呼ばない。」
ルイはすがるように言った。
「史実とは違う。」
ネッケルには、その言葉の意味が分からなかった。
「兵を集めなければ、国民議会を武力で解散させるつもりではないと分かる。」
「君の罷免も、大臣の交代として受け取られる。」
「陛下。」
ネッケルは首を横へ振った。
「軍隊が見えないことと、人々が安心することは同じではありません。」
「パンがない。」
「仕事がない。」
「税制は崩れ、国庫は空になり、国民議会と宮廷のどちらが国家を動かしているのかも分からない。」
「その状況では、私の罷免だけでも十分な引き金になります。」
「だが、兵はいない。」
「兵士がいなければ暴動が起きないとは限りません。」
ネッケルの言葉に、ルイの指が震えた。
それでも決断を変えることはできなかった。
ここで罷免を撤回すれば、民衆の声に屈したことになる。
ネッケルの人気が国王の意思を上回ったことを、自ら認めることになる。
何より、もう一度この男と同じ帳簿へ向かい合う勇気がなかった。
「決定は変えない。」
ルイは声を絞り出した。
「今夜のうちに出発してくれ。」
ネッケルは長く王を見つめた。
やがて、深く頭を下げた。
「承知いたしました。」
「最後に、一つだけ申し上げます。」
「何だ。」
「人々は、必ずしも真実だけを見て動くわけではありません。」
「しかし陛下もまた、民衆の声を正しく聞いておられるとは限りません。」
ルイは答えなかった。
ネッケルは命令書を受け取り、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
ルイは一人になった。
机の上には、ネッケルの名が消えた新しい閣僚名簿と、古いコンプト・ランデュが残されていた。
ルイは報告書の表紙へ手を置いた。
「これで終わる。」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「兵も動かさない。」
「誰も殺さない。」
「今度は、同じことにはならない。」
その声は、あまりにも弱かった。
⸻
七月十一日。
ネッケルは、妻と共にヴェルサイユを離れた。
罷免は当初、秘密にされていた。
しかし、宮廷の秘密が長く守られることはない。
召使いが知る。
御者が知る。
役人が知る。
印刷業者が知る。
その日の夜には噂がパリへ届き、翌十二日の朝には確信へ変わった。
「ネッケルが追放された。」
「国王が改革を捨てた。」
「次は国民議会だ。」
街角へ人々が集まった。
カフェの客が外へ飛び出した。
市場では商人たちが店を閉め始めた。
工房では職人が仕事を止めた。
パレ・ロワイヤルには、数え切れないほどの群衆が押し寄せた。
史実と異なり、パリの周囲に大軍はいなかった。
チュイルリー庭園の近くに、民衆を威圧する騎兵の大部隊もいなかった。
外国人兵士が銃を構えて待ち受けているわけでもなかった。
それでも、人々は安心しなかった。
「軍隊がいないのは、夜になってから襲うつもりだからだ。」
「国王は地方から密かに兵を動かしている。」
「国民議会の議員は、今夜にも捕らえられる。」
根拠のない噂が次々に生まれた。
見えない軍隊は、見える軍隊より恐ろしい存在になった。
誰も、その数も場所も確かめられなかったからである。
やがて、若い弁護士カミーユ・デムーランが人々の前へ立った。
「市民諸君。」
「ネッケルが追放された。」
「改革派の大臣を追放したということは、宮廷が我々との対話を拒んだということだ。」
「兵士が見えないからといって、安心してはならない。」
「我々自身で、我々の身を守らなければならない。」
ネッケルとオルレアン公の胸像が掲げられた。
群衆は街路へ流れ出した。
「ネッケルを戻せ。」
「国民議会を守れ。」
「パンをよこせ。」
複数の叫びが重なった。
初めは政治的な行進だった。
しかし、数が増えるにつれて目的は失われていった。
ネッケルの復帰を求める者。
国民議会を守ろうとする者。
パンを求める者。
商店から商品を奪おうとする者。
混乱に乗じて税関を破壊しようとする者。
日頃の恨みを晴らそうとする者。
一つの群衆の中に、異なる怒りが混ざり合っていた。
王軍は現れなかった。
騎兵も来なかった。
銃声も鳴らなかった。
だが、それは群衆が静まることを意味しなかった。
止める者がいないと知った人々は、さらに大胆になった。
パリを囲む徴税障壁の一つに火が放たれた。
炎が夜空を赤く染めた。
「税を取る壁を壊せ。」
「穀物を隠している倉庫を開けろ。」
群衆は次の場所へ向かった。
修道院の倉庫が襲われた。
食糧を積んだ荷車が止められた。
パン屋の戸が破られた。
店主が小麦を隠しているという噂だけで、店内が荒らされた。
軍隊との戦闘は起きなかった。
その代わり、都市のあちこちで、誰が敵なのかも分からない暴力が広がった。
王兵という明確な相手がいないため、怒りは商人、徴税人、貴族、役人、そして隣人へ向けられた。
パリは、誰かに攻撃されて燃えたのではなかった。
自らの恐怖によって、内側から燃え始めた。
⸻
七月十三日。
ヴェルサイユ宮殿。
報告書が次々と運び込まれた。
徴税障壁への放火。
食糧倉庫への襲撃。
武器商店の略奪。
各地区での自警組織の結成。
市当局は統制を失い始めている。
ルイは震える手で報告書をめくった。
「軍隊は。」
「動いておりません。」
「民衆へ発砲した部隊は。」
「ございません。」
「それなのに、なぜ暴動が起きる。」
誰も答えられなかった。
ルイは同じ問いを繰り返した。
「兵士はいない。」
「国民議会も解散させていない。」
「なぜだ。」
バランタンが答えた。
「ネッケル殿の罷免が、王室による反撃の始まりだと受け取られたのでしょう。」
「だが、軍隊は呼んでいない。」
「人々は、陛下の命令の全てを知ることはできません。」
「公表した。」
「公表された言葉を信じていない者もおります。」
ルイは椅子へ沈み込んだ。
軍隊を動かさなければ、暴動は起きない。
その確信が崩れた。
前世の知識を使い、史実の原因を一つ取り除いた。
それでも歴史は止まらなかった。
別の道を通り、同じ炎が立ち上がった。
ブロイ公が進み出た。
「陛下。」
「今なら、まだ間に合います。」
「部隊をパリへ入れる許可を。」
ルイの脳裏に、群衆へ発砲する兵士の姿が浮かんだ。
石畳へ倒れる市民。
血に染まるパン。
槍の先に掲げられる首。
「駄目だ。」
「陛下。」
「兵は出さない。」
「このままではパリの秩序が失われます。」
「兵士を入れれば、内戦になる。」
「では、誰が暴動を止めるのです。」
ルイは口を開きかけた。
何も答えられなかった。
国王である自分が、軍隊を使わずに暴動を止めなければならない。
だが、その方法が分からない。
前世の知識は、何が起こるかを教えてくれた。
何をすれば人々が自分を信じるのかまでは、教えてくれなかった。
「余が行く。」
ルイは突然言った。
部屋にいた全員が息を呑んだ。
「どちらへ。」
「パリだ。」
「陛下。」
アルトワ伯が声を上げた。
「正気でございますか。」
「軍隊を送れば、民衆は攻撃だと思う。」
「ならば、余が一人で行く。」
「一人で。」
「軍の護衛はつけない。」
「国王が自ら説明すれば、軍事弾圧の意図がないと分かる。」
「ネッケルを罷免した理由も、余の口から話す。」
バランタンが慌てて止めた。
「危険すぎます。」
「パリは統制を失っております。」
「だから行くのだ。」
ルイの声は震えていた。
勇気があったからではない。
恐怖に追い詰められ、ほかの道が見えなくなっていた。
「余が隠れていれば、人々は陰謀を企てていると思う。」
「兵を連れずに姿を見せれば、少なくとも戦うつもりがないことは伝わる。」
アルトワ伯が王の腕をつかんだ。
「陛下がお倒れになれば、王国はどうなるのです。」
その言葉に、ルイの身体が震えた。
処刑台が浮かんだ。
刃が落ちる音が聞こえた。
逃げたい。
部屋へ閉じこもり、扉へ鍵を掛けたい。
誰にも会わず、誰の叫びも聞かず、全てが終わるまで隠れていたい。
だが、それでは前世と同じだった。
決断を先延ばしにし、事態が悪化してから譲歩し、最後には何も守れなくなる。
「行く。」
ルイは腕を振りほどいた。
「これは余が始めたことだ。」
「ネッケルの報告書を認めたのも余だ。」
「彼を呼び戻し、再び追放したのも余だ。」
「ならば、余が説明しなければならない。」
⸻
マリー・アントワネットは、出発の知らせを聞いて国王の部屋へ駆け込んだ。
「パリへ行くと聞きました。」
「ああ。」
「軍の護衛もつけずに。」
「ああ。」
「おやめください。」
王妃はルイの両腕をつかんだ。
「あなたを憎んでいる者もいるのですよ。」
「分かっている。」
「分かっていません。」
マリー・アントワネットの目に涙が浮かんだ。
「あなたは、民衆へ誠意を見せれば理解してもらえると思っている。」
「けれど、今のパリは一つではありません。」
「あなたの話を聞きたい者もいれば、あなたへ石を投げたい者もいる。」
「その全員の前へ、何の守りもなく出ていくのですか。」
ルイは答えられなかった。
「兵を連れていけば、戦いになる。」
「だからといって、一人で行けば殺されます。」
「殺されないために兵を連れていき、その兵が民衆を殺せば、最後にはもっと多くの人間が死ぬ。」
ルイは王妃の手へ自分の手を重ねた。
冷たく震えていた。
「余は、もう一度処刑台へ行きたくない。」
マリー・アントワネットには、その言葉の本当の意味が分からなかった。
「ならば、行かないでください。」
「ここへ残って。」
「違う。」
ルイは首を横へ振った。
「ここに隠れていても、いつか彼らは迎えに来る。」
「その日を待つ方が、もっと恐ろしい。」
王妃は言葉を失った。
ルイは妻の手を離した。
「すぐに戻る。」
それが守れない約束になることを、二人とも心のどこかで感じていた。
⸻
七月十四日。
朝。
ルイ十六世は、軍の護衛を伴わずにヴェルサイユを出発した。
同行したのは、数人の文官、御者、そして武器を持たない少数の従者だけだった。
馬車に王家の紋章はつけられていた。
姿を隠せば逃亡だと思われる。
ルイは、そう考えた。
パリへ近づくほど、道を歩く人間が増えていった。
鍬を持つ農民。
古い猟銃を担ぐ職人。
棒や斧を握る労働者。
国民議会を守るために集まった者。
食糧を探しに来た者。
何が起きているのか分からないまま、人の流れについてきた者。
馬車を見つけた誰かが叫んだ。
「国王だ。」
人々が振り返った。
「国王が来た。」
歓声は上がらなかった。
罵声も、すぐには起きなかった。
驚きと警戒が入り混じった沈黙の中を、馬車はゆっくり進んだ。
やがて、一人の男が叫んだ。
「ネッケルを返せ。」
別の場所からも声が上がった。
「ネッケルを戻せ。」
「なぜ追放した。」
「財政を説明させろ。」
「我々を欺いた責任を取らせろ。」
最後の言葉を聞いた瞬間、ルイの心臓が強く脈打った。
やはりそうだった。
彼らはネッケルを救済者として求めているのではない。
報告書の責任を取らせるために求めている。
そして次には、自分の責任を求める。
ルイの恐怖は、自分に都合のよい言葉だけを拾い上げた。
群衆の大部分が叫んでいたのは、「ネッケルを戻せ。」だった。
「ネッケルを裁け。」ではなかった。
しかしルイには、その違いが聞こえなくなっていた。
馬車が市庁舎前の広場へ近づく。
広場は人で埋め尽くされていた。
市民代表。
商人。
職人。
失業者。
武器を持つ者。
子供を抱いた母親。
パンを求める女たち。
誰も全体を統率していなかった。
誰かが王の到着を歓迎した。
誰かが罠だと叫んだ。
誰かが国王を市庁舎へ入れろと言い、別の者はその場で説明させろと叫んだ。
「陛下。」
従者が青ざめた顔で言った。
「引き返しましょう。」
ルイは首を横へ振った。
「ここで逃げれば、全てが終わる。」
馬車の扉を開けた。
石畳へ足を下ろした瞬間、群衆が大きく揺れた。
「国王だ。」
「ルイ十六世だ。」
「ネッケルを戻せ。」
「パンをよこせ。」
「報告書の嘘を説明しろ。」
ルイは両手を上げた。
「聞いてくれ。」
声は群衆のざわめきにかき消された。
「余は、軍隊を連れてきていない。」
「諸君を攻撃するつもりはない。」
前列にいた者には聞こえた。
しかし、後ろにいる者には届かなかった。
「何と言った。」
「兵を呼ぶと言ったぞ。」
「違う、兵は呼ばないと言った。」
「嘘だ。」
「夜には軍が来る。」
誤解が次の誤解を生んだ。
ルイは声を張り上げた。
「ネッケルは追放した。」
その一言だけが、広場へはっきりと響いた。
群衆から怒号が上がった。
「戻せ。」
「なぜ追放した。」
「裏切り者。」
「話を聞け。」
ルイは必死に続けた。
「あの報告書を作った責任は、ネッケルだけにあるのではない。」
「余にもある。」
「余も内容を知り、公表を認めた。」
前列にいた者たちが息を呑んだ。
ルイは、自分の責任を認めることで、人々の怒りを鎮められると思った。
だが、広場の後方へ届いたのは、途切れ途切れの言葉だけだった。
「報告書。」
「国王も知っていた。」
「嘘を認めた。」
「我々を騙したのだ。」
「国庫の金を隠した。」
「パンを買う金を奪った。」
噂が一瞬で形を変えた。
国王が責任を認めたという事実は、誠意の証しではなく、欺瞞の自白として受け取られた。
「違う。」
ルイは叫んだ。
「国庫に金はない。」
「戦争で使った。」
「借金が残っている。」
その言葉は、さらに悪い形で伝わった。
「国王が金を使い果たした。」
「我々の金を外国の戦争へ捨てた。」
「だからパンがない。」
群衆が前へ押し寄せた。
従者たちが王を囲もうとした。
しかし、武器を持たず、人の壁を押し返すこともできなかった。
ルイは後ずさった。
馬車の車輪へ背中が触れた。
その時、広場の端で一発の銃声が鳴った。
誰が撃ったのかは分からなかった。
国王を狙ったものではなかったのかもしれない。
空へ撃った威嚇だったのかもしれない。
奪い合いの中で、古い銃が暴発しただけかもしれない。
だが、銃声は群衆を恐慌へ変えるには十分だった。
「兵が来た。」
誰かが叫んだ。
「撃たれるぞ。」
人々が一斉に動いた。
前へ逃げる者。
後ろへ逃げる者。
市庁舎へ駆け込もうとする者。
武器を構える者。
倒れた者を助けようとする者。
数千人の身体が、異なる方向へ押し合った。
馬が驚いて前脚を上げた。
御者が手綱を引いた。
馬車が大きく傾いた。
ルイは車体へ手を伸ばした。
だが、後ろから押された男がその背中へぶつかった。
足が石畳を滑った。
身体が倒れる。
後頭部が、馬車の車輪を支える鉄金具へ激しく打ちつけられた。
視界が白く弾けた。
それでも意識は消えなかった。
立ち上がらなければならない。
ここで倒れれば踏まれる。
ルイは両手を石畳についた。
しかし、人の波が押し寄せた。
靴が背中へ乗った。
別の足が右腕を踏んだ。
誰かが倒れ、その身体がルイの上へ重なった。
胸が圧迫される。
息ができない。
「国王が倒れた。」
誰かが叫んだ。
「どこだ。」
「陛下を助けろ。」
「押すな。」
「下がれ。」
助けようとする声さえ、新たな混乱を生んだ。
従者の一人がルイの腕をつかんだ。
別の男が倒れた人々を引き起こそうとした。
だが、後方から押し寄せる群衆の力には逆らえなかった。
ルイの胸から、鈍い音がした。
肋骨が折れた。
喉の奥へ血が上がってきた。
遠くで鐘が鳴っていた。
群衆の叫びが、前世の処刑台で聞いた怒号と重なった。
「王を殺せ。」
「共和国万歳。」
「市民ルイ・カペー。」
だが、今の広場でその言葉を叫んでいる者はいなかった。
誰もルイを裁いていない。
死刑判決も出ていない。
処刑台もない。
彼を殺そうとして刃を落とす者もいない。
それでも、ルイは死にかけていた。
自分が起こした混乱の中で。
自分が呼ばなかった兵士ではなく、自分が誤って聞き取った民衆の声によって。
「ネッケルを……。」
ルイの唇が動いた。
従者が顔を近づけた。
「陛下。」
「ネッケルを……戻せ。」
それが命令だったのか、後悔だったのか、誰にも分からなかった。
ルイは、ようやく気づいていた。
民衆がネッケルを求めたのは、初めから彼を裁くためではなかった。
正しいかどうかも分からない希望へ、すがろうとしていただけだった。
勘違いを生む報告書を作ったのは、ネッケルと自分だった。
だが最後に、最も大きな勘違いをしたのは自分だった。
群衆の期待を、告発だと思った。
助けを求める声を、処刑を求める声だと思った。
恐怖のために人々の言葉を信じられず、その不信によって、本当に人々の怒りを生み出した。
「余は……。」
最後の言葉は、血と共に喉の奥へ消えた。
視界の端に、夏の空が見えた。
処刑台で見た灰色の空ではなかった。
青く、雲一つない空だった。
刃が落ちる音はしなかった。
代わりに、群衆の足音が遠ざかっていった。
ルイ十六世の身体から、力が抜けた。
一七八九年七月十四日。
フランス国王ルイ十六世は、パリ市庁舎前の石畳で死亡した。
三十四歳だった。
⸻
国王が倒れたという知らせが広がると、暴動は一時的に止まった。
群衆は、石畳の上に横たわる男を見つめた。
王を殺すために集まった者は、ほとんどいなかった。
ネッケルの復帰を求めていた者。
パンを求めていた者。
国民議会を守ろうとしていた者。
ただ騒ぎを見に来ただけの者。
その全員が、自分たちの目の前で国王が死んだという事実を理解できずにいた。
「誰が撃った。」
「撃たれてはいない。」
「では、誰が殺した。」
誰も答えられなかった。
特定の犯人はいなかった。
銃弾も、剣も、処刑台も必要なかった。
恐怖と噂と誤解が一つの広場へ集まり、人の波となって国王を押し潰した。
ルイの遺体は、市庁舎の中へ運び込まれた。
王の上着は破れ、胸元には靴跡が残り、後頭部から流れた血が白い襟を赤く染めていた。
王冠を戴く者の最期には見えなかった。
暴動へ巻き込まれた、一人の名もない市民の遺体と何も変わらなかった。
その日の夕方、使者がヴェルサイユ宮殿へ到着した。
マリー・アントワネットは、報告を最後まで聞くことができなかった。
「陛下は、パリにおいて……。」
その言葉だけで、全てを悟った。
王妃の膝から力が抜けた。
侍女たちが慌てて身体を支えた。
「すぐに戻ると。」
王妃は、誰に語りかけるでもなく呟いた。
「そう言ったのに。」
部屋の外では、廷臣たちが次の国王について話し始めていた。
幼いルイ=シャルル。
王位継承。
摂政。
国民議会との関係。
パリを反逆都市として討つべきか。
国王の死を事故とするのか、暗殺とするのか。
夫の遺体がまだパリにあるうちから、政治は次の争いへ進んでいた。
⸻
憲法制定国民議会も、王の死によって騒然となった。
「これは暗殺だ。」
王党派が叫んだ。
「軍隊をパリへ入れ、犯人を処罰すべきだ。」
改革派は反論した。
「特定の犯人などいない。」
「軍隊を送れば、国王が避けようとした内戦が始まる。」
急進派でさえ、すぐには共和国を宣言しようとしなかった。
国王を制限する憲法を作ろうとしていたのであって、群衆の圧力によって国王を死なせることを望んでいたわけではない。
しかし、ルイ十六世が死んだことで、立憲君主制の前提そのものが揺らいだ。
幼い国王を立てるのか。
王妃を摂政とするのか。
王弟へ権限を渡すのか。
それとも、王のいない国家を作るのか。
バスティーユ牢獄は、その日もパリの東に立っていた。
史実のような襲撃は起きなかった。
司令官ド・ローネーの首が槍へ掲げられることもなかった。
だが、その代わりに国王が死んだ。
バスティーユの陥落よりも早く、王政の中心に巨大な穴が開いた。
ルイは、史実と同じ道を避けようとした。
兵士を呼ばなかった。
国民議会を武力で解散させなかった。
民衆へ銃を向けなかった。
それでも、ネッケルを追放した。
自分たちが作った報告書への負い目から。
ネッケルを信じ切れなかったから。
そして民衆の期待を、責任追及の声だと勘違いしたから。
前世のルイ十六世は、一七九三年一月二十一日、革命広場の処刑台で死んだ。
今度のルイ十六世は、それより三年半早く、パリの石畳で死んだ。
前世では、裁判を受けた末に殺された。
今度は、誰からも裁かれないまま死んだ。
前世では、軍隊を動かせなかった弱い王として処刑された。
今度は、軍隊を動かさないことを自ら選び、そのために守られないまま倒れた。
運命を変えることはできた。
だが、変えた先が救いであるとは限らなかった。
処刑台へ続く道を避けた王は、その脇に広がっていた名もない石畳の上で、誰にも届かなかった言葉を残して死んだ。
「ネッケルを戻せ。」
それは、ルイ十六世が生涯で最後に下した命令だった。
そして、決して実行されることのない命令となった。




