第十一話 信用を作る財政改革
1778年。
フランス王国は、新たな局面を迎えていた。
ついにイギリスへ宣戦布告し、アメリカ独立戦争への本格的な参戦を決断したのである。
七年戦争で奪われた植民地。
世界中で失った威信。
宿敵イギリスに対する雪辱。
それらを果たすためには、この機会を逃すわけにはいかなかった。
サラトガでのイギリス軍敗北により、アメリカ側の勝利は現実味を帯びている。
今ならば勝ち馬に乗ることができる。
フランスは外交上の主導権を取り戻せる。
ルイ十六世は、その判断に迷いはなかった。
だが――。
その決断が新たな問題を生むことも、誰より理解していた。
戦争は金を食う。
兵士の給料。
武器や火薬。
軍艦の建造。
食料や軍需物資の輸送。
勝利には莫大な資金が必要となる。
しかも、ただ戦争に勝てば終わりではない。
戦後も国家を維持しなければ意味がない。
フランス王国はすでに四十億リーブル近い国家債務を抱えていた。
この上さらに借金を重ねれば、財政はいつ崩壊してもおかしくない。
王は静かに窓の外を見つめた。
(勝つことは難しい。)
(だが、本当に難しいのは勝った後だ。)
(国家が倒れてしまえば、戦場での勝利など何の意味もない。)
王が戦おうとしていた相手は、イギリスだけではなかった。
財政破綻という、目に見えない敵でもあった。
ヴェルサイユ宮殿。
国王執務室。
机の上には、財務総監から提出された帳簿や歳入歳出の報告書が山のように積まれている。
ルイ十六世は一枚一枚を丁寧に読み進めていた。
現代日本で生きた記憶があるからこそ、数字を見ることに抵抗はない。
だが、この数字は見れば見るほど胃が痛くなるものばかりだった。
毎年続く財政赤字。
膨れ上がる利払い。
貴族や聖職者に及ばない税。
戦争でさらに増える支出。
「……苦しいな。」
思わず本音が漏れる。
「戦争を始めた以上、もう後戻りはできない。」
「問題は勝つことではない。」
「勝った後、この国が立っていられるかどうかだ。」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
その時だった。
扉が三度、静かに叩かれる。
「失礼いたします。」
入室してきたのは、一人の男だった。
落ち着いた身なり。
質素だが上品な服装。
銀行家らしい冷静な眼差し。
「陛下。」
「ジャック・ネッケルにございます。」
ルイは顔を上げる。
(この男が……。)
教科書でしか知らなかった人物。
フランス革命直前に財務総監となり、民衆から絶大な人気を集めた男。
その一方で宮廷や貴族から激しく反発され、何度も失脚した人物でもある。
しかし。
前世の知識はそこまでだった。
なぜ人気だったのか。
なぜ失脚したのか。
どんな政策を行ったのか。
細かな内容までは覚えていない。
(歴史の授業では名前くらいしか習わなかったからな……。)
だからこそ。
目の前の本人を信じるしかない。
ルイは席を立ち、ネッケルを迎えた。
「遠路ご苦労だった。」
「話を聞かせてくれ。」
「今のフランスを救うには、何が必要だ?」
ネッケルは一瞬も迷わなかった。
「信用です。」
短い言葉だった。
しかし、その一言には確信が込められていた。
「信用……か。」
「はい。」
ネッケルは静かに続ける。
「国家も一人の商人と同じです。」
「信用される者には、人も金も集まります。」
「信用を失った者からは、人も金も離れていきます。」
彼は机の上の帳簿へ視線を向けた。
「陛下。」
「今のフランスは借金が多いから危険なのではありません。」
「信用を失えば危険なのです。」
「国債を買ってもらえなくなる。」
「外国の銀行家も資金を貸してくれなくなる。」
「市場が『フランスは返済できる』と信じている限り、国家は資金を調達できます。」
「しかし、一度でも疑われれば、その瞬間に全てが崩れます。」
ルイは深く頷いた。
現代で言う国家信用。
信用格付け。
国債市場。
教科書で学んだ経済学と同じ考え方だった。
借金の総額だけで国家は滅びない。
経済成長。
税収。
将来性。
そして信用。
それらが国家を支えている。
「つまり。」
ルイはゆっくり口を開く。
「戦争費用は公債で集めるべきだ、と。」
「はい。」
ネッケルは答えた。
「増税だけで賄えば、民衆は耐えられません。」
「農民も商人も疲弊します。」
「ですが、公債であれば未来の税収で返済できます。」
「未来の豊かさを先に借りるのです。」
ルイは腕を組んだ。
借金そのものは悪ではない。
重要なのは、その金を何に使うか。
道路を造る。
港を整備する。
産業を育てる。
国家の未来につながる支出であるならば、その借金には意味がある。
しかし。
一つだけ大きな問題があった。
「今のフランスには、その信用がない。」
ルイの呟きに、ネッケルは静かに頷く。
「だからこそ。」
「信用を取り戻す改革が必要なのです。」
最初に手を付けたのは、王自身だった。
「陛下。」
「国民に節約を求めるならば、まず王家が示さねばなりません。」
宮廷費の削減。
ヴェルサイユ宮殿で行われる豪華な祝宴。
華美な儀式。
不要な役職。
高額な年金。
膨大な宮廷人の維持費。
それらは王権を象徴する一方で、財政を圧迫していた。
さらに民衆から見れば、
「王だけが贅沢をしている。」
そう映る原因でもあった。
ルイは静かに答える。
「異論はない。」
「王家から始めよう。」
「我々が痛みを負わずして、国民に痛みを求めることはできない。」
ネッケルは小さく頭を下げた。
王がここまで率直に受け入れるとは思っていなかったのである。
続いて議論されたのは徴税制度だった。
フランスでは徴税請負人が税を集めていた。
国家へ一定額を納める代わりに、徴税請負人は自ら利益を得る。
効率的ではある。
しかし問題も多い。
利益を増やすために必要以上の徴収を行う者も少なくなかった。
民衆は思う。
「税は重い。」
「だが、本当に国へ届いているのか?」
「誰かが途中で儲けているだけではないか?」
その疑念が積み重なり、国家への不信へ変わっていく。
ネッケルは言った。
「税は公平であるだけでは足りません。」
「公平だと信じてもらわなければ意味がないのです。」
その言葉は、ルイの胸に深く刺さった。
革命とは突然起こるものではない。
日々の小さな不満。
積み重なる不公平感。
政治への不信。
それらが積もり積もって、ある日一気に噴き出す。
前世で見た歴史が、そのことを証明していた。
そして。
ネッケルは最後の切り札を口にする。
「財政を公開いたしましょう。」
「公開?」
「はい。」
「イギリスでは政府が財政状況を積極的に示し、市場からの信用を得ています。」
「我々も隠す時代を終えるべきです。」
ルイは興味深そうに頷く。
「透明性か。」
「ええ。」
「国民が政府を信じるには、まず政府が国民を信じなければなりません。」
こうして計画されたのが、後に『財務総監報告書』として知られる財政報告書だった。
王国の収入。
支出。
財政状況。
それらを広く公表し、フランス王国は健全に運営されていると示す。
当時としては極めて画期的な試みだった。
だが。
帳簿を開いたネッケルの表情が曇る。
「……陛下。正直に全てを公表すれば、市場は混乱します。」
戦争費用。
過去の借金。
累積赤字。
その全てを公表すれば、
「フランスは破綻する。」
そう受け取られかねない。
国債価格は暴落し、誰も国へ金を貸さなくなるだろう。
長い沈黙が流れた。
ルイは帳簿を見つめたまま、静かに口を開く。
「数字を……調整しよう。」
ネッケルは目を見開く。
「陛下。」
「分かっている。」
「これは正しい方法ではない。」
「だが、永遠に国民を欺くつもりもない。」
ルイはゆっくりと言葉を選んだ。
「市場は現在だけでは動かない。」
「未来への期待でも動く。」
「改革を成功させる時間さえあれば、財政は改善できる。」
「ならば、その時間を買う。」
「この数字は、そのための猶予だ。」
ネッケルは静かに目を閉じた。
銀行家としては正直でありたい。
しかし政治家としては国家を守らねばならない。
その板挟みの中で、彼は答えを出す。
「……承知しました。」
「ですが、必ず改革を成功させましょう。」
「ええ。」
「約束しよう。」
二人は固く握手を交わした。
それは希望の握手だった。
同時に、未来へ大きな火種を残す握手でもあった。
しばらくして、ルイがふと思い出したように言う。
「ネッケル。」
「イギリスを参考にするなら、イングランド銀行のような制度も検討できないだろうか。」
その瞬間。
ネッケルの表情がわずかに強張った。
「陛下。」
「それだけは慎重であるべきです。」
「理由は?」
「ミシシッピ計画です。」
ルイは息をのむ。
十八世紀初頭。
ジョン・ローによる銀行制度。
紙幣の大量発行。
信用創造。
株価の急騰。
そして、壮絶な崩壊。
バブルが弾けた瞬間、多くの国民は財産を失い、フランス全土に「紙の信用」への恐怖が刻み込まれた。
ネッケルは静かに続ける。
「イングランド銀行は成功しました。しかしフランス人は、その前にジョン・ローの失敗を経験しています。
銀行が紙幣を発行する。
国家が信用を創り出す。
その言葉を聞くだけで、多くの者は過去の悪夢を思い出します。」
ルイは深く息を吐いた。
(成功例だけを見てはいけない。)
(国には、それぞれ積み重ねた歴史がある。)
現代の知識だけでは見えない現実が、そこにはあった。
「分かった。」
「今は銀行制度には踏み込まない。」
「まずは信用を積み重ねよう。」
ネッケルは微笑んだ。
「それが最善かと存じます。」
こうして始まった。
ルイ十六世とジャック・ネッケルによる、新たな財政改革。
公債による資金調達。
宮廷費の削減。
徴税制度の見直し。
財政の公開。
全ては国家への信用を取り戻すためだった。
だが――。
歴史は皮肉だった。
信用を守るためについた、ほんの小さな嘘。
改革を成功させるために買った、わずかな時間。
その二つは、やがて王政そのものを揺るがす巨大な火種となる。
まだ誰も知らない。
この日交わされた一つの決断が。
十数年後、革命の嵐の中で、王自身を裁く証拠として語られることになることを。




