第十ニ話 空を覆う灰
1783年。
アメリカ独立戦争は終結へと向かい、フランス王国には束の間の安堵が訪れていた。
ルイ十六世とジャック・ネッケルが進める財政改革も、ようやく軌道に乗り始めている。
公債の発行による資金調達。
宮廷費の削減。
徴税制度の整理。
そして『コンプト・ランデュ・オ・ロワ(国王への財務報告書)』の公開による政府への信用回復。
革命を避けるための改革ではない。
まずは国家を破綻させないための改革。
それが二人の目標だった。
財政に余裕が生まれれば、その先で税制改革にも着手できる。
そう信じて、一歩ずつ前へ進んでいた。
しかし――。
歴史は、王の努力をあざ笑うかのように、新たな敵を用意していた。
それは貴族でもない。
議会でもない。
イギリスでもない。
人間の知恵も、軍隊も、政治も及ばない存在。
自然そのものだった。
六月。
ヴェルサイユ宮殿。
朝から宮殿には奇妙な空気が漂っていた。
窓から差し込む日差しはある。
しかし、どこか薄暗い。
太陽が、白く濁って見える。
庭師たちは空を見上げながら首を傾げていた。
「今日は霧でしょうか。」
「いや……風もない。」
「何だ、この空は。」
誰にも理由は分からない。
その時、国王執務室の扉が静かに開かれた。
「失礼いたします、陛下。」
入ってきたのはネッケルだった。
普段は冷静な彼の表情に、わずかな緊張が浮かんでいる。
「各地から急ぎの報告が届いております。」
ルイは顔を上げた。
「何が起きた。」
ネッケルは数通の報告書を机へ並べる。
「オランダ。」
「神聖ローマ帝国。」
「イングランド。」
「デンマーク。」
「いずれも同じ内容です。」
ルイは一枚目を手に取った。
『空が白く霞み、遠くが見えない。』
二枚目。
『太陽は赤く、まるで夕暮れのように見える。』
三枚目。
『硫黄の臭気が街を覆い、人々が咳を訴えている。』
四枚目。
『家畜が落ち着きを失い、作物の生育も思わしくない。』
部屋の空気が重くなる。
ネッケルは静かに口を開いた。
「原因はまだ判明しておりません。」
「ですが、ヨーロッパ全域で同様の現象が確認され始めています。」
ルイは報告書から目を離し、窓の外を見つめた。
白く霞んだ空。
ぼやけた太陽。
その光景を見た瞬間、前世の記憶が胸の奥から蘇る。
(……違いない。)
(ラキ火山だ。)
アイスランド。
ヨーロッパの北西に浮かぶ島。
そこで起きる巨大噴火。
前世で歴史書を読んだ時、わずかに目にした名前だった。
ラキ火山。
1783年六月。
地球史に残る大規模な割れ目噴火。
何か月にもわたり莫大な量の火山灰と火山ガスを噴き上げ、「乾いた霧」と呼ばれる異様な霞がヨーロッパ全域を覆う。
人々は原因も分からぬまま咳をし、家畜は死に、農作物は育たず、空はいつまでも曇ったような色をしていた。
噴火が起きたのは遠いアイスランド。
だが、その影響は海を越え、ヨーロッパ中へと広がっていく。
遠く離れた島で起きた災害が、大陸全体を揺るがす。
それほどまでに、この噴火は異常だった。
「……まさか。」
思わず言葉が漏れる。
ネッケルが怪訝そうに顔を向けた。
「陛下?」
ルイはゆっくりと椅子から立ち上がった。
(歴史通りなら。)
(これは始まりに過ぎない。)
部屋の中を静かに歩きながら、ルイは考える。
前世の自分は歴史学者ではない。
歴史の専門家でもない。
知っているのは教科書や書籍で読んだ程度の知識だ。
それでも、この出来事だけは印象に残っていた。
「火山が革命を早めたかもしれない。」
そんな一文を読んだ記憶がある。
もちろん、革命は火山だけで起きたわけではない。
財政危機。
身分制度への不満。
啓蒙思想。
政治への失望。
数え切れない要因が積み重なった結果だ。
だが、食料不足は人々の怒りを爆発させる最後の火種となり得る。
空腹は、人間から理性を奪う。
どれほど正しい政策も、今日食べるパンがなければ意味を持たない。
「ネッケル。」
「はい、陛下。」
「これは財政問題では終わらない。」
ネッケルは首をかしげる。
「どういう意味でしょう。」
ルイは机の上に置かれた地図を広げた。
「農業だ。」
「農業……ですか。」
「この霞が長引けば日照が減る。」
「異常気象も起きるだろう。」
「収穫量が落ちれば穀物価格は上がる。」
「パンの値段も上がる。」
「最も苦しむのは、日々の賃金で暮らす庶民たちだ。」
ネッケルの表情が変わった。
彼は銀行家である以前に、数字を読む男だった。
収穫が一割減る。
価格は一割しか上がらない。
そんな単純な話ではない。
市場に不安が広がれば、人々は買い占めを始める。
商人は値上がりを見越して穀物を抱え込む。
地方では流通が滞り、都市ではパン屋に長い列ができる。
一つの不安が、次の不安を呼び込む。
市場心理とは、そういうものだった。
「……なるほど。」
ネッケルは静かに頷いた。
「財政より先に、市場が混乱する可能性があります。」
「その通りだ。」
ルイは深く息を吐いた。
「信用というものは財政だけではない。」
「国民が明日もパンを買えるという信用もまた、国家には必要なのだ。」
ネッケルは慎重に尋ねる。
「ですが陛下。現在の国庫には十分な余裕がございません。戦費。国債の利払い。行政改革。どれも莫大な費用がかかっています。この上、穀物対策まで行えば……。」
言葉は最後まで続かなかった。
それ以上は言う必要がなかった。
金がない。
それが全てだった。
ルイも理解している。
理想だけでは国家は動かない。
「分かっている。」
王は静かに答えた。
「だからこそ、使う金を間違えてはならない。」
ルイは窓辺へ歩み寄る。
ヴェルサイユの庭園は、今日も美しく整えられている。
噴水は水を噴き上げ、貴族たちは優雅に散歩している。
しかし、その景色の向こうには無数の農村が広がっていた。
畑を耕す農民。
一日中働く職人。
毎朝パンを買うために硬貨を数える母親。
王宮では銀食器が並ぶ。
村では、一斤のパンが命を左右する。
その差を、ルイは前世よりも強く実感していた。
「王にとって最も恐ろしい数字は、国債の残高ではない。」
静かな声が部屋に響く。
「市場で売られるパンの値段だ。」
「国民が明日の食事を失った時。」
「その怒りは、必ず王へ向けられる。」
ネッケルは何も言わなかった。
その言葉が真実であることを、彼も痛いほど理解していたからだ。
「まずは各州の穀物備蓄を調査する。」
「不足地域には優先的に輸送を行う。」
「買い占めや不正な売り惜しみがないか監視を強化する。」
「港湾都市では外国産穀物の調達も検討する。」
ネッケルは次々と書き留めていく。
「しかし、市場への介入は自由取引を妨げる恐れがあります。」
「テュルゴーなら反対したでしょう。」
その名を聞き、ルイは苦笑した。
「皮肉なものだ。かつて我々は市場の自由を議論していた。今度は民を飢えさせないため、市場へ介入するかを議論している。」
自由市場。
国家による統制。
どちらが正しいのか。
その答えは一つではない。
平時であれば自由競争は経済を豊かにする。
だが、飢饉や災害の最中、人々が求めるのは将来の繁栄ではない。
今日、食べることのできる一切れのパンだった。
理論だけでは、人は救えない。
政治とは、理想と現実の間で揺れ続ける営みなのだ。
その夜。
王宮は静まり返っていた。
執務室には一本の蝋燭だけが揺れている。
ルイは一人、帳簿と農業報告書を何度も見比べていた。
財政改革は順調だった。
信用も回復しつつある。
戦争にも勝った。
だが、だからといって安心などできない。
歴史は一つの問題を解決すれば、必ず新しい問題を突きつけてくる。
貴族の反発。
戦争。
借金。
そして今度は自然災害。
人間が相手なら交渉できる。
法律も作れる。
軍隊も動かせる。
しかし自然には、それが通じない。
「未来を知っていても……。」
ルイは静かに呟いた。
「未来を止めることはできない。」
知識は警告を与えてくれる。
だが、奇跡を起こしてくれるわけではない。
王にできることは、迫り来る災厄を少しでも和らげるために、誰よりも早く動くことだけだった。
窓の外では、白く霞んだ月がぼんやりと浮かんでいる。
その空は、まるでフランス王国の未来を覆う不吉な帳のようだった。
1783年。
フランス王国は、まだ滅びてはいない。
革命も、まだ始まってはいない。
しかし、国を揺るがす災厄は、静かに、そして確実に近づいていた。
それは銃声もなく、軍旗も掲げず、ただ灰色の空となって、人々の暮らしを少しずつ蝕み始めていたのである。




