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ユニゾンと横恋慕  作者: 不定音高ふたつ


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[第六話] 模擬店のクレープ

【登場人物】


小夜:星山小夜(( )ほしやま・さよ)。高校1年生。軽音楽部で、エレキギター担当。タクの幼馴染で、タクに片思い。



タク:水野拓(( )みずの・たく)。高校1年生。小夜の幼馴染。軽音楽部でドラムス担当。メイに恋を始める。



メイ:久米郁葉(( )くめ・いくは)。高校2年生。軽音楽部の先輩。エレキベース担当。大学生の彼氏がいるらしい。



ショージ:東海林ショージ(( )しょうじ・ショージ)。高校1年生。軽音楽部でキーボード担当。現実の恋に、ファンタジーを持ち込みたい。



ヤッ子:牧靖子(( )まき・やすこ)。軽音楽部の顧問であり、タクが町内のイベントで合奏する大人。渦中でうろたえている者を、外側の落ち着いた場所から俯瞰する。



♪ 今話の音楽用語は、このページを下にスクロールした「後書き」に記しました。



[第六話] 模擬店のクレープ




 文化祭の前日。


 部活の前に、小夜はメイに呼び出された。人通りが極めて少ない階段裏。


 メイは、頬の下、顎の骨の部分に、大きな絆創膏を貼っていた。時々、メイは絆創膏を撫でたり、軽く押したりする。


「小夜ちゃんは、水野君が好きなんでしょ。あたしもなんだよね」


 これは、夏の保健室でも聞いた。でも、続きが違った。


「文化祭のステージ、成功させたいよね。だから、それまでは穏便にしたいよね。明日ステージが終わったら、あたしたち、付き合うことになるから」


「え? メイ先輩には、彼氏がいますよね。別れたんですか? もしかして、タクちゃんに告白? タクちゃんから告白?」


「彼氏なんて最初からいないよ。なんだかさ、水野君と過ごす時間が楽しくてさ」


「でも、タクちゃんは、きっとメイ先輩のことを、信じています」


「子供を相手には、いくらでも誤魔化せるって」


「もしかして、その絆創膏は」


「そう、「彼氏ではない大学生」に」


 なぜか、ベースギターを弾く仕草をした。


 小夜は、メイのセリフが「彼氏じゃない」「彼氏ではない」など、僅かに使い分けていることに気付いたが、そこで混乱してしまった。


「彼氏ではない」「彼氏じゃない」「彼氏になれない」「彼氏にはなれない」のそれぞれに、ふたつの意味があることには、思い至らない。


 そうか、メイは「彼氏」を否定する言い方の使い分けをするんだ。まるで「わざと誤解させる」ような言い方をするんだ。多義性があるのに、ギリギリ不足しない言い方をするんだ。


 そうすることで、嘘を言わないようにしている。


 嘘を言わないから、「彼氏」を否定する言い方の、使い分けをする。しかし、細かな言葉の使い分けに気付く人がいないから、誤解されるんだ。


 もしや、「女ドラキュラ」の呼称は、わざと誤解させて自然発生させたのか? 秘密を隠すための作り話ができない、作り話の矛盾を指摘される惨状を知っているのか?


 だとすれば、からかいを目的に近付く者たちに、嘘を使わずあしらうことが、望まぬ誤解をされる構造に、諦めているのか?


 メイの言葉は、鏡の迷路だ。虚像も実像も、曲がり角で鏡の向こうに隠れる。


 メイは誤解されることを望んではいない。嘘を怖れているんだ。他人の嘘による地獄を経験したのだろうか。だから、自分も嘘を言わない。しかし、好奇に晒される痛みから逃げるために、嘘の無い断片の言葉が、鏡の迷路になってしまう。


 小夜は、それぞれの言い方が、どのような場面で言ったのかを覚えていないが、「大学生は、複数いる」と気付く。そのうちの一人が、メイにベースギターを教えた兄であり、メイを殴ったのだろう。


 噂の「お泊りしている」の相手は、兄なのか? いや、兄と妹では、それはありえない。では、別な大学生か? では、なぜメイはさっき、ベースギターを弾く仕草をしたのか?


 小夜の思考は、現実と推測の境界線が揺らいでいる。


 溜息。


「小夜ちゃんが、ショージの歌詞に文句を言った時、あっぱれって思ったんだよ。ファンタジーを現実に持ち込むなら、楽しくなくっちゃ。望まぬ犠牲者にはなりたくない」


「あたしは、ファンタジーじゃ、ありません。タクちゃんだけが、あたしをわかってくれました」


「それは知ってるよ。本当に偶然だけど、部室の、あの窓から見たんだよね」


「何をですか?」


「階段裏の、ここ。並んで座って、小夜ちゃんが泣いて、水野君にもたれているのを」


「……見られてたんですね」


「水野君は、小夜ちゃんの、いい理解者だろうね。でも、慰めの言葉はあっても、背中や頭を撫でてくれないでしょ?」


 小夜は無言。思い当たる。タクは、言葉と表情で慰めてくれる。けれど、タクが撫でてくれたことは無い。


「あの時だって、小夜ちゃんから、もたれて座ったんだよね。それだって、触ったのは布越し。直接、指の一本も触れたのは、もう随分と昔のことじゃないの? 夏にキスしたのは、歯痒さのせい? 切なさのせい?」


「そんなことは……。そう、ですね」


「恋ができないあたしにとっては、羨ましい。尊敬にも似ている。これは、皮肉でも何でもない。あたしとは、人種が違うとさえ思う」


「メイ先輩は、恋をしないんですか?」


「一緒にいて、楽しい人はいるよ。だから、何かをする時に、その人を誘う優先度を上げることがある。偶然その人も、あたしを優先的に誘うのなら、「恋人同士」になれるかも」


「それは、恋ではないんですか?」


「「恋人同士」とか、ましてや「独占相手」なんて、役所で登録するような感覚じゃない。独占に執着すると、こんなことになる」


 メイはまた、絆創膏を軽く押す。ここにはいない誰かを睨み殺すように歪めた表情をし、固唾を飲んだ。


「だって、何を食べるかによって、スプーンか箸かフォークか、違うでしょ。箸が優先だけど、カレーライスならスプーンがいい」


「相手を決めないって、ことですか?」


「そう。箸を恋人にしても、カレーライスを食べる時は、別な友達であるスプーンを使う。遊園地なら、あの友達。ドライブなら、あの友達。それなのに、「いつでも俺を誘え。お前の笑顔の場所に、いつも俺がいるべき」ってのは、無理」


 メイの「ドライブ」の単語が、階層の違いを思い知らせる。小夜にとってのドライブは「連れて行ってもらう」こと。メイにとっては「一緒に楽しむ」こと。


「セッ……もですか?」


 コンシーラーで隠したキスマークを思い出す。


 メイは、おどけたように眉を上げる。


「ノーコメントよ」


「じゃあ! メイ先輩は、タクちゃんを、好きなんですか?! 告白するってことは、好きだってことですよねっ。好きだからこそ、許可する……」言い過ぎたと思い、口をつぐむ。


「ふふっ。ノーコメントよ」


 小夜の口角は、情けなく下がり、充血した目で涙。


 メイは続ける。


「あたしは水野君が好きだよ。一緒にいて楽しいからね。でも、胸が熱くなったり、痛くなったりしない。付き合ったら楽しくなるんだろうなっていう、期待があるだけ」


「胸が痛くならないんですか?」


「そうだよ。もし水野君と付き合えなくても、残念だってだけ。人数不足で軽音楽部が廃部になっても、それで人生は終わらない。生きていたら、楽しいことは、たくさんあるよね。全部を享受できないほどに」


「でも、恋と部活は違います。あ、恋をしないんですね」


「食べなければ死ぬけれど、スプーンが無ければカレー以外を食べればいい。好きなことが多いのを「幸せ」って言うんだから、好きな人が多くても幸せだよね」


 初めてメイと会った時、小夜は「この人がピンチになるのは、どんな時なんだろう」と思った。メイの考えに違和感があるが、誤りではないらしい。恋ができないのを、欠落とも言えない。文化の違いを、善悪を基準に議論はできない。


「そうだよ。でも小夜ちゃんは、恋しているよね。だから、またそうやって泣ける小夜ちゃんのこと、人種が違うんだな、羨ましいなと思う」


 小夜は何も言えない。


「恋の胸の痛みって、新しい人と距離が縮まる緊張もあるんだろうね。でも、まだ誰とも付き合ったことの無い小夜ちゃんや水野君にとっては、きっと、新しいことに進む期待、自分が変わってしまう怖れ……なんじゃないかなっ?」


 小夜は俯いている。しばらく考えて、言葉の意味を悟り、メイに振り向いた。


「なぞなぞってさ、答えのページを先に読んだら、面白くないよね」


「メイ先輩は、もう二度と! 恋が、できないんですかっ!」


「いつか、恋ができたらいいね。「何かをするのが楽しい」ってのじゃなくって、「この人が好き」っていう、恋ができたらいいね」


 小夜とメイは、同時に、深い溜息。笑ってしまった。


「あははっ。小夜ちゃんとユニゾンしちゃった」


 小夜も失笑しながら、不謹慎だと感じた。


 場の雰囲気を戻すように、メイが言う。


「さっさと告白しないと、手遅れになるよ。だって、水野君も、あたしと付き合ったら、「自分は独占相手にされている」って思うでしょ」


 メイは、握り拳の手の甲で額を触り、少し言いあぐねる。


「小夜ちゃんは、夏目漱石の『こころ』を読んだ?」


「いえ、教科書に載っていた、ほんの少しの部分だけです」


「そっ。ショージが言っていた「恋は罪悪ですよ」ってのは、要するにあの小説は「恋愛は独占が前提だから、早い者勝ち」ってこと。たったそれだけのことを、一冊を使って書いている。まっ、ショージにはショージの解釈があるだろうけどね」


「でもそれは、夏目漱石の時代から、現代も続いている日本の文化です。メイ先輩は、日本の文化に息苦しいんですか?」


「息苦しいんじゃないけど、まあ、水野君やショージ君は、それから小夜ちゃんも、現代日本の文化に従っている」


「……? だから、嘘を言ったり、騙すことも、できるんですか?」


 メイは少し考えてから、小夜に聞く。


「もしかして、水野君には秘密にしてほしいって、あの話?」


「そうです」


「小夜ちゃんは、水野君と、永遠の誓いができる?」


「……それは……。できると思います。できます」


「嘘を承知で、永遠の誓いをするのも、楽しいよね」


「嘘を承知でって……」


「子供のうちだから、少ない情報で判断して、「思い至らない」ってことはあるよね。「歩いて行ける」と判断して、赤信号を渡ったりするよね。管理する側は、大変だよね」


 小夜は、メイが言ったヒヨコの譬えを思い出す。


「タクちゃんを管理するんですか?」


「恋愛に、嘘や隠し事は、ご法度でしょ。それはわかってても、ガマンできずに赤信号を渡るのが子供。大人になれば、安全を確認して赤信号を渡る。大人も子供も、赤信号は違反なのに、大人になるとガマンしない言い訳が、ずるがしこくなる」


 メイは続ける。


「その場限りの、からかいや遊びで終わらない。コンシーラーで一時的に隠せるものとは違う」


 小夜は、メイに縋りつこうとしたが、思いとどまり、しかし、喘ぐように言う。


「もし、タクちゃんが、ガマンできなくて、メイ先輩を騙したら……。だって、男の人って……ガマンできずに騙すって、聞いたことがあります」


「心配してくれてるんだ、ありがと」


 小夜にとって、メイは恋敵(( )こいがたき)でもあるが、共通の敵を持つ同性でもある。


「でもね小夜ちゃん、ガマンできずに騙すのって、男の子だけじゃないよ……」


「大人のずるさってことですか?」


「うんんーん。大人は騙すのが上手になる。そうじゃなく、これは、あなたに言うべきでないかもしれないから、忘れるべきなら、忘れて欲しい。……いや、言わないでおこう」


 メイが、小夜を「あなた」と呼んだのは、これが最初で最後。メイは、小夜の言葉から「異性は危険。だから、同性なら」と、依存されていると察したため。


「聞かない方が、いいんですね」


「そう。あたしがピアスを開けたのは、男の子じゃない、その人がいたから」


 メイは宙に目を向け、清々しい、しかし、喪失と懐かしさを悔悟する表情をした。


 もしや、これが「彼氏にはなれない」なのだろうか。


「小夜ちゃんのことを、ショージは「手頃な恋人候補」にしてるけど、ショージだけじゃないよ。恋の胸の痛みにもなる、自分が変わってしまうことを過ぎたら、ガマンできずに手頃な……。ゴメン、あたしも言い過ぎた」


「(( )メイ先輩の、彼氏じゃない大学生。もう何年になるかな。ベースギターを弾く仕草。男の子の、自分が変わってしまう年齢は中学生。ガマンできずに手頃な。その頃の、妹であるメイ先輩の年齢。恋というなぞなぞを読む前に、答えとは)」


 小夜は青褪めた。これまで、メイから直接聞いた事柄が繋がると、恐怖、復讐、殺意……得も言われぬ(( )えもいわれぬ)破壊衝動で、本当に吐き気が込み上がった。


「水野君もきっと、大人ぶりたい年頃だし、言い訳がずるがしこくなる頃だし。「濡れぬ先には、露をも厭う」って言うよね。心配してくれて、ありがとう。気を付けるよ」


 鼻に皺を寄せて、嘲るような微笑みをするメイは、呪いの術(( )すべ)を持てないことを知っている。


 意を決して、これまで小夜がメイに聞けなかったことがある。今こそ、聞くチャンス。


「メイ先輩、「女ドラキュラ」と呼ばれています」


「そうらしいね。まだ恋を知らないあたしが言うのも変だけど、んんーん、恋を知らないから思うのかな? 恋って生活のほんの一部なのに、命と引き換える理由がわからない」


 メイの言葉は、『こころ』のことだろうか。『こころ』を読んでいない小夜だが、メイの「わからない」を聞いて、わからないのに否定するメイを、『こころ』を軽んじていると感じた。


 しかし、すぐにその考えは訂正した。タクならどのように言うだろうか、それを推測したから。タクなら「わからないのは、悪いことじゃない。もしも、わからないのが悪いのなら、俺は大悪人だ」と言って、明るく笑うだろう。


 もしかすると、メイも同じように言って、同じように明るく笑うのかも。


 メイは、部活に行くことを促すように、歩き始めた。目で追いながら、小夜は「虚像の一人歩き」、「虚像の暴走」という気がした。


「メイ先輩も、きっとこれから、恋ができると思います。誰かを好きになって、結婚して……」


「そして? 誰かに決められるのではなく、自分が好きな人にだけ許可する? 『こころ』のお嬢さんのように?」


「そうです、お嬢さんのように。ショージは、相手は誰でもいい、目の前にいる人っていう理由です。あたしのことを、あたしだから好きっていうんじゃない。でも、『こころ』のお嬢さんは、目の前にいる二人のうち、片方を選んだんですよね」


 メイは、目を伏せて軽く笑う。『こころ』を勘違いしたままの小夜に、訂正を言わない。


 そして、独り言のように言う。


「どうして「独占ではない」ことに、あんなに怒るんだろう?」




● ●




 明日は文化祭の本番。夜更かしはできない。


 そう思ってはいるが、小夜は寝付けなかった。階段裏でのメイとの話が頭から離れない。


 小夜にとって、タクとの間柄は、ずっと進まず、何も解決せず、もう間に合わない、終わりだというのが、ほぼ決まりなのだ。




 階段裏で、メイは言った。恋は生活のほんの一部、命と引き換える理由がわからないと。


 小夜にとって、タクとの恋は、「ほんの一部」ではないのに。




 下校時に、タクと買い食いした時のことを思い出す。


 公園でタクは、小夜の笑顔が好きだと言ってくれた。


 その後、小夜は夏に一方的にキスしたことを詫びると、タクは申し訳無さそうな表情で言う。


「欧米でのキスは、日本での握手に似ているらしい。武器を持っていない、無益にあなたを攻撃しないことを、互いに確認する。日本でのキスは、恋愛での信頼だ。互いに恋していることの確認だ」


 小夜は黙って聞いている。互いの確認ではない一方的なキスは、ショージが勝手に小夜に言い寄り、勝手に歌詞で小夜を隷属させることと、同じだと気付いたから。


「恋愛なら、相手に疑わしいことがあっても、努めて、相手が良い人だと思うようにする。でも、狡さを利用した弱さは、究極の強さ。俺は、騙されたら許せないから、愛でもなく、恋でもないのかも」


 小夜は、タクの言った「無益に」を聞いて、ヤッ子がメイのことを「無益に」と言ったのを思い出した。メイは、小夜を攻撃してはいない。自分にとって有益な情報を、小夜に「与えている」だけだ。


 もう、タクとキスができないのかも。しかし、せめて握手でもしたいとは、言えなかった。握手をすると、友達関係の約束となり進展が止まりそうな、終わりそうな気がした。小夜は、タクから恋愛での信頼として、キスがしたい。




 今日、メイに言い過ぎて、口をつぐんだ「許可する」の言葉を思い出す。


 掛け布団をベッドから落とした。仰向けで脚が三角になるように、膝を上げた。


 ここまでは、いつものこと。


 今日は初めて、足の裏も上げ、脚を浮かせた。足の裏は天井を向いた。


 公園で買い食いした日も、握手どころか、どこも触れなかった。


 タクと握手することを想像する。逞しくも、優しい手。タクの手を握ったまま、そっと誘い(( )いざない)導く。


 コンシーラーを使ったメイを、自分の知らない暗黒宇宙に思え、二度と戻れない世界に呑み込まれる恐怖に感じた。自分も、メイに浸潤され始めたのだろうか。


 目を閉じている。


 公園で一緒に買い食いをした時の、タクの笑顔を思い出す。階段裏でメイに言い掛けた「許可する」を思い出す。


「いいよ……」


 公園のタクの笑顔に、許可した。


 メイは、このようにしてキスマークを付けられたのだろう。恋をしないメイとは違う。あたしは、タクちゃんが好きだから、許可するんだ。


 実体の無いタクを抱いた。小夜自身の腕の重みで、タクが虚無であることを再確認してしまった。


 快楽とカタルシスを伴う、かなしい独り遊び。かなわぬ恋をかなえたい。明日、かなえたい。


 もう一度、もう一度、何度でも。


 薄目を開けると、天井の常夜灯が、瞼の間の涙のせいで、尖った万華鏡のように、歪に(( )いびつに)形を変え、静止し、乱舞する。


 そっと呟く。


「水野……拓……」


 自分の呟きは、小夜を驚かす。いつもの「タクちゃん」ではなかったから。


 呟きの声は、明日への決意の刻印となり、勇気付けると共に、不穏な謎の空間が、下腹部から胸を通り、喉まで達した。


 耳にまで届きそうな涙は、いつしか乾いた跡が感じられる。




● ●




 夜が明ければ、昨夜の決意は陽光に消されてしまう。


 文化祭当日。


 軽音楽部のステージは、午後の予定。それまでは、他の役割の無い小夜は、暇な時間が長い。


 小夜が廊下を曲がろうとしたところで、突き当りの位置にある理科準備室のドアが開いた。


 中からヤッ子が顔を出す。ドアのガラス窓から、小夜を見付けたらしい。


「星山さん、運がいいな、模擬店のクレープをもらったんだ。食べないか?」


「え? はい、いただきます」


 小夜が室内に入ってから、ヤッ子が、ドアのガラス窓のカーテンを閉じる。


「さぼっていると思われないよう、カーテンを閉じておこう。邪魔が入らないように、「外出中」の札も出しておこうか」


「ヤッ子先生、何だか裏工作が上手な人に思えます」


 初めて入った理科準備室。ほんのわずかに、薬品っぽい香りがする。小さいながら洗面台と鏡もある。


「このドアは、鍵が無くても施錠できるタイプで、うっかり鍵を忘れて施錠したことがあってね。鍵が無いと入れないのに」


「あ、そのタイプ、見たことがあります。中からなら鍵が無くても解錠できるんですよね」


「だから今は、いつも鍵を持ち歩くことにしてるのよ」


 白衣のポケットから、ケースに入れた鍵を出して見せた。ケースは、ポケットの布が破れないような、円みがある。


 小夜が、喜んでクレープのある机に向かうと、後ろからヤッ子が言う。


「苦しいだろう?」


「え?」


 ヤッ子は、小夜との距離を保ったまま、良く通る毅然とした声質で続ける。


「今の君に、将来を見なさいなどと言う気持ちは無い。私にできるのは僅かだ」


 ヤッ子がドアノブを握る音が聞こえる。


「これから校内巡視で外出する。施錠しておくから、ノックされても無視していい。ステージの予定まで、時間はまだまだある。気の済むまで、ここにいなさい」


 ヤッ子は廊下に出る。施錠音と、ドアが閉まる音が聞こえた。


 不思議だ。さっきまで、あんなに賑やかに感じた文化祭の校内。ドアが閉まった途端に、違う場所になったようだ。


 机の前には、学校特有の大きな窓。昨日、メイと話した階段裏が、この窓から見える。


 人通りが極めて少ない階段裏だと思っていたのは、校舎の内側、廊下を歩いていたから。


 校舎を俯瞰すると、秘め事に相応しくないことは、メイから部室の窓からも見られると、教えられていたはずなのに。


 ため息が、泣くのを堪えている。


 崩れるように、椅子に座る。机の上の、押し付けがましくない、優しい香りが近付く。


 自分で自分を制御できない。激しく震える指で、クレープを持ち、食べ始める。


 甘い。柔らかい。


 学校全体は、人の声、賑やかな音楽で溢れている。少しくらい、声を出しても、誰にも気付かれない。


 クレープを食べる。


 涙で、景色が見えなくなっている。明るさだけがわかる。


 声を出さずに泣いたのは、軽音楽部で外出した時。トイレで誰にも聞かれないように泣いた。


 声を出して泣いたのは、最後はいつ以来だろう。


 校内は賑やかとはいえ、大声は出せないというのが、小夜に残された理性。だからせめて、今だけは小さくていいからと、声を出して泣いた。クレープが、口からこぼれそうになる。


 誰もいない場所での泣き声は、怪談やホラーのように不気味に低く、壁に届く前に振動は静止した。


 いつしかクレープが、ほんの少しだけ塩の香りになっていた。




● ●



次回は …… [第七話] 主人公と周辺


♪ 今話の音楽用語


ユニゾン:ショージが説明

簡単に言えば、「同じことを、一緒に」ってことさ。口で歌いながら、歌と一緒に机を「コッココ……」と叩くのもユニゾンしていることになる。

タクがドラムスを、メイ先輩がベースを、同じに「ダダダ、ダダッダ」と鳴らすのも、ユニゾンさ。タイミングがぴったり合うと気持ちいい。

同時ではなく、直後に真似するのは「コール・アンド・レスポンス」で、これも気持ちいい。



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