7-2
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少しくすんだ水色の自転車は、引っ越してきたとき、高校入学のお祝いにとお父さんがプレゼントしてくれた。
この島の高校に通うには自転車がないと困るからって言ってたけど、ここで生活してみると、まだ車に乗れないわたしにとっては、通学だけじゃなく、自転車がなければどこにも行けない。バスは1時間に一本なんて、まだいい方で。
夏休みは、週末にお父さんと重いものをまとめ買いしにいく以外は、わたしがスーパーまで買い物に行く。
いつものようにキャップを被り、自転車で日陰の多い裏道を通ってスーパーに向かっていると、男子が大声で何か叫んでいるのが聞こえてきた。
「おい! お前聞いとんのか!?」「こっち来いや!」
嫌な予感がする。
いつもならひっそり通り過ぎるところだけど、どうしても気になって、できるだけ音を立てずに声の方へと近づいていくと、神社に入っていく数人の男子が見えて、その中心に金髪のキラキラした頭が光った。
やっぱり、ハルトくんだ。
ガラの悪い子たちは島の学校にもいて、ハルトくんがいつもの調子で彼らに見つかったら、絡まれるに決まってる。
「わたしの天使だから」昨日、そう言っていた奈津美さんの笑顔が浮かんだ。
どうしよう。
今日は天気予報でも暑さに注意と言っていた。そのせいもあるのか、あたりを見回してみても、人が出てくる気配はなかった。
そっと、神社の入り口ギリギリまで行ってみたけど、奥に入って行ったのか、中の様子ははっきりと見えない。
あの雰囲気は、間違いなくケンカになる。いや、ケンカにもならないかもしれない。向こうは一人じゃなかったし、一方的にやられるのはハルトくんだろう。
お巡りさんを呼んでくるにしても、一番近い交番までかなり距離があるし、行って帰る間に取り返しのつかないことになってしまったら。
そのとき、聞き慣れた息遣いがして振り返ると、そこにいたのはコーンだった。
すぐ後から、「今日は追いついたぞ」と、息を切らして飼い主のおじさんがやってくる。そういえば、コーンの飼い主さんは、この神社の神主さんだ。
「あの、さっき神社の中に中学生が連れていかれて、ケンカかも知れなくて」
わたしはとにかく必死で、危ない状況を伝えようとしたけれど、もしかしたら、こういうことが初めてじゃないのかもしれない。
「そうか、よし、コーンおいで」
神主さんは、あまり驚くことなく、しゃがみ込んでコーンを撫でると、神社の中へと走らせた。コーンは、どんなことを言われたのか、いつもわたしが聞いているのとは違う低い声で唸りながら、中へ勢いよく入っていった。
神主さんに言われて、塀のかげに隠れていると、しばらくして、コーンに追い出されるように、バタバタと何人かが去っていくのが見えた。しょうがないな、というようにブツブツ呟きながら。
その中にハルトくんはいなかったので、わたしは慌てて中へと入っていった。
「あれ、オーヤ?」
木陰に仰向けになっていたハルトくんが、起き上がった。
「大丈夫!?」
駆け寄ると、ハルトくんは殴られたのか、口元から血が出ていた。サングラスもしてなくて、初めてちゃんと目が合う。
「殴られたの!? 他にケガは?」
ケンカの現場に遭遇することなんて初めてで、手が震えてるわたしと反対に、ハルトくんは顔にケガをしているのにまったく気にしてない様子で、フッと微笑む。
年下だと知ったからかもしれないけれど、サングラスをしていない素顔のハルトくんは、確かにまだ中学生って感じがして、目はクリクリしてるし、金髪も相まって、ほんとに天使みたいだ。
そんなふうに思ったのも束の間、
「全然ボコってやれたけど、絶対ケンカしないって奈津美と約束してたから」と、およそ天使には似つかない言葉を吐いて、不敵に笑った。
ハルトくんはサングラスを取られたのか、周りを探しても見つからない。
わたしは、かぶっていたキャップを脱いで、ハルトくんに渡した。確か、人より眩しさを感じやすいからサングラスをしてるって言ってたはず。だとすると、キャップをかぶっておけば、少しでも眩しさは軽くなる気がして。
でも、ハルトくんは「そしたらオーヤのキャップがないじゃん」と、受け取らなかった。
キャップをこっちに押し返しながら、ハルトくんがわたしを見て動きを止めた。
「ていうか、オーヤこそ、熱あるんじゃね? 顔が赤い」
その言葉に、わたしは思わず、「今気づいたんだ」と、返した。
しかも、今ですら、暑さのせいで熱ってると思っているみたいだし。
確かに、ずっとサングラスをしていたから見えなかったのかもしれないけど、今まで赤面症を気にしていた自分がちょっと、バカバカしくなった。
「暑くなくても、顔が赤くなるんだ、わたし」
ハルトくんは、ちょっと驚いたように聞く。
「え、痛いとか?」
「痛くはないけど」
「なんだ。じゃあ、よかった」
すごくシンプルな返答に拍子抜けする。
そう考えてみると、恥ずかしくて隠すようになったけど、別に顔が赤くなるからといって、痛みがあるわけじゃないし、カアっと熱は感じるけれど、病気ではない。
「だから、ほら。眩しい方が大変でしょ」
もう一度キャップを貸してあげようとすると、いいよ、とまた突き返す。
「ここ、木陰だし」
なんでこんな暑い中出かけてたのかと聞くと、買い出しだとハルトくんは言った。
「奈津美が料理するのに、足りないものがあるっていうから」
「車で行けばいいじゃん……」
と言いかけて、この前、うちの車を覗いていたハルトくんの姿を思い出した。
もしかして、この前うちの車を見てたはそれのため?
お父さんのを借りれないか、自分が相談しようとでも思ったんだろうか。それで今日は、こんな暑い中、遠くまで歩いて買い物に行こうとして。
「すごい奈津美さんが好きなんだね。おばさんって聞いたけど」
「母さんの妹」
「へえ、仲良いんだね。いいなあ」
「俺、母親に見放されたんだ。一緒にいられないって。俺のせいで病気になったから。だから、もう奈津美しかいない」
たった今、いいなあ、と言ってしまった自分の口をつねりたくなった。
わたしは、ハルトくんを天使だという奈津美さんを見て、ちょっと羨ましかったんだ。お母さんだけじゃなく、叔母さんにまであんなに想われて、って。お父さんしかいない自分と比べて、嫉妬していたのかもしれない。
でも、そうじゃなかった。見放されたって……。
自分のせいで、お母さんが病気になったって、どういうことなんだろう。
「しばらく母さんと離れた方がいいってなって。奈津美が、ここに呼んでくれた。夏休みの間だけでも来たらって」
詳しくは聞かなかったけれど、それでもわたしが羨ましく思っていたような状況ではないということは想像できた。それと、奈津美さんとの絆も。
神主さんに借りてきた救急箱で、口元の傷を消毒してあげた。わたしが頼みに行くと、神主さんは、さっきといい、今まで会っても頭を下げるくらいだったわたしが、二回も自分から話しかけたので、少し驚いていたようだった。それでも、快く貸してくれた。「大丈夫なんか? わしもいこうか?」と心配してくれて。
できるだけ、奈津美さんにケガがバレないようにと思ったけれど、こんな口元の傷、ケンカじゃないと不自然だし、きっと気づいてしまうだろうな。
「転んだって言う」
と、ハルトくんが言うので、それは無理でしょ、と返しながら、奈津美さんにはハルトくんがやり返さなかったことを伝えておこうと思った。
ハルトくんが、奈津美さんとの約束を守ろうとしていることは、知っていて欲しかったから。
「奈津美だけが俺の味方だから、失敗したくない」
木にもたれて、俯くハルトくんを見ていると、ただ彼を羨ましく思っていた自分が、少し恥ずかしくなった。
ハルトくんは、一方的に奈津美さんに思われているわけじゃない。
トマトや野菜をもらうのも、買い出しに出るための車を探すのも、大家のわたしと仲良くしなきゃと思ったのだって、きっと奈津美さんのためだ。
ハルトくんなりに、奈津美さんを喜ばせようと一生懸命だったんだ。
自分を大切にしてくれている人のために、役に立ちたいという気持ちは、わたしにもわかる。
わたしも同じだから。それに、わたしは家族としてお父さんを、これ以上悲しませたくないと思っている。もしかしたら、それも一緒なのかもしれない。
「買い出しって、何を買ってくればいいの?」
そう言うと、ハルトくんは少し驚いた表情で、わたしを見上げた。




