第四十六話 守るもの
「北へ向かう船を止めろ!」
ヴァルターの声が港に響いた。
「商船は沖へ出すな! 魔石を積んでいる船は西側へ分離!」
「倉庫の魔石は!?」
「触るな!」
「でも光ってます!」
「だから触るな!」
混乱。
怒号。
馬の鳴き声。
北方商人たちは船へ戻ろうとし。
南方商人たちは荷物を守ろうとしている。
「リディア!」
ダリオが走ってきた。
「何が起きてる!」
「分かりません!」
「分からない!?」
「分からないから、今は人を動かします!」
リディアは木箱へ上がった。
「全員聞いてください!」
声を張る。
「商品を守りたい人!」
ほとんどの商人が振り返る。
「なら、まず人を守ってください!」
「人が死ねば」
「今日の商品どころか明日の商売もなくなります!」
ざわめきが止まる。
「北方船の乗員は西桟橋!」
「南方船は東!」
「荷役人は中央広場へ!」
「自分の荷物を勝手に動かした人は」
「今後アストラ港への入港を断ります!」
「横暴だ!」
一人が叫ぶ。
「では出ていってください!」
即答。
「今すぐ!」
商人が黙る。
「……怖ぇ」
ダリオが呟く。
「何か?」
「いや」
「働いてください」
「はい」
◇
同じ頃。
エレノアは北部へ向かっていた。
騎士八人。
馬車二台。
そして。
「何で私まで……」
セレナが馬上で呟く。
「北方でも同じ現象が起きているのでしょう?」
「だからといって」
「行きたいとは言ってません」
「でも来てくれました」
「断れない聞き方をしたからです!」
「ありがとうございます」
「褒めてません!」
地面が。
微かに震える。
遠くに見える。
青い光。
「強くなってる……」
エレノアが手綱を握る。
北部の土地。
倉庫建設予定地。
その地下。
すべての始まり。
「エレノア様!」
先頭の騎士が叫ぶ。
「人がいます!」
「誰?」
「ヨハンです!」
塩の仕事を任せていたヨハンが。
作業員たちを連れて走ってくる。
「エレノア様!」
「どうしてここに?」
「地面が光り始めたので、近くの作業員を逃がしていました!」
「怪我人は?」
「二人!」
「命に別状はありません!」
エレノアは馬を降りる。
「全員下がってください」
「でも」
「倉庫用の資材が!」
積み上げた木材。
石材。
道具。
ここまで運んだもの。
「捨ててください」
「ですが!」
「人が先です」
エレノアは迷わなかった。
「資材は」
「また買えます」
「分かりました!」
ヨハンが走る。
セレナがその背中を見る。
「随分簡単に捨てますね」
「簡単ではありません」
「では?」
「父に」
「教えてもらいました」
エレノアは青い光を見る。
「守る順番を」
◇
地面には。
巨大な亀裂ができていた。
「ここ……」
セレナが馬を止める。
「北方と同じです」
「同じ?」
「はい」
「青い線が」
地面を走っている。
まるで。
何かへ向かう道のように。
「どこへ?」
エレノアたちは線を追う。
倉庫予定地を越え。
さらに北。
古い崖。
「行き止まり?」
「違います」
セレナが崖へ近づく。
「この石」
「加工されてる」
苔を払う。
巨大な石壁。
自然の岩ではない。
「扉……?」
エレノアが呟く。
その瞬間。
腰に下げていた魔石が。
光った。
「エレノア様!」
「離れて!」
魔石を投げる。
地面へ落ちる。
青い光。
だが。
爆発しない。
代わりに。
光が抜けていく。
「魔力が……」
セレナが息を呑む。
魔石は。
数秒で。
ただの灰色の石になった。
「吸われた?」
「北方と同じです」
「でも」
エレノアは石壁を見る。
「ここでは」
「この扉が吸っている」
青い線が。
すべて。
扉へ集まっている。
その中央。
小さな窪み。
「魔石を入れる場所?」
「触らない方がいいです」
「はい」
「絶対です」
「分かってます」
「本当に?」
「私を何だと思ってるんです?」
「桐生さんの仲間です」
「どういう意味ですか?」
「危ないものを見ると調べたがる」
「……否定できません」
その時。
騎士が走ってくる。
「エレノア様!」
「港から伝令です!」
「何が?」
「魔石の発光が」
「止まったそうです!」
「止まった?」
「はい!」
エレノアとセレナが顔を見合わせる。
「こちらは?」
青い線。
弱くなっている。
「止まり始めてる」
「どうして?」
誰にも分からない。
◇
王都地下。
「止まった?」
桐生が中央の柱を見る。
黒い流れが消えていた。
老人も驚いている。
「何をした?」
「俺に聞かないでください」
「ではなぜ止まった」
「だから知らないって」
ガイルが剣を構えたまま言う。
「壊れたんじゃねぇのか?」
「違う」
老人が地図へ近づく。
「流れが変わった」
「どこへ?」
青い線。
王都。
北方。
アストラ。
その三つが。
一本へ集まっている。
「アストラだ」
「また?」
「いや」
老人が顔を強張らせる。
「もっと深い」
「さっき言ってた地下?」
「ああ」
アルベルトが地図を見る。
「何がある」
老人は答えない。
「知らないんですか?」
「……知らん」
「二十年調べて?」
「アストラ地下だけは」
「入れなかった」
「なぜ?」
「エドワードが封じた」
桐生が止まる。
「エレノアさんのお父さんが?」
「ああ」
「どうやって?」
「知らん」
「彼は」
「我々にも教えなかった」
カイルが鼻で笑う。
「ざまあみろ」
「カイルさん」
「何だよ」
「気持ちは分かりますけど」
「今はちょっと」
「いいだろ別に」
老人は気にしていない。
地図を見続けている。
「おかしい」
「何が?」
「この流れは」
「施設が魔力を吸収しているのではない」
「じゃあ?」
「送っている」
「どこへ?」
「アストラ地下だ」
静寂。
「何のために?」
「分からん」
桐生は深く息を吐いた。
「分からないこと多すぎません?」
「古代文明だぞ」
「二十年やってたからもう少し期待してました」
「お前は私を何だと思っている」
「だいぶ迷惑な研究者」
「殺すぞ」
「ガイルさん」
「任せろ」
「そうじゃない」
だが。
桐生は。
地図から目を離さなかった。
アストラへ。
魔力が集まっている。
北方の魔石からも。
王都の施設からも。
「待って」
「何だ?」
「この施設」
「魔力を配る場所なんですよね?」
「ああ」
「なのに今は」
「アストラへ集めてる」
「そう見える」
「なら」
桐生が老人を見る。
「誰かが」
「向こう側から操作してる?」
老人の表情が変わる。
「あり得ない」
「なぜ?」
「制御装置は」
「ここにある」
中央の柱を指す。
「じゃあ」
「もう一つある?」
沈黙。
アルベルトが壁の文字を調べ始める。
「……待て」
「何か?」
「ここ」
古代文字。
薄れている。
「中央管理」
「王都?」
「いや」
アルベルトが首を振る。
「これは」
「中継管理」
「中継?」
老人がアルベルトを押し退けるように文字を見る。
「馬鹿な」
「何です?」
「ここが」
「中央ではない」
「じゃあ中央は?」
老人の視線が。
地図を走る。
青い線。
すべての線が。
最後に集まる場所。
「アストラ……」
桐生が呟く。
老人は。
何も言わなかった。
その顔が。
答えだった。
◇
「帰ります」
桐生が言った。
「何?」
老人が振り返る。
「アストラへ」
「待て」
「何です?」
「ここを調べる必要がある」
「あなたはどうぞ」
「お前は残れ」
「嫌です」
「世界の危機だぞ」
「だからです」
桐生は老人を見る。
「中心がアストラなら」
「ここにいる意味ないでしょう」
「だが帳簿は?」
「持って帰ります」
机にあった。
二十年前の記録。
アストラ産魔石。
加工。
搬入。
十分だ。
「それだけでいいのか?」
「今は」
「全部欲しがって」
「何も持って帰れなくなる方が嫌です」
カイルが笑う。
「成長したな」
「だから何目線なんです?」
「海の先輩」
「銀行員でした」
「知らねぇよ」
アルベルトが帳簿を抱える。
「私は残る」
桐生が止まる。
「本気ですか?」
「ああ」
「父を殺した人ですよ?」
「だからだ」
アルベルトは老人を見る。
「グレゴールが」
「何を知って」
「何をしようとしていたのか」
「私は知らなければならない」
「危険です」
「分かっている」
ガイルが聞く。
「死ぬかもしれんぞ」
「それも分かっている」
「なら好きにしろ」
「軽くない?」
「本人が決めたんだ」
桐生は少し迷った。
でも。
止めなかった。
「これ」
帳簿を一冊だけアルベルトへ渡す。
「何だ?」
「何かあった時」
「交換材料になるかもしれない」
「私に交渉しろと?」
「生き残れってことです」
アルベルトは。
少しだけ笑った。
「お前に言われるとはな」
「帰ったら」
「エレノア様に説明してくださいね」
「私が?」
「クロイツ家の人なので」
「雑に押し付けるな」
「お願いします」
桐生。
ガイル。
カイル。
三人が地下を出る。
老人は止めなかった。
ただ。
最後に。
「桐生」
呼び止める。
「何です?」
「アストラの扉を」
「開けるな」
「なぜ?」
「分からないからだ」
「……珍しいですね」
「何が」
「分からないから触るなって」
「まともなこと言うんだなと思って」
「早く行け」
◇
帰りの船。
「あと何日?」
カイルが聞く。
「税まで?」
「ああ」
「五日」
「王都からアストラまで二日」
「予定通りなら三日残るな」
「予定通りなら」
桐生は嫌な予感がした。
「何だよ」
「そういうこと言うと」
「大体何か起きるんですよ」
「気のせいだ」
ガイルが言った。
「そうですよね」
「多分な」
「不安にさせないでください」
帆が膨らむ。
船が王都を離れる。
持ち帰るもの。
二十年前の帳簿。
アストラの権利を守る証拠。
それだけで。
十分なはずだった。
◇
翌朝。
「船!」
見張りが叫んだ。
「前方!」
桐生が起き上がる。
「また海軍?」
「違う!」
カイルが望遠鏡を覗く。
「アストラからだ!」
一隻の小型船。
異常な速度で近づいてくる。
黒鴎団の旗。
「頭!」
向こうから叫び声。
「止まれ!」
「何だ!」
船が並ぶ。
黒鴎団の男が。
息を切らしていた。
「アストラが!」
桐生の顔が強張る。
「何があった?」
「北の土地が」
「開いた!」
「……何?」
「地面が割れて!」
「地下に」
「でかい建物が出てきた!」
ガイルが立ち上がる。
「エレノアは?」
「中へ入った!」
「何で!?」
桐生が叫ぶ。
「止めたよ!」
「でも」
「中から声がしたんだ!」
「声?」
男の顔が青ざめている。
「領主様の名前を」
「呼んでた」
海の音だけが。
一瞬。
聞こえた。
「誰が?」
「分からねぇ」
「でも」
男は震えながら言った。
「こう言った」
「――エレノア」
「二十年」
「待っていたって」
桐生の背中に。
冷たいものが走った。
「船を回せ!」
カイルが叫ぶ。
「全速だ!」
帆が開く。
風を掴む。
アストラへ。
税の期限まで。
残り四日。
だが。
桐生の頭から。
税のことは。
初めて完全に消えていた。第四十六話 守るもの
「北へ向かう船を止めろ!」
ヴァルターの声が港に響いた。
「商船は沖へ出すな! 魔石を積んでいる船は西側へ分離!」
「倉庫の魔石は!?」
「触るな!」
「でも光ってます!」
「だから触るな!」
混乱。
怒号。
馬の鳴き声。
北方商人たちは船へ戻ろうとし。
南方商人たちは荷物を守ろうとしている。
「リディア!」
ダリオが走ってきた。
「何が起きてる!」
「分かりません!」
「分からない!?」
「分からないから、今は人を動かします!」
リディアは木箱へ上がった。
「全員聞いてください!」
声を張る。
「商品を守りたい人!」
ほとんどの商人が振り返る。
「なら、まず人を守ってください!」
「人が死ねば」
「今日の商品どころか明日の商売もなくなります!」
ざわめきが止まる。
「北方船の乗員は西桟橋!」
「南方船は東!」
「荷役人は中央広場へ!」
「自分の荷物を勝手に動かした人は」
「今後アストラ港への入港を断ります!」
「横暴だ!」
一人が叫ぶ。
「では出ていってください!」
即答。
「今すぐ!」
商人が黙る。
「……怖ぇ」
ダリオが呟く。
「何か?」
「いや」
「働いてください」
「はい」
◇
同じ頃。
エレノアは北部へ向かっていた。
騎士八人。
馬車二台。
そして。
「何で私まで……」
セレナが馬上で呟く。
「北方でも同じ現象が起きているのでしょう?」
「だからといって」
「行きたいとは言ってません」
「でも来てくれました」
「断れない聞き方をしたからです!」
「ありがとうございます」
「褒めてません!」
地面が。
微かに震える。
遠くに見える。
青い光。
「強くなってる……」
エレノアが手綱を握る。
北部の土地。
倉庫建設予定地。
その地下。
すべての始まり。
「エレノア様!」
先頭の騎士が叫ぶ。
「人がいます!」
「誰?」
「ヨハンです!」
塩の仕事を任せていたヨハンが。
作業員たちを連れて走ってくる。
「エレノア様!」
「どうしてここに?」
「地面が光り始めたので、近くの作業員を逃がしていました!」
「怪我人は?」
「二人!」
「命に別状はありません!」
エレノアは馬を降りる。
「全員下がってください」
「でも」
「倉庫用の資材が!」
積み上げた木材。
石材。
道具。
ここまで運んだもの。
「捨ててください」
「ですが!」
「人が先です」
エレノアは迷わなかった。
「資材は」
「また買えます」
「分かりました!」
ヨハンが走る。
セレナがその背中を見る。
「随分簡単に捨てますね」
「簡単ではありません」
「では?」
「父に」
「教えてもらいました」
エレノアは青い光を見る。
「守る順番を」
◇
地面には。
巨大な亀裂ができていた。
「ここ……」
セレナが馬を止める。
「北方と同じです」
「同じ?」
「はい」
「青い線が」
地面を走っている。
まるで。
何かへ向かう道のように。
「どこへ?」
エレノアたちは線を追う。
倉庫予定地を越え。
さらに北。
古い崖。
「行き止まり?」
「違います」
セレナが崖へ近づく。
「この石」
「加工されてる」
苔を払う。
巨大な石壁。
自然の岩ではない。
「扉……?」
エレノアが呟く。
その瞬間。
腰に下げていた魔石が。
光った。
「エレノア様!」
「離れて!」
魔石を投げる。
地面へ落ちる。
青い光。
だが。
爆発しない。
代わりに。
光が抜けていく。
「魔力が……」
セレナが息を呑む。
魔石は。
数秒で。
ただの灰色の石になった。
「吸われた?」
「北方と同じです」
「でも」
エレノアは石壁を見る。
「ここでは」
「この扉が吸っている」
青い線が。
すべて。
扉へ集まっている。
その中央。
小さな窪み。
「魔石を入れる場所?」
「触らない方がいいです」
「はい」
「絶対です」
「分かってます」
「本当に?」
「私を何だと思ってるんです?」
「桐生さんの仲間です」
「どういう意味ですか?」
「危ないものを見ると調べたがる」
「……否定できません」
その時。
騎士が走ってくる。
「エレノア様!」
「港から伝令です!」
「何が?」
「魔石の発光が」
「止まったそうです!」
「止まった?」
「はい!」
エレノアとセレナが顔を見合わせる。
「こちらは?」
青い線。
弱くなっている。
「止まり始めてる」
「どうして?」
誰にも分からない。
◇
王都地下。
「止まった?」
桐生が中央の柱を見る。
黒い流れが消えていた。
老人も驚いている。
「何をした?」
「俺に聞かないでください」
「ではなぜ止まった」
「だから知らないって」
ガイルが剣を構えたまま言う。
「壊れたんじゃねぇのか?」
「違う」
老人が地図へ近づく。
「流れが変わった」
「どこへ?」
青い線。
王都。
北方。
アストラ。
その三つが。
一本へ集まっている。
「アストラだ」
「また?」
「いや」
老人が顔を強張らせる。
「もっと深い」
「さっき言ってた地下?」
「ああ」
アルベルトが地図を見る。
「何がある」
老人は答えない。
「知らないんですか?」
「……知らん」
「二十年調べて?」
「アストラ地下だけは」
「入れなかった」
「なぜ?」
「エドワードが封じた」
桐生が止まる。
「エレノアさんのお父さんが?」
「ああ」
「どうやって?」
「知らん」
「彼は」
「我々にも教えなかった」
カイルが鼻で笑う。
「ざまあみろ」
「カイルさん」
「何だよ」
「気持ちは分かりますけど」
「今はちょっと」
「いいだろ別に」
老人は気にしていない。
地図を見続けている。
「おかしい」
「何が?」
「この流れは」
「施設が魔力を吸収しているのではない」
「じゃあ?」
「送っている」
「どこへ?」
「アストラ地下だ」
静寂。
「何のために?」
「分からん」
桐生は深く息を吐いた。
「分からないこと多すぎません?」
「古代文明だぞ」
「二十年やってたからもう少し期待してました」
「お前は私を何だと思っている」
「だいぶ迷惑な研究者」
「殺すぞ」
「ガイルさん」
「任せろ」
「そうじゃない」
だが。
桐生は。
地図から目を離さなかった。
アストラへ。
魔力が集まっている。
北方の魔石からも。
王都の施設からも。
「待って」
「何だ?」
「この施設」
「魔力を配る場所なんですよね?」
「ああ」
「なのに今は」
「アストラへ集めてる」
「そう見える」
「なら」
桐生が老人を見る。
「誰かが」
「向こう側から操作してる?」
老人の表情が変わる。
「あり得ない」
「なぜ?」
「制御装置は」
「ここにある」
中央の柱を指す。
「じゃあ」
「もう一つある?」
沈黙。
アルベルトが壁の文字を調べ始める。
「……待て」
「何か?」
「ここ」
古代文字。
薄れている。
「中央管理」
「王都?」
「いや」
アルベルトが首を振る。
「これは」
「中継管理」
「中継?」
老人がアルベルトを押し退けるように文字を見る。
「馬鹿な」
「何です?」
「ここが」
「中央ではない」
「じゃあ中央は?」
老人の視線が。
地図を走る。
青い線。
すべての線が。
最後に集まる場所。
「アストラ……」
桐生が呟く。
老人は。
何も言わなかった。
その顔が。
答えだった。
◇
「帰ります」
桐生が言った。
「何?」
老人が振り返る。
「アストラへ」
「待て」
「何です?」
「ここを調べる必要がある」
「あなたはどうぞ」
「お前は残れ」
「嫌です」
「世界の危機だぞ」
「だからです」
桐生は老人を見る。
「中心がアストラなら」
「ここにいる意味ないでしょう」
「だが帳簿は?」
「持って帰ります」
机にあった。
二十年前の記録。
アストラ産魔石。
加工。
搬入。
十分だ。
「それだけでいいのか?」
「今は」
「全部欲しがって」
「何も持って帰れなくなる方が嫌です」
カイルが笑う。
「成長したな」
「だから何目線なんです?」
「海の先輩」
「銀行員でした」
「知らねぇよ」
アルベルトが帳簿を抱える。
「私は残る」
桐生が止まる。
「本気ですか?」
「ああ」
「父を殺した人ですよ?」
「だからだ」
アルベルトは老人を見る。
「グレゴールが」
「何を知って」
「何をしようとしていたのか」
「私は知らなければならない」
「危険です」
「分かっている」
ガイルが聞く。
「死ぬかもしれんぞ」
「それも分かっている」
「なら好きにしろ」
「軽くない?」
「本人が決めたんだ」
桐生は少し迷った。
でも。
止めなかった。
「これ」
帳簿を一冊だけアルベルトへ渡す。
「何だ?」
「何かあった時」
「交換材料になるかもしれない」
「私に交渉しろと?」
「生き残れってことです」
アルベルトは。
少しだけ笑った。
「お前に言われるとはな」
「帰ったら」
「エレノア様に説明してくださいね」
「私が?」
「クロイツ家の人なので」
「雑に押し付けるな」
「お願いします」
桐生。
ガイル。
カイル。
三人が地下を出る。
老人は止めなかった。
ただ。
最後に。
「桐生」
呼び止める。
「何です?」
「アストラの扉を」
「開けるな」
「なぜ?」
「分からないからだ」
「……珍しいですね」
「何が」
「分からないから触るなって」
「まともなこと言うんだなと思って」
「早く行け」
◇
帰りの船。
「あと何日?」
カイルが聞く。
「税まで?」
「ああ」
「五日」
「王都からアストラまで二日」
「予定通りなら三日残るな」
「予定通りなら」
桐生は嫌な予感がした。
「何だよ」
「そういうこと言うと」
「大体何か起きるんですよ」
「気のせいだ」
ガイルが言った。
「そうですよね」
「多分な」
「不安にさせないでください」
帆が膨らむ。
船が王都を離れる。
持ち帰るもの。
二十年前の帳簿。
アストラの権利を守る証拠。
それだけで。
十分なはずだった。
◇
翌朝。
「船!」
見張りが叫んだ。
「前方!」
桐生が起き上がる。
「また海軍?」
「違う!」
カイルが望遠鏡を覗く。
「アストラからだ!」
一隻の小型船。
異常な速度で近づいてくる。
黒鴎団の旗。
「頭!」
向こうから叫び声。
「止まれ!」
「何だ!」
船が並ぶ。
黒鴎団の男が。
息を切らしていた。
「アストラが!」
桐生の顔が強張る。
「何があった?」
「北の土地が」
「開いた!」
「……何?」
「地面が割れて!」
「地下に」
「でかい建物が出てきた!」
ガイルが立ち上がる。
「エレノアは?」
「中へ入った!」
「何で!?」
桐生が叫ぶ。
「止めたよ!」
「でも」
「中から声がしたんだ!」
「声?」
男の顔が青ざめている。
「領主様の名前を」
「呼んでた」
海の音だけが。
一瞬。
聞こえた。
「誰が?」
「分からねぇ」
「でも」
男は震えながら言った。
「こう言った」
「――エレノア」
「二十年」
「待っていたって」
桐生の背中に。
冷たいものが走った。
「船を回せ!」
カイルが叫ぶ。
「全速だ!」
帆が開く。
風を掴む。
アストラへ。
税の期限まで。
残り四日。
だが。
桐生の頭から。
税のことは。
初めて完全に消えていた。




