第三十五話 十日
「徴税期限を三日前倒しする」
リディアが書面を二度読み返した。
「そんなこと、できるんですか?」
「普通はできません」
エレノアが答える。
「少なくとも、私は聞いたことがありません」
「なら無視すりゃいい」
ガイルが吐き捨てる。
「どう考えても嫌がらせだろ」
「それをやると、相手の思う通りです」
桐生は書面の最後を見る。
王国財務卿 グレゴール・クロイツ。
アルベルトより上。
財務院そのものを動かせる人間。
「払えなければアストラは期限違反」
「抗議すれば、王都の命令に逆らった領地になる」
カイルが鼻で笑う。
「随分と偉い奴らしいやり方だな」
「だから払います」
桐生は書面を畳んだ。
「十日で」
「足りないんだろ?」
「足りません」
「じゃあどうすんだ」
「稼ぎます」
「だからどうやってだ!」
「それを今から考えるんですよ」
「自信満々に言うな!」
その時。
「一つ、いいですか」
リディアだった。
「期限が三日縮んだことより、気になることがあります」
「何です?」
「早すぎる」
桐生が彼女を見る。
「レオンが王都へ着くのは?」
「順調でも明日の夕方です」
カイルが答えた。
「風が悪けりゃもっとかかる」
「では」
リディアが書面を指で叩く。
「なぜグレゴール・クロイツは、もう動いているんです?」
部屋が静まった。
アルベルトの失敗。
魔石。
レオンとの取引。
どれもまだ王都には届いていないはずだ。
「……別の報告経路がある」
エレノアが呟く。
桐生の頭に一人の顔が浮かんだ。
「ロイド」
◇
ロイドは港の倉庫にいた。
裏切りが発覚してからも、桐生は彼を閉じ込めてはいなかった。
逃げなかった。
毎朝仕事へ出て。
夜には城へ戻る。
それを繰り返していた。
「次の連絡はいつでしたっけ」
桐生が尋ねる。
ロイドの顔が強張る。
「……今日です」
「今日?」
「月に一度、王都から商人が来ます」
「妻と娘が無事だという証拠を持って」
忘れていた。
いや。
次々に起きる問題の中で、後回しにしてしまっていた。
桐生は唇を噛む。
「何時です?」
「日が沈む頃です」
カイルが窓を見る。
「あと二刻もねぇぞ」
「場所は?」
「西門の外にある古い水車小屋です」
「分かりました」
桐生が立ち上がる。
ロイドが慌てて腕を掴んだ。
「待ってください!」
「何です?」
「捕まえるんですか?」
「まず話を聞きます」
「駄目です!」
声が震えている。
「向こうに何かあれば……家族が」
「分かってます」
「分かってない!」
ロイドが初めて声を荒らげた。
「三年間です!」
「三年間、私は言われた通りにした!」
「港のことも!」
「税のことも!」
「あなたたちのことも!」
「全部送った!」
拳が震える。
「今さら私が裏切ったと分かれば、妻と娘がどうなるか……!」
桐生は何も言えなかった。
正しいことをすれば助かる。
そんな保証はない。
「……じゃあ」
エレノアが口を開いた。
「いつも通りにしてください」
ロイドが振り返る。
「領主様?」
「あなたは今日も情報を渡す」
「何も変わっていないように」
「でも」
「家族を助ける方法は、私たちが探します」
ロイドの目が揺れる。
「なぜ……」
「あなたがしたことを許したわけではありません」
エレノアはまっすぐ彼を見る。
「でも、あなたの娘には関係ないでしょう」
ロイドが俯いた。
「……ありがとうございます」
「まだ助けてません」
エレノアの声は震えなかった。
「助けてから言ってください」
桐生は少し笑った。
もう。
自分が口を挟む必要すらなかった。
◇
夕暮れ。
古い水車小屋。
ロイドは一人で待っていた。
桐生たちは離れた林に隠れている。
「来たぞ」
ガイルが囁く。
一台の荷馬車。
商人らしい男が降りる。
護衛は二人。
男は水車小屋へ入り。
しばらくして出てきた。
「終わりか?」
「待って」
桐生が止める。
ロイドはまだ出てこない。
商人が荷馬車へ戻る。
その時だった。
「頭」
黒鴎団の男が指差した。
「荷台」
布の隙間から。
小さな手が見えた。
「……子供?」
桐生の背筋が冷える。
直後。
水車小屋からロイドが飛び出した。
「待て!」
商人が笑った。
「確認しただろ?」
「娘は生きている」
「約束が違う!」
「約束?」
男は荷馬車へ乗る。
「我々は、生かしておくと言っただけだ」
ロイドが走る。
護衛が剣を抜いた。
「ガイルさん!」
「もう行ってる!」
林から影が飛び出した。
一人目。
剣を抜く前に、ガイルの鞘が顎へ入る。
二人目が振り向く。
「なっ――」
腹へ蹴り。
地面を転がった。
「相変わらず無茶苦茶だな」
カイルが笑いながら荷馬車へ走る。
「海賊だ!」
商人が叫んだ。
「元な!」
「頭、それ最近気に入ってます?」
「うるせぇ!」
馬が走り出す。
「逃がすな!」
黒鴎団が回り込む。
だが商人は懐から何かを取り出した。
赤い石。
「魔石?」
エレノアの顔色が変わる。
「伏せて!」
石が光った。
爆音。
地面が弾ける。
馬が暴れた。
「うおっ!」
カイルが転がる。
荷馬車が傾き――
横転した。
「ミア!」
ロイドが駆け寄る。
荷台の布を剥ぐ。
中には。
十歳ほどの少女が一人。
手を縛られていた。
「……お父さん?」
ロイドが崩れ落ちた。
「ミア……!」
抱き締める。
「ごめん」
「ごめんな……」
少女は何が起きたのか分からないまま、父親の服を握った。
桐生は目を逸らした。
終わっていない。
「奥さんは?」
ロイドの身体が固まる。
少女が小さく言った。
「お母さんは……王都」
商人を見る。
逃げようとしていた。
ガイルが首根っこを掴む。
「どこ行くんだ?」
「離せ!」
「奥さんはどこです?」
桐生が尋ねる。
「知らん!」
「グレゴール・クロイツの命令ですか?」
男の目が一瞬動いた。
それだけで十分だった。
「なるほど」
「何がなるほどだ!」
「じゃあ次」
桐生は王都から届いた徴税書を見せる。
「これ、いつ決まったんです?」
男が黙る。
「今日届いた」
「つまり昨日には王都を出ている」
「でもアルベルトさんの失敗は、まだ王都に届いていない」
男の顔から血の気が引いた。
「なのに」
「グレゴールは期限を縮めた」
桐生は一歩近づく。
「何を知ったんです?」
「……知らん」
「魔石ですか?」
男の瞳が揺れた。
リディアが息を呑む。
「桐生さん」
「ええ」
これで分かった。
アルベルトではない。
レオンでもない。
もっと前から。
誰かが魔石のことを王都へ知らせていた。
「誰から聞いた?」
男は口を閉ざす。
その時。
少女がロイドの服を引いた。
「お父さん」
「どうした?」
「あの人」
少女は商人を指差した。
「王都で会ったことある」
男の表情が凍った。
「誰といた?」
ロイドが聞く。
少女は少し考えた。
「偉そうなおじいさん」
「名前は?」
「分からない」
「でも」
少女は胸元を指差した。
「鳥の印を付けてた」
桐生とカイルが同時に顔を上げた。
鳥の紋章。
アルベルトが逃げ込んだ屋敷。
二十年前。
セイル商会を海賊認定した元財務官。
「……あの老人」
カイルが低く呟く。
生きている。
そして。
王都とも繋がっている。
◇
城へ戻ったのは夜だった。
ロイドと娘は一緒にいる。
妻はまだ王都。
だが、初めて一人を取り戻した。
「桐生さん」
リディアが帳簿を持ってくる。
「明日の優先使用権募集ですが」
「続けます」
「この状況で?」
「だからです」
桐生は黒板を見る。
残り十日。
不足する税。
王都にいるロイドの妻。
クロイツ家。
謎の老人。
魔石。
問題は増えた。
時間は減った。
「相手は期限を縮めれば、俺たちが焦って魔石を売ると思ってる」
「売ったら?」
エレノアが尋ねる。
「買い叩く」
リディアが答えた。
「あるいは、無許可採掘を理由に介入する」
「どちらにしても向こうが得します」
桐生は頷いた。
「だから売らない」
「魔石なしで税を払う」
「十日で?」
「十日で」
ガイルがため息をつく。
「また働くのか……」
「嫌なら魔石掘ります?」
「働く」
「即答ですね」
その時。
城門から鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
夜間の来客を知らせる鐘。
「今度は何だよ」
ガイルが頭を抱える。
騎士が駆け込んできた。
「港に船です!」
「黒鴎団か?」
「違います!」
「商船です!」
「何隻?」
騎士が息を整える。
「十二隻です」
全員が黙った。
「十二?」
「南方の商船団です」
「なぜアストラに?」
「それが……」
騎士は困惑した顔で答えた。
「この港なら、荷物を早く王都へ運べると聞いた、と」
桐生がリディアを見る。
リディアも桐生を見る。
塩。
黒鴎団。
港。
これまで一つずつ動かしてきたもの。
ようやく。
外から客を連れてきた。
「積み荷は?」
「香辛料、染料、南方布、それから薬草です」
リディアの表情が変わった。
「桐生さん」
「はい」
「これ」
彼女は笑った。
「八百四十枚どころじゃないかもしれません」
残り十日。
初めて。
期限が短くなったことを――
桐生は少しだけ、面白いと思った。




