第三話 商人は善意では動かない
港町アストラは、朝から活気に満ちていた。
石畳を荷馬車が行き交い、船員たちの怒声が飛び交う。
潮風に混じって、魚を焼く匂いが鼻をくすぐった。
「賑やかですね。」
エレノアは港を見渡し、小さく笑った。
領地で最も人が集まる場所。
それが、この港だった。
「ええ。」
桐生はゆっくりと辺りを見回す。
船。
倉庫。
市場。
荷車。
そして、人の流れ。
しばらく黙って眺めたあと、小さく呟いた。
「……もったいない。」
「え?」
「この港です。」
エレノアは首を傾げる。
「何がですか?」
桐生は笑うだけだった。
「あとで分かります。」
ガイルは肩をすくめる。
「相変わらず回りくどい男だ。」
三人は港で一番大きな建物へ向かった。
黄金の帆を描いた紋章。
ヴァレンス商会。
領内最大の商会だった。
◇
応接室へ通されると、一人の女性が姿を現した。
黒髪を後ろで束ね、無駄な装飾はない。
それでも、一歩足を踏み入れただけで、この部屋の主だと分かる。
「お待たせしました。」
「ヴァレンス商会代表、リディア・ヴァレンスです。」
穏やかな笑み。
だが、その瞳は相手を値踏みしていた。
エレノアが姿勢を正す。
「本日はお願いが――」
「お断りします。」
あまりにも早い返答だった。
エレノアの言葉が止まる。
ガイルが眉をひそめた。
「まだ何も話しておらんぞ。」
リディアは微笑みを崩さない。
「領主様が商人を訪ねる理由は、大抵決まっています。」
一本目の指を立てる。
「税の相談。」
二本目。
「資金の相談。」
三本目。
「領地への協力。」
「どれも私に利益はありません。」
言い切った。
先に逃げ道を塞ぐ。
交渉としては見事だった。
桐生は思わず口元を緩める。
「何か、おかしいですか?」
「いえ。」
「安心しました。」
「安心?」
「優秀な商人で。」
リディアの眉がわずかに動く。
「あなたは?」
「桐生誠。」
「領主様の補佐役です。」
「お願いではありません。」
一拍置く。
「儲け話を持ってきました。」
部屋の空気が変わる。
リディアは桐生をじっと見つめた。
「その言葉を信じて商売を始め、失敗した人を何人も見てきました。」
「でしょうね。」
桐生はあっさり頷く。
「だから今日は信じてもらおうとは思っていません。」
「ほう?」
「まずは、質問に答えてください。」
桐生は窓の外の港を指さした。
「この港で、一番無駄にしているものは何だと思いますか?」
リディアは少し考えた。
「倉庫です。」
桐生は首を振る。
「船。」
「違います。」
「人手不足。」
「違います。」
三度目。
リディアは腕を組んだ。
「では、答えは?」
桐生は窓の外を見たまま答えた。
「時間です。」
その一言で、部屋が静まり返る。
ガイルが眉をひそめる。
「時間?」
エレノアも首を傾げた。
リディアだけが黙って桐生を見つめている。
やがて、小さく笑った。
「面白い答えですね。」
「ですが、私には意味が分かりません。」
桐生は頷いた。
「当然です。」
「今日は、その話をしに来たわけではありませんから。」
「……では、何をしに?」
「次に会う約束を取り付けに来ました。」
リディアは目を細めた。
「続きがある、と?」
「あります。」
「あなたなら、きっと興味を持つ。」
数秒の沈黙。
やがてリディアは立ち上がった。
「分かりました。」
「三日後。」
「もう一度いらしてください。」
「その時までに――」
彼女はまっすぐ桐生を見る。
「時間がお金になる理由を、私にも分かるように説明してください。」
桐生は静かに笑った。
「承知しました。」
商会を出ると、エレノアがすぐに口を開いた。
「桐生さん。」
「結局、時間って何なんですか?」
桐生は港へ目を向ける。
忙しそうに働く人々。
止まったままの荷馬車。
出港を待つ船。
「それは――」
少しだけ笑う。
「三日後にしましょう。」
エレノアは頬を膨らませた。
「私まで焦らさないでください。」
潮風が港を吹き抜ける。
三日後。
その交渉が、この領地の未来を左右することを、まだ誰も知らなかった。




