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第三話 商人は善意では動かない

 港町アストラは、朝から活気に満ちていた。


 石畳を荷馬車が行き交い、船員たちの怒声が飛び交う。


 潮風に混じって、魚を焼く匂いが鼻をくすぐった。


「賑やかですね。」


 エレノアは港を見渡し、小さく笑った。


 領地で最も人が集まる場所。


 それが、この港だった。


「ええ。」


 桐生はゆっくりと辺りを見回す。


 船。


 倉庫。


 市場。


 荷車。


 そして、人の流れ。


 しばらく黙って眺めたあと、小さく呟いた。


「……もったいない。」


「え?」


「この港です。」


 エレノアは首を傾げる。


「何がですか?」


 桐生は笑うだけだった。


「あとで分かります。」


 ガイルは肩をすくめる。


「相変わらず回りくどい男だ。」


 三人は港で一番大きな建物へ向かった。


 黄金の帆を描いた紋章。


 ヴァレンス商会。


 領内最大の商会だった。



 応接室へ通されると、一人の女性が姿を現した。


 黒髪を後ろで束ね、無駄な装飾はない。


 それでも、一歩足を踏み入れただけで、この部屋の主だと分かる。


「お待たせしました。」


「ヴァレンス商会代表、リディア・ヴァレンスです。」


 穏やかな笑み。


 だが、その瞳は相手を値踏みしていた。


 エレノアが姿勢を正す。


「本日はお願いが――」


「お断りします。」


 あまりにも早い返答だった。


 エレノアの言葉が止まる。


 ガイルが眉をひそめた。


「まだ何も話しておらんぞ。」


 リディアは微笑みを崩さない。


「領主様が商人を訪ねる理由は、大抵決まっています。」


 一本目の指を立てる。


「税の相談。」


 二本目。


「資金の相談。」


 三本目。


「領地への協力。」


「どれも私に利益はありません。」


 言い切った。


 先に逃げ道を塞ぐ。


 交渉としては見事だった。


 桐生は思わず口元を緩める。


「何か、おかしいですか?」


「いえ。」


「安心しました。」


「安心?」


「優秀な商人で。」


 リディアの眉がわずかに動く。


「あなたは?」


「桐生誠。」


「領主様の補佐役です。」


「お願いではありません。」


 一拍置く。


「儲け話を持ってきました。」


 部屋の空気が変わる。


 リディアは桐生をじっと見つめた。


「その言葉を信じて商売を始め、失敗した人を何人も見てきました。」


「でしょうね。」


 桐生はあっさり頷く。


「だから今日は信じてもらおうとは思っていません。」


「ほう?」


「まずは、質問に答えてください。」


 桐生は窓の外の港を指さした。


「この港で、一番無駄にしているものは何だと思いますか?」


 リディアは少し考えた。


「倉庫です。」


 桐生は首を振る。


「船。」


「違います。」


「人手不足。」


「違います。」


 三度目。


 リディアは腕を組んだ。


「では、答えは?」


 桐生は窓の外を見たまま答えた。


「時間です。」


 その一言で、部屋が静まり返る。


 ガイルが眉をひそめる。


「時間?」


 エレノアも首を傾げた。


 リディアだけが黙って桐生を見つめている。


 やがて、小さく笑った。


「面白い答えですね。」


「ですが、私には意味が分かりません。」


 桐生は頷いた。


「当然です。」


「今日は、その話をしに来たわけではありませんから。」


「……では、何をしに?」


「次に会う約束を取り付けに来ました。」


 リディアは目を細めた。


「続きがある、と?」


「あります。」


「あなたなら、きっと興味を持つ。」


 数秒の沈黙。


 やがてリディアは立ち上がった。


「分かりました。」


「三日後。」


「もう一度いらしてください。」


「その時までに――」


 彼女はまっすぐ桐生を見る。


「時間がお金になる理由を、私にも分かるように説明してください。」


 桐生は静かに笑った。


「承知しました。」


 商会を出ると、エレノアがすぐに口を開いた。


「桐生さん。」


「結局、時間って何なんですか?」


 桐生は港へ目を向ける。


 忙しそうに働く人々。


 止まったままの荷馬車。


 出港を待つ船。


「それは――」


 少しだけ笑う。


「三日後にしましょう。」


 エレノアは頬を膨らませた。


「私まで焦らさないでください。」


 潮風が港を吹き抜ける。


 三日後。


 その交渉が、この領地の未来を左右することを、まだ誰も知らなかった。

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