第二話 三十日で、時間を買う
夜明け前。
領主館の執務室には、紙をめくる音だけが響いていた。
桐生誠は、机に積まれた最後の帳簿を閉じた。
目の奥が痛い。
一晩中、数字を追い続けていたせいだ。
「終わったのか」
壁際で腕を組んでいたガイルが尋ねた。
「ひとまずは」
桐生は新しい羊皮紙を机の中央に置いた。
エレノアが身を乗り出す。
そこには、今後三十日間に入ってくる金と、出ていく金が並んでいた。
「収入が金貨二百八十枚」
桐生は一番上の数字を指差した。
「支出は、金貨四百十二枚です」
部屋の空気が重くなる。
エレノアが小さく息を呑んだ。
「百三十二枚も足りない……」
「はい」
「それは、どれほど深刻なのですか」
桐生は彼女を見た。
「三十日後」
一度、言葉を切る。
「この領地は破綻します」
エレノアの顔から血の気が引いた。
ガイルが机に両手をつく。
「何か間違っているのではないか。税収が入るはずだ」
「税収が入るのは二か月後です」
「港の使用料は」
「先月の入港船は三隻。収入は金貨九枚です」
「倉庫の賃料はどうした」
「半分が空いています。残りも三か月分が未払いです」
ガイルは黙り込んだ。
帳簿に書かれた数字は、楽観を許してくれない。
「ですが」
桐生は別の羊皮紙を広げた。
「三十日後に破綻することと、今日破綻することは違います」
その紙には、今後予定されている支払いが並んでいた。
兵士の給与。
食料の購入費。
港の警備費。
城壁の修繕費。
新しい役所の建設費。
領主就任の記念祭費。
「すべてを予定どおり払う必要はありません」
桐生は、兵士の給与、食料、港の警備費に丸をつける。
「まず、この三つを守ります」
「城壁の修繕を止めるのか」
ガイルの声が低くなる。
「はい」
「南側の壁は傷んでいる。敵に攻められたらどうする」
「兵士に給与が払えなければ、その前に守る者がいなくなります」
「だが――」
「すべてを守ろうとすれば、すべてを失います」
ガイルの言葉を遮り、桐生は続けた。
「今必要なのは、正しい支出ではありません」
「生き残るための支出です」
沈黙が落ちた。
エレノアが支払いの一覧を見つめる。
「新しい役所の建設は、先代が決めた事業です」
「中止ではありません。延期です」
「記念祭も、領民が楽しみにしています」
「領地が破綻すれば、祭りどころではなくなります」
エレノアは唇を噛んだ。
何かを守るために、何かを諦めなければならない。
領主になったばかりの彼女にとって、初めての決断だった。
「延期すれば、どれほど持ちますか」
「十二日です」
「十二日……」
「さらに、支払い先と交渉します。食料商には支払期限の延長を、兵士には給与の分割払いをお願いします」
ガイルの表情が険しくなる。
「兵士に我慢しろと言うのか」
「違います」
桐生は即座に否定した。
「隠さず、現状を説明します」
「そして、いつ、いくら払うのかを約束する」
「約束だけで納得するものか」
「約束を守ってきた相手なら、待ってもらえることがあります」
銀行員だった頃、鬼塚に言われた言葉を思い出す。
『資金繰りは、金を集める仕事じゃない』
『信用を使って、時間を買う仕事だ』
当時は、理屈として理解していた。
今は違う。
その時間の先に、兵士や商人や領民の生活がある。
「延期と分割払いが成立すれば、さらに十五日」
桐生は新しい数字を書き加えた。
「合わせて、二十七日です」
「足りません」
エレノアが言った。
声は震えていたが、目は逸らしていなかった。
「三十日まで、あと三日足りません」
「いいえ」
桐生は首を振った。
「三十日を生き延びることが目的ではありません」
「立て直すための時間を作ることが目的です」
「では、その間に何をするのですか」
「収入を増やします」
ガイルが鼻で笑った。
「それができていれば、最初から困っていない」
「そのとおりです」
桐生は地図を広げた。
領都の南に港がある。
港の周囲には、商会、倉庫、造船所、市場が集まっていた。
「この領地で最も金を持っているのは、領主ではありません」
桐生は港の一角を指差す。
「商人です」
「商人が、領地のために金を出すと?」
「出しません」
あまりにもあっさりとした答えに、ガイルが眉をひそめた。
「善意では」
桐生は椅子から立ち上がった。
「領地を救ってくださいと頼んでも、断られます」
「ですが、利益が出る話なら聞く」
エレノアが地図を見る。
「利益が出る話が、あるのですか」
「これから作ります」
「今から?」
「商売は、最初から儲かる形で転がっているわけではありません」
「誰かが、儲かる形に組み立てるんです」
桐生は上着を手に取った。
「会いに行きましょう」
「誰にですか」
「港で一番大きな商会を率いる人物です」
桐生は扉へ向かう。
「リディア・ヴァレンス」
「この領地で、時間を売れる唯一の商人です」




