銀行員、異世界の赤字を見抜く
第一話 銀行員、異世界の赤字を見抜く
「桐生。お前、まだその提案書を作っているのか?」
名前を呼ばれ、桐生誠はパソコンの画面から顔を上げた。
時刻は午後九時を回っている。
メガバンク本店の営業本部。広いフロアには、まだ数十人の行員が残っていた。
桐生の机の横に立っていたのは、直属の上司である鬼塚修司次長だった。
五十代半ば。白髪交じりの髪を短く刈り込み、皺の刻まれた顔には、いつも不機嫌そうな表情が浮かんでいる。
「はい。東洋ロジスティクスの件です」
桐生は開いていた資料を示した。
画面に表示されているのは、東洋ロジスティクスが計画している新たな物流拠点だった。
同社は全国に倉庫と輸配送網を持つ、大手物流グループだ。
売上高は三千億円を超える。
しかし、主力である常温倉庫事業は価格競争が激しくなり、利益率も少しずつ低下していた。
そこで経営陣が打ち出したのが、冷凍・冷蔵物流への本格参入だった。
市が保有する広大な土地を先に取得し、食品や医薬品を扱う大型物流拠点を建設する。
総事業費は三百億円規模。
複数の銀行による協調融資を前提とした、大型案件だった。
顧客候補はいる。
市場も伸びている。
ただし、すべての契約が決まっているわけではない。
土地の取得を先行させる以上、安全な案件とは言えなかった。
それでも桐生は、この投資には融資する価値があると考えていた。
「来週、社長との面談があります。土地購入の回答期限も迫っています。今日中に市場動向と投資回収計画を整理しておきたいんです」
冷凍食品の需要。
医薬品物流の成長性。
周辺地域の競合施設。
高速道路と港へのアクセス。
既存荷主との関係。
東洋ロジスティクスが長年培ってきた輸配送の品質。
桐生は財務諸表だけで判断していない。
経営企画部や物流部門へのヒアリングも重ねた。
現地にも足を運んだ。
そのうえで、この会社には冷凍物流へ進むだけの基盤があると見ていた。
だが、鬼塚は画面を一瞥しただけだった。
「そんなことより、来週の会食は決めたのか?」
「……会食ですか」
「東洋ロジスティクスの社長と、うちの常務の席だ」
鬼塚は桐生の机に手をついた。
「個室があること。料理を出す間合いがいいこと。先方の事業と無関係な店を適当に選ばないこと。常務が社長の略歴や中期経営計画を頭に入れられるよう、一枚にまとめておけ」
「候補は調べています。ただ、先に融資提案を固めなければ——」
「お前は順番が分かっていない」
鬼塚の声が低くなる。
「常務に恥をかかせるな。先方の社長にも、うちがこの案件を軽く見ていると思わせるな」
「提案内容が正しければ、理解してもらえます」
「正しい提案なら、勝手に上まで通ると思っているのか?」
周囲に残っていた行員たちが、一瞬だけこちらを見る。
だが、すぐに視線をパソコンへ戻した。
鬼塚は構わず続けた。
「常務にあの会社を覚えさせる。社長には、銀行が本気で支援すると思わせる。その席を作るのも、お前の仕事だ」
理屈は分かる。
常務が東洋ロジスティクスの事業を理解し、支援に前向きになれば、融資の社内調整は進めやすくなる。
社長にとっても、メガバンクの常務が直接会う意味は大きい。
だが、桐生には順番が逆に思えた。
まず事業を理解する。
リスクを分析する。
支援する価値があると判断する。
その後で、必要な人物を動かす。
店や席順を整えた結果、融資判断まで変わるのだとしたら、それはおかしい。
「今夜中に候補を三つ出せ」
鬼塚はそう言い残し、自席へ戻っていった。
桐生はしばらく動かなかった。
やがて提案書の画面を最小化し、飲食店の検索画面を開く。
個室。
日本酒。
駅徒歩五分以内。
役員会食。
三十二歳にもなって、自分は何を検索しているのだろう。
そう思ったとき、机の上のスマートフォンが震えた。
表示された名前を見て、桐生はすぐに電話を取った。
東洋ロジスティクスの社長だった。
「お世話になっております。桐生です」
『遅い時間に悪いね』
電話の向こうから、落ち着いた声が聞こえた。
『例の用地なんだけど』
桐生は背筋を伸ばした。
『役員会で、もう一度慎重に考えるべきだという意見が出た』
「理由を伺ってもよろしいですか」
『冷凍物流へ進む方針自体には、反対していない。ただ、荷主との契約が固まりきっていない段階で、土地を先に買う必要があるのかと』
もっともな意見だった。
顧客が決まってから設備投資をする。
その方が安全なのは間違いない。
ただし、その頃まであの土地が残っている保証はなかった。
市が売却を進めている開発用地は、高速道路のインターチェンジに近く、港へのアクセスもよい。
広さも十分にある。
あの条件を満たす土地は、周辺にはほとんど残っていなかった。
「社長。リスクはあります」
桐生は、軽々しく大丈夫だとは言わなかった。
「冷凍倉庫を建てれば、必ず荷主が集まるわけではありません。設備投資額も大きく、電力費や人件費も常温倉庫より重い」
『そうだね』
「ただ、荷主がすべて決まってから土地を探しても、この場所は残っていません」
電話の向こうが静かになる。
桐生は続けた。
「御社の強みは、倉庫を持っていることではありません」
『どういう意味かな』
「全国の荷主との関係と、荷物を止めずに運んできた実績です」
東洋ロジスティクスは、倉庫の床面積だけで成長してきた会社ではない。
納期を守る。
事故が起きれば、すぐに代替輸送を組む。
災害時にも荷主の供給網を止めない。
長年かけて積み上げてきた信用があった。
「冷凍倉庫を建てるから勝てるのではありません」
桐生は言った。
「信用を持っている会社が、競合より先に適地を押さえるから勝てるんです」
『銀行は、本当に支援できるのか』
社長の声には、わずかな迷いがにじんでいた。
当然だ。
土地取得だけでも多額の資金が必要になる。
設備投資まで含めれば、融資額はさらに膨らむ。
銀行内にも慎重な意見は多い。
桐生自身、審査部から何度も否定的な指摘を受けていた。
それでも答えは決まっていた。
「通します」
『桐生さん』
「私が社内を説得します」
根拠のない約束ではない。
市場規模は調べた。
投資後の損益分岐点も計算した。
冷凍物流へ移行する既存荷主の意向も確認している。
稼働率が計画を下回った場合の返済余力も検証した。
最悪の場合には、施設の一部を別用途へ転用する案もある。
危険だから貸さないのではない。
危険を分解し、耐えられる形にする。
それが銀行の仕事だと、桐生は思っていた。
『……分かった』
社長が息を吐く。
『役員会では、もう一度話してみる』
「はい。来週、私からも説明します」
『ありがとう。桐生さんが担当でよかった』
電話が切れた。
桐生はしばらくスマートフォンを見つめていた。
久しぶりに、仕事をした気がした。
「ずいぶん威勢のいいことを言うじゃないか」
背後から声がした。
振り返ると、鬼塚が立っていた。
「通します、か」
「……聞いていたんですか」
「フロアで話していれば聞こえる」
鬼塚は桐生の画面に目をやった。
そこにはまだ、会食候補の検索結果が表示されている。
「荷主との契約は未確定。土地取得が先行。投資額は三百億円。審査部は簡単には認めないぞ」
「分かっています」
「分かっていて、社長に約束したのか」
「約束したからには通します」
鬼塚の目が細くなった。
「お前はいつも、正しい答えを出すのが早すぎる」
桐生は眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「市場は伸びる。会社には強みがある。土地は今しか買えない。だから投資すべきだ」
鬼塚は淡々と言った。
「理屈は正しい」
「では、何が問題なんですか」
「そういうところだ」
鬼塚の声が少しだけ低くなる。
「正しいことを言えば、人が動くと思っている」
桐生は言葉を失った。
鬼塚は続ける。
「社長も、役員も、審査部も、それぞれ失うものがある。社長は会社を背負っている。役員は既存事業を守ってきた。審査部は、失敗した融資の責任を負う」
「だから、何もしないんですか」
「結論を急ぐなと言っている」
鬼塚は桐生を見下ろした。
「相手が何を恐れているのか理解する前に、正論をぶつける。だから、自分では正しいことをしているつもりでも、最後に人がついてこない」
反論したかった。
案件の中身より、常務の機嫌を優先する人間に言われたくなかった。
だが、鬼塚の言葉には、わずかに心当たりがあった。
それを認めるのが悔しくて、桐生は別の言葉を返した。
「今、話すべきなのは提案書のことではありませんか」
「違う」
鬼塚は即答した。
「今のお前がやるべきことは、会食を成功させることだ」
「店を決めれば、融資が通るんですか」
「店を決めるだけなら、誰にでもできる」
鬼塚は言った。
「社長が何を語り、常務に何を持ち帰らせるか。そこまで設計しろ」
その瞬間、桐生の胸の奥にあった何かが、音もなく切れた。
結局、社内政治ではないか。
事業の正しさではなく、誰に何を言わせるか。
誰の顔を立てるか。
誰を味方につけるか。
「……分かりました」
桐生は、それ以上何も言わなかった。
言い返すことにも疲れていた。
午後十一時を過ぎた頃、フロアには桐生しか残っていなかった。
パソコンには二つの資料が開かれている。
一つは、
『冷凍・冷蔵物流拠点新設に関する融資提案書』
もう一つは、
『東洋ロジスティクス社長・当行常務会食進行案』
会食資料には、店までの所要時間、個室の有無、料理の内容、酒の銘柄、座席順、社長の略歴、中期経営計画の要点まで整理されていた。
我ながら、よくできている。
桐生は乾いた笑いを漏らした。
「俺は、何をやってるんだろうな」
融資提案書を開く。
最初のページには、開発予定地を上空から撮影した写真が貼られていた。
港湾道路と高速道路に挟まれた、広大な用地。
写真の隅には、現地視察に訪れた東洋ロジスティクスの社長と役員たちが小さく写っている。
現地で社長は言っていた。
「常温倉庫を増やすだけなら、この土地を買う意味はない」
その視線は、何もない土地のさらに先を見ていた。
「これから伸びるのは、温度管理が必要な物流だ。食品だけじゃない。医薬品も、化学品もある。ただ、顧客がすべて決まるのを待っていたら、競合に先を越される」
桐生も同じ考えだった。
土地を買うこと自体が目的ではない。
冷凍・冷蔵物流という新しい事業領域へ進むための、最初の布石なのだ。
提案書を完成させようと、キーボードに指を置く。
しかし、文字がぼやけた。
目の奥が重い。
頭痛がする。
少し休もう。
そう思ったとき、スマートフォンが震えた。
鬼塚からのメッセージだった。
会食資料、朝一で確認する。
提案書はその後だ。
桐生は画面を伏せた。
もういい。
そう思った。
案件のことも。
銀行のことも。
出世のことも。
全部、どうでもよくなった。
机に肘をつき、額を押さえる。
自分は何のために、この仕事を選んだのだろう。
誰かの挑戦を支えたかった。
数字を使って、会社の未来をつくりたかった。
社内を説得し、案件を通し、何年か後に感謝される。
それだけでよかったはずなのに。
いつから、誰がどこに座り、どの酒を飲むかまで考えることが、自分の仕事になったのだろう。
「次があるなら」
誰もいないフロアで、桐生は呟いた。
「自分が正しいと思う仕事をしたいな」
目を閉じた。
机に伏せる。
そのまま、意識が遠のいていった。
◇
冷たい。
最初に感じたのは、頬に当たる冷たさだった。
次に、雨音が聞こえた。
桐生はゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに、灰色の空が広がっていた。
雨粒が顔に落ちてくる。
身体の下には、濡れた土と石。
「……は?」
起き上がろうとすると、全身に鈍い痛みが走った。
スーツは泥だらけになっている。
革靴にも水が入り、最悪の履き心地だった。
周囲を見回す。
舗装されていない街道。
見たことのない木々。
電柱も、ガードレールも、建物もない。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面はついた。
圏外だった。
時刻表示も止まっている。
「どこだ、ここ」
事故に遭った記憶はない。
そもそも、自分はオフィスにいたはずだ。
机に伏せ、そのまま眠った。
そこまでは覚えている。
夢か。
そう思い、頬をつねる。
普通に痛かった。
異世界転生という言葉は知っていた。
学生時代、漫画や小説も多少は読んだ。
だが、まさか自分がスーツ姿で体験するとは思わなかった。
せめて革靴ではなく、歩きやすい靴にしてほしかった。
遠くから、音が聞こえた。
馬の蹄。
やがて街道の向こうから、一台の馬車が現れた。
馬車の周囲を、剣を帯びた男たちが護衛している。
撮影か何かだろうか。
そんな淡い期待は、先頭の男が剣を抜いた瞬間に消えた。
「止まれ!」
低い声が響く。
馬車が止まり、護衛の男が桐生へ近づいてくる。
年齢は四十歳前後。
大柄で、顔には古い傷が走っている。
「何者だ」
日本語だった。
いや、正確には日本語ではないのかもしれない。
聞いたことのない音なのに、なぜか意味が分かる。
「桐生誠です」
「所属は」
所属。
銀行名を言っても通じないだろう。
少し迷い、桐生は答えた。
「銀行員です」
「ギンコウイン?」
当然、通じなかった。
男は剣を構えたまま、桐生を睨む。
「怪しい者ではありません」
「怪しい者は皆そう言う」
もっともだった。
どう説明すればいいのか分からない。
そのとき、馬車の扉が開いた。
「ガイル」
若い女性の声がした。
馬車から一人の少女が降りてくる。
淡い銀色の髪。
青い瞳。
年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろう。
上質な外套を身につけているが、その顔には疲労が色濃く浮かんでいた。
姿勢は真っすぐだった。
だが、気丈に振る舞っていることは、見れば分かった。
「お下がりなさい」
「エレノア様。正体不明の男です」
「見れば分かります」
少女は桐生を見る。
その視線には警戒があった。
同時に、自分が正しいと思うことを曲げない、危ういほどの強さも見えた。
「怪我はありますか」
「いえ。たぶん」
「どこから来たのです」
桐生は振り返った。
何もない街道が続いている。
「それが、分かりません」
少女は困ったように眉を寄せた。
ガイルと呼ばれた男が言う。
「やはり怪しい。ここに置いていきましょう」
「それはできません」
少女は即座に答えた。
「正体が分からないからといって、雨の中に捨てていい理由にはなりません」
「しかし、領内の食料にも余裕はありません」
「一人分の食事を惜しんで、人を見殺しにする領地を守る意味があるのですか」
ガイルは明らかに納得していなかった。
だが、反論はしなかった。
少女は改めて桐生を見る。
「私はエレノア・フォン・アルディス。この先の領地を治めています」
領地。
治めている。
聞き慣れない言葉ではない。
だが、現代日本で使う言葉でもなかった。
桐生は、自分の置かれている状況を少しずつ理解し始めた。
どうやら、本当に戻れない場所へ来たらしい。
◇
馬車の窓から見えたアルディスの町は、港町だった。
潮の匂いがする。
遠くには海が広がり、大小いくつもの船着き場が見えた。
本来なら、多くの商船や荷車で賑わっているはずだ。
だが、港には船がほとんどなかった。
倉庫の扉は閉ざされている。
荷揚げ用らしい木製の設備は、一部が壊れたまま放置されていた。
市場に並ぶ商品も少ない。
道を歩く人々の服は古く、痩せた者も多かった。
港町なのに、荷が動いていない。
桐生は無意識に、町の状態を分析していた。
「船が少ないですね」
向かいに座るエレノアが、わずかに表情を曇らせた。
「海賊が出るようになりました」
「海賊?」
「商船が襲われ、アルディスへ来る船が減っています」
それだけではないらしい。
前年には飢饉があった。
その前には先代領主が亡くなった。
先代を支えていた財務官も、ほどなく病死した。
エレノアは若くして領地を継いだものの、統治の経験がほとんどなかった。
話を聞く限り、問題は一つではない。
商流の停滞。
食料不足。
統治者の交代。
管理人材の喪失。
おそらく財政も悪い。
会社なら、かなり危険な状態だ。
領主館で食事と着替えを与えられたあと、エレノアは言った。
「今夜はここに泊まってください。明日になれば、多少の旅費も用意します」
「ありがとうございます」
「その後は、どちらへ?」
答えられなかった。
行く場所などない。
知り合いもいない。
金もない。
そもそも、この世界の貨幣すら分からない。
桐生は少し考えたあと、尋ねた。
「何か、仕事はありませんか」
エレノアが目を瞬いた。
「仕事、ですか」
「助けてもらったままでは申し訳ありません。それに、旅費をいただいても、行く当てがありません」
ガイルが壁際で腕を組んでいる。
まだ桐生を信用していないらしい。
「あなたは、何ができるのですか」
エレノアに問われ、桐生は言葉に詰まった。
銀行員。
法人営業。
融資。
財務分析。
そのまま説明しても通じないだろう。
「人や組織に、金を貸す仕事をしていました」
「金貸しですか」
ガイルの目つきがさらに険しくなる。
「少し違います」
桐生は苦笑した。
「帳簿を見て、その事業が続けられるかを判断する。将来性があると考えれば、必要な金を用意する。そのために、自分の組織を説得する仕事です」
エレノアは、興味を持ったようだった。
「帳簿が読めるのですか」
「はい」
彼女はしばらく考えたあと、侍女に何かを命じた。
やがて、分厚い帳簿が数冊運ばれてくる。
古びた革の表紙。
紙は黄ばみ、ページの端は擦り切れている。
「先代の財務官が亡くなってから、帳簿を正確に読める者がいません」
エレノアは一冊を桐生の前へ置いた。
「あなたが本当に読めるというなら、何か分かることはありますか」
試されている。
当然だろう。
道端で拾った正体不明の男に、いきなり領地の仕事を任せるはずがない。
桐生は帳簿を開いた。
文字は読めた。
理由は分からない。
だが、数字も項目も理解できる。
税収。
港湾使用料。
穀物売却収入。
借入。
飢饉対策費。
港湾修繕費。
海賊討伐費。
形式は粗い。
収入と支出が同じ帳面に並び、資産の記録も不十分だ。
それでも、数ページ読めば違和感は見えた。
桐生は別の帳簿を開く。
さらにもう一冊。
「これは、何年分の記録ですか」
「三年分です」
「三年間で、これだけの税収があった」
桐生は数字を指で追う。
「ですが、残っている金は?」
エレノアが家臣を見る。
年老いた家臣が答えた。
「城の金庫にある銀貨が、すべてです」
金額を聞き、桐生は眉を寄せた。
少なすぎる。
帳簿上の収入と、現在の保有資金がまるで合わない。
単純な赤字では説明できなかった。
「港の修繕費として、二年前に大きな借入をしていますね」
「はい。嵐で設備が壊れましたので」
桐生は、馬車から見えた港を思い出す。
「ですが、設備は壊れたままでした」
部屋の空気が変わった。
エレノアが僅かに身を乗り出す。
「どういうことですか」
「借金は残っている。しかし、借金で造ったはずのものがない」
桐生は別のページを開いた。
「穀物購入費も多い。それなのに、町の備蓄はどれくらいありますか」
家臣が答える。
「冬を越すには、到底足りません」
帳簿上は、十分な穀物を購入している。
だが、現物がない。
金もない。
施設もない。
借金だけが残っている。
現代の銀行なら、最も警戒する状態だった。
資金が何に使われたのか分からない。
長期の借入金が、建物や設備として残っていない。
どこかに消えている。
桐生は次々と質問した。
「次の税収が入るのはいつですか」
「三か月後です」
「借入金の返済日は?」
「来月の末です」
「冬に備えた穀物の支払いは?」
「同じく、来月中です」
「兵士への給与は」
「月末に」
桐生は目を閉じ、頭の中で数字を並べた。
現金残高。
今後の支払い。
税収が入る時期。
足りない。
どう計算しても足りない。
エレノアが不安そうに尋ねる。
「何が分かったのですか」
桐生は帳簿を閉じた。
現代では、誰も聞こうとしなかった。
顧客の未来より、会食を優先しろと言われた。
だが今、目の前には、本当に数字を必要としている人がいる。
疲れ切った顔で、それでも領民を守ろうとしている若い領主。
理想だけでは救えない。
だが、数字だけでも救えない。
桐生はエレノアを見た。
「確認します」
「はい」
「次のまとまった収入は、三か月後」
エレノアが頷く。
「しかし、借金の返済、穀物代、兵士への給与は、一か月以内に支払わなければならない」
「そうです」
彼女はまだ、その意味を完全には理解していなかった。
桐生は静かに言った。
「この領地は、赤字なのではありません」
エレノアの青い瞳が揺れる。
「あと三十日で、支払う金がなくなります」
部屋が静まり返った。
異世界に来て最初に見つけたのは、仕事ではない。
破綻寸前の顧客だった。




