第二十八話 負けたふり
アストラへ戻ったのは、翌朝だった。
港へ降りた桐生たちを、ガイルが待ち構えていた。
「遅ぇ!」
「船なので」
「そんなことは分かってる!」
ガイルはエレノアの無事を確認すると、声を落とした。
「アルベルトが動いた」
「何を?」
「北側の土地だ。明日の正午、差し押さえを執行する」
桐生は足を止めた。
「三日じゃなかったんですか?」
「財務院の権限で前倒しだとよ」
「そんな勝手な……!」
エレノアが怒りを露わにする。
残された時間は、一日。
だが。
桐生は鉄箱を見た。
「ちょうどいい」
「何がだ?」
「焦ってるってことです」
ガイルが眉をひそめる。
「証拠は?」
「ありました」
「なら今すぐ叩きつけるぞ!」
「それは駄目です」
「なんでだ!」
桐生は歩き出した。
「相手が欲しいのは、土地じゃないかもしれないと言いましたよね」
「ああ」
「アルベルトは北側の地下に帳簿が残っていたことを知っている可能性が高い」
放火。
突然の監査。
担保権の行使。
あまりにも動きが集中している。
「証拠を出せば、クロイツ商会の過去は追及できます」
「それで十分だろ」
「アルベルト本人まで繋がらない」
ガイルが黙った。
「だったら?」
「本人に動いてもらいます」
◇
その日の午後。
アルベルトは城の応接室へ呼ばれた。
「お呼びだとか」
相変わらず余裕のある表情。
桐生は机の向こうに座っていた。
エレノアはいない。
ガイルもいない。
二人だけだった。
「北側の土地についてです」
「お支払いの準備が?」
「できませんでした」
アルベルトの眉がわずかに上がる。
「……そうですか」
「明日の差し押さえを受け入れます」
今度こそ。
アルベルトの動きが止まった。
「随分あっさりですね」
「金がありませんから」
桐生は肩をすくめた。
「塩田を立て直して、港も動かして、海賊まで使ってみた」
「でも結局、時間が足りなかった」
アルベルトは桐生をじっと見る。
「地下の帳簿は?」
「調べました」
「何か?」
「何も」
桐生は破られた帳簿を机へ置いた。
「肝心なところが抜かれてました」
アルベルトは帳簿へ目を落とす。
「残念でしたね」
「ええ」
「正直、悔しいですよ」
桐生は椅子にもたれた。
「数字が正しければ勝てると思ってました」
以前、アルベルトに言われた言葉。
アルベルトの口元が上がる。
「勉強になったでしょう」
「高い授業料でした」
「若いうちは、それも財産です」
勝った。
そう思った人間の顔だった。
桐生は目を伏せる。
「一つお願いがあります」
「何でしょう」
「倉庫の資材だけは運び出させてください」
「構いませんよ」
「地下も?」
ほんの一瞬。
アルベルトの目が止まった。
「地下?」
「例の古い金庫です」
「帳簿くらいしかありませんけど」
「……ええ」
「差し押さえまでは、まだアストラ領の土地ですから」
「ありがとうございます」
桐生は立ち上がる。
アルベルトも立った。
扉へ向かい――
「桐生殿」
振り返る。
「何でしょう」
「一つだけ」
アルベルトは微笑んだ。
「あなたは、この領地には勿体ない」
「王都へ来る気はありませんか?」
予想外だった。
「私の下なら、もっと大きな仕事ができますよ」
桐生は少し考える。
「給料は?」
アルベルトが吹き出した。
「そこですか」
「大事でしょう」
「今の十倍は出しましょう」
「魅力的ですね」
「でしょう?」
「でも」
桐生は笑った。
「今の仕事、途中なんで」
アルベルトの笑みが消えた。
「そうですか」
それだけ言って、部屋を出ていった。
◇
扉が閉まる。
十秒。
二十秒。
桐生は動かない。
やがて窓から馬車が城門を出ていくのを確認した。
「……行きましたよ」
隣の部屋からガイルが飛び出してきた。
「疲れる作戦だな!」
「声大きいですよ」
「で、本当に動くのか?」
「分かりません」
「お前なぁ!」
「でも、動くなら今夜です」
明日の正午には土地が手に入る。
普通なら待てばいい。
それでも今夜動くなら。
「土地そのものより、先に確保したい何かがある」
エレノアも隣室から現れる。
「帳簿ですね」
「おそらく」
「でも帳簿は、ここにあるんですよね?」
「はい」
「では地下には何もない」
「だから置きました」
「何を?」
桐生は笑った。
「新しい帳簿を」
◇
深夜。
北側の土地は静まり返っていた。
月明かりだけが荒れ地を照らしている。
その中を三つの影が進んでいた。
「本当に来たぞ」
草むらに伏せたガイルが囁く。
桐生。
ガイル。
カイル。
少し離れた場所には騎士たちも潜んでいる。
「誰だ?」
カイルが目を細める。
「まだ分かりません」
三人の男が地下への入口を開ける。
そして消えた。
「行くぞ」
「待ってください」
桐生が止める。
「まだです」
「何を待つ」
「持ち出すところまで」
数分後。
男たちが地下から出てきた。
一人の腕には帳簿。
桐生が置いた偽物だ。
「今だ!」
ガイルの号令。
周囲から騎士が飛び出した。
「動くな!」
三人の男が固まる。
一人が剣へ手を伸ばす。
カイルがその腕を蹴り上げた。
「やめとけ」
「夜は俺たちの方が慣れてる」
あっという間だった。
三人は地面へ押さえつけられた。
ガイルが一人の顔を確認する。
「知らねぇ奴だな」
桐生が近づく。
「誰に頼まれました?」
「……」
「言わないでしょうね」
桐生は奪い返した帳簿を開く。
当然、中身は適当に作った数字だ。
だが。
「よし」
「何がよしなんだ?」
「これで、地下の帳簿を誰かが欲しがっていることは分かった」
「でもアルベルトが命令した証拠にはならねぇぞ」
「そうですね」
桐生は男たちを見る。
「だから帰ってもらいます」
「は?」
ガイルとカイルの声が重なった。
「こいつらを!?」
「一人だけです」
桐生は三人の中で一番若い男を見る。
「あなた」
「……何だ」
「逃げていいですよ」
男が警戒する。
「何を企んでる」
「何も」
「仲間二人は預かります」
「あなたは逃げたことにしてください」
男の顔が強張った。
「ただし」
桐生は偽物の帳簿を差し出した。
「これも持っていってください」
「桐生」
ガイルがようやく気付く。
「まさか……」
「はい」
桐生は男を見る。
「ちゃんと届けてくださいね」
「あなたにこれを盗めと命じた人へ」
◇
男が暗闇へ消えていく。
その後ろを、さらに二つの影が追っていた。
黒鴎団の船乗りたちだ。
桐生たちは追わない。
顔を知られている。
「どこまで行くと思う?」
カイルが聞く。
「分かりません」
「アルベルトのところなら?」
「一歩前進です」
「違ったら?」
「それも一歩前進です」
カイルが笑った。
「お前、本当に面倒くせぇ戦い方するな」
「正面から斬り合えないので」
「俺はそっちの方が楽だ」
ガイルも頷く。
「珍しく海賊に同意する」
三人が笑う。
その時だった。
草むらから、一人の黒鴎団員が走ってきた。
「頭!」
「どうした?」
「奴が向かった先が分かった!」
「早ぇな」
「どこだ?」
男は息を整える。
「港です」
「王都の船へ乗りました」
桐生の目が細くなる。
「アルベルトの船か?」
「違います」
「じゃあ誰のだ」
黒鴎団員は一瞬ためらった。
「レオンです」
空気が止まった。
ガイルの顔から表情が消える。
「……何?」
「間違いありません」
「男は、レオンの船に乗りました」
桐生は何も言えなかった。
レオン。
最初から自分たちに情報を与えていた男。
王都の動きを教え。
内通者の存在まで匂わせた。
敵なのか。
味方なのか。
それとも――
最初から全部。
桐生たちは、あの男の掌の上で動いていたのか。
三十日の期限まで。
残り十六日。




