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第二十七話 父の名前

 誰も口を開かなかった。


 炭で浮かび上がった文字。


 クロイツ商会 王都第七倉庫


 その横に残された、もう一つの名前。


 エレノアが震える指で紙に触れた。


「……父です」


 先代アストラ領主。


 エドワード・アストラ。


「どうして……」


 エレノアの声が掠れる。


 ガイルが紙を奪うように覗き込んだ。


「何かの間違いだ」


「団長」


「先代が飢饉で食料を買い占めるような真似をするはずがない!」


 カイルの顔が険しくなる。


「だが名前はある」


「てめぇ――」


「ガイルさん」


 桐生が二人の間に入った。


「まだ何も分かってません」


「でも!」


「名前があるだけです」


 買い占めに加担したのか。


 取引相手だったのか。


 止めようとしたのか。


 この一行だけでは判断できない。


「決めつけるのは後です」


 桐生はエレノアを見る。


「調べましょう」


 エレノアは俯いていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……はい」



 問題は時間だった。


 北側の土地を守るまで、あと三日。


「二十年前の王都の倉庫なんて残ってるのか?」


 ガイルが聞く。


「残っていても、今から王都へ行って帰れば間に合いません」


 リディアが答える。


「だったらどうする」


 桐生は机に残された帳簿を見渡した。


 必要なのは証拠。


 クロイツ商会と先代領主が何をしていたのか。


 その記録が必要だ。


「……カイルさん」


「何だ」


「白鴎号はどうなりました?」


「二十年前に沈んだ」


「どこで?」


 カイルが眉を寄せる。


「アストラ沖だ」


「王都から戻る途中、財務院の船に追われてな」


 桐生の目が止まる。


「積み荷は?」


「小麦は村に降ろした後だった」


「他には?」


「知らねぇよ。俺はガキだったんだぞ」


「誰か生き残った人は?」


 カイルは黙り込む。


 そして。


「……一人いる」


「どこに?」


「近くの島だ」


「行きましょう」


「今から!?」


「三日しかないんですよね?」


 カイルが一瞬呆れた顔をして、それから笑った。


「分かったよ」


「船を出す」



 昼過ぎ。


 黒鴎団の船が港を離れた。


 桐生。


 カイル。


 そしてエレノア。


「本当に来るんですか?」


 桐生が尋ねる。


「父のことですから」


 エレノアは海を見つめたまま答えた。


「人から聞くだけにはしたくありません」


 ガイルは領地に残った。


 アルベルトが何か仕掛けた場合に備えるためだ。


「見えてきたぞ!」


 船員が叫ぶ。


 水平線の先。


 小さな島が姿を現した。



 島には十数軒の家しかなかった。


 カイルが一番奥の小屋へ向かう。


「爺さん!」


 返事はない。


「生きてるか!」


「勝手に殺すな!」


 中から怒鳴り声が返ってきた。


 現れたのは、片足の老人だった。


「うるせぇ奴だな……」


 老人はカイルを見る。


「……お前か」


「久しぶりだな、爺さん」


 老人の視線がエレノアへ移る。


 動きが止まった。


「その顔……」


 エレノアが一礼する。


「エレノア・アストラです」


 老人の表情が変わった。


「エドワードの娘か」


「父をご存じなんですか?」


「知ってるとも」


 老人は小屋へ戻る。


「入れ」



 老人の名はダグラス。


 白鴎号の航海士だった。


「父はクロイツ商会と何をしていたんですか?」


 エレノアは単刀直入に尋ねた。


 ダグラスは酒を一口飲む。


「最初は敵だった」


「最初は?」


「飢饉が始まった頃、クロイツは王都の小麦を買い集めた」


 やはり。


「値段が上がるのを待っていたんですか?」


 桐生が聞く。


「そうだ」


「俺たちセイル商会は、それを運ぶ仕事をしていた」


 カイルの顔が強張る。


「親父が?」


「ああ」


 ダグラスは淡々と続ける。


「最初から正義の海賊だったと思うなよ」


「俺たちも商売人だった」


「金になるから運んだ」


 カイルは黙った。


「だが」


 老人の声が変わる。


「村で人が死に始めた」


 金を持つ者だけが食べられる。


 持たない者は死ぬ。


「そこで止めたのがエドワードだ」


 エレノアが顔を上げる。


「父が?」


「領主会議で食料の放出を求めた」


「だが王都は動かなかった」


「クロイツは?」


「笑ってたよ」


 ダグラスの顔に嫌悪が浮かぶ。


「もう少し待てば倍になる、とな」


 桐生は拳を握る。


「それで父は……」


「盗んだ」


「え?」


「クロイツの倉庫から小麦をな」


 エレノアが固まる。


 ダグラスは笑った。


「正確には、俺たちに盗ませた」


 カイルまで目を見開いた。


「親父たちの後ろにいたのは……」


「エドワードだ」


 すべてが繋がった。


 なぜセイル商会が大量の小麦を運んだのか。


 なぜアストラ領主家の名が帳簿に残っていたのか。


 そして。


「だから父は、その後ずっと財政的に苦しかった……?」


 エレノアが呟く。


「違う」


 ダグラスが即座に否定した。


「何?」


「エドワードは小麦の代金を後から払った」


「クロイツに?」


「いや」


 老人は首を振る。


「自分の領民にだ」


 桐生には意味が分からなかった。


「どういうことです?」


「小麦を無料では配らなかった」


 ダグラスは指を一本立てる。


「働ける奴には働かせた」


「道路を直させた」


「港を掘らせた」


「堤防を作らせた」


「その対価として食料を渡した」


 桐生の表情が変わった。


 ただ救済したのではない。


 仕事を作り。


 所得を作り。


 同時に領地の基盤まで作った。


「……すごいな」


 思わず声が漏れた。


 エレノアは何も言わない。


 ただ、少しだけ嬉しそうだった。


「でも」


 桐生は本題へ戻る。


「それを証明するものはありますか?」


 ダグラスの表情が曇る。


「王都の記録は消された」


「セイル商会は海賊にされた」


「エドワードも口を閉ざした」


「なぜ?」


「娘を守るためだ」


 エレノアの顔が強張った。


「私……?」


「クロイツは言った」


 ダグラスはエレノアを見る。


「黙らなければ、次は家族を潰すとな」


 ロイドと同じだ。


 桐生の中で何かが繋がった。


 昔からやり方が変わっていない。


 人の弱いところを掴む。


 そして黙らせる。


「証拠はないんですね」


 桐生が呟く。


「いや」


 ダグラスは立ち上がった。


「一つだけある」


 全員が顔を上げる。


 老人は古い棚の奥から、小さな鉄箱を取り出した。


「白鴎号が沈む前」


「船長から預かった」


 カイルが息を呑む。


「親父から?」


「ああ」


 箱が開く。


 中には、一冊の薄い帳面。


 そして。


 クロイツ商会の印章が押された書類が入っていた。


 桐生が手に取る。


 小麦の保管量。


 仕入価格。


 予定売却価格。


 そして最後に。


 『市場価格上昇まで放出を禁止する』


 クロイツ商会代表の署名。


 桐生の心臓が跳ねた。


「これなら――」


「待て」


 ダグラスが止めた。


「まだある」


 箱の底。


 一通の手紙が残っていた。


 宛名は――


 エレノア。


「私に?」


 震える手で封を開く。


 中には短い文章が書かれていた。


 エレノアは読み進める。


 そして途中で、動きを止めた。


「……お父様」


 涙が一滴、紙へ落ちた。


 桐生は何も言わなかった。


 彼女が読み終えるまで待った。


 やがてエレノアは涙を拭う。


 そして立ち上がった。


「帰りましょう」


 その目にはもう迷いがなかった。


「父が守った領地です」


「今度は私が守ります」


 カイルが笑った。


「そうこなくちゃな」


 桐生も立ち上がる。


 証拠は手に入った。


 残り二日。


 あとはアルベルトへ突きつけるだけ――


 ではない。


 桐生はクロイツ商会の書類を見つめる。


 これを見せれば、相手は逃げる。


 証拠を隠すかもしれない。


 上にいる者との繋がりも切られる。


 なら。


「エレノアさん」


「はい?」


「この証拠」


 桐生は書類を箱へ戻した。


「まだ見つからなかったことにしましょう」


 エレノアが目を丸くする。


「アルベルトには――」


 桐生は笑った。


「勝ったと思ってもらいます」

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