第二十六話 消された取引
ガイルが地下で見つけた帳簿を机へ叩き置いた。
「全部持ってきたぞ」
十冊以上ある。
二十年前、セイル商会――後の黒鴎団が残した取引記録だ。
桐生はクロイツ商会の契約書を横に置いた。
「探すのは、この名前です」
「クロイツ商会?」
「はい」
全員で帳簿を開く。
小麦。
木材。
鉄。
薬。
飢饉の最中に運ばれた物資が、日付ごとに並んでいる。
「ないですね……」
エレノアがページをめくる。
「こっちもだ」
ガイルも首を振った。
一冊。
二冊。
三冊。
時間だけが過ぎていく。
「本当に関係あるんですか?」
リディアが尋ねる。
「分かりません」
「またそれですか」
「分からないものを、分かったことにはできませんから」
桐生はページをめくる手を止めなかった。
やがて。
「……これ」
エレノアが声を上げた。
一冊だけ、途中の数ページが破り取られている。
「誰かが持っていった?」
ガイルが覗き込む。
桐生は前後のページを確認した。
日付が飛んでいる。
飢饉が最も酷かった時期だ。
「都合が良すぎますね」
その時。
リディアが別の帳簿を持ち上げた。
「桐生さん」
「こっちにも同じ期間があります」
それは船の運航記録だった。
取引帳簿から消された期間にも、船は動いている。
「船名は?」
「白鴎号」
「積み荷は?」
「記載なし。ただ――」
リディアの指が止まる。
「出航地が王都です」
桐生たちは顔を見合わせた。
◇
「白鴎号?」
呼び出されたカイルは、しばらく天井を見つめた。
「知ってますか」
「親父の船だ」
桐生の手が止まる。
「二十年前、最後まで残ったセイル商会の船だ」
「何を運んでいたんです?」
カイルの顔から笑みが消えた。
「……小麦だ」
「やっぱり」
「でも普通の小麦じゃねぇ」
カイルは椅子へ深く座った。
「あの頃、王都じゃ食料が足りないって言われてた」
「だから値段が上がった」
「違うんですか?」
「少なくとも親父は、そう思わなかった」
カイルは古い帳簿を指差す。
「王都の倉庫には小麦があった」
「大量にな」
エレノアが息を呑む。
「では、なぜ……」
「売らなかったんだよ」
カイルの声が低くなる。
「値段がもっと上がるのを待ってた」
部屋が静まり返る。
「親父たちは倉庫から小麦を運び出した」
「それが海賊行為とされた」
「その倉庫は誰のものだったんです?」
桐生が尋ねる。
カイルは首を振った。
「知らねぇ」
「親父も名前を言わなかった」
「ただ一度だけ聞いたことがある」
「何を?」
カイルは記憶を探るように目を閉じる。
「『王都の連中は、人の腹まで金に換える』」
「それから――」
目を開いた。
「『あの鳥だけは信用するな』」
「鳥?」
桐生の視線が机へ落ちた。
クロイツ商会の古い契約書。
その下部。
貸主の印章が押されている。
翼を広げた一羽の鳥。
「……これですか」
カイルの表情が固まった。
「それだ」
◇
翌朝。
監査が始まった。
アルベルトは三人の財務官を連れ、執務室へ入ってきた。
「では、帳簿を拝見しましょう」
昨日と変わらない穏やかな笑顔。
桐生たちは求められた資料を次々と渡した。
港湾収入。
税収。
塩田。
借入。
アルベルトは驚くほど丁寧に確認していく。
「随分整理されましたね」
「以前とは別の領地のようだ」
エレノアが答える。
「皆が頑張ってくれていますから」
「素晴らしい」
ページをめくる。
「ですが、努力と財務は別です」
アルベルトの指が止まった。
「見つけました」
机へ一枚の契約書が置かれる。
クロイツ商会からの借入。
担保は北部港湾用地。
「この債権は現在、財務院の管理下にあります」
ガイルが睨む。
「借金は返してある」
「元本は」
アルベルトは微笑んだ。
「しかし契約上、遅延損害金が残っています」
別の書類が置かれる。
数字を見たエレノアが青ざめた。
「こんな金額……」
「長い年月が経っていますので」
「払えなければ?」
桐生が聞く。
「担保を処分します」
「つまり北側の土地を取る」
「契約ですから」
アルベルトは桐生を見る。
「数字は嘘をつきません」
その言葉に。
桐生は少し笑った。
「そうですね」
アルベルトの眉がわずかに動く。
「俺も、そう思います」
桐生は一冊の帳簿を取り出した。
古びた表紙。
セイル商会の運航記録だ。
アルベルトの目が、一瞬だけそこへ動いた。
ほんの一瞬。
だが桐生は見ていた。
「二十年前の帳簿です」
「……それが?」
「面白いんですよ」
桐生はページを開く。
「王都では大飢饉だった」
「食料が足りないと言われ、多くの人が死んだ」
「なのに同じ時期、王都から大量の小麦を積んだ船が何度も出ている」
アルベルトの笑みは崩れない。
「昔の話ですね」
「ええ」
「では監査とは関係ありません」
「そうでしょうか」
桐生はクロイツ商会の契約書を横へ置いた。
「この印章」
翼を広げた鳥。
「当時、小麦を保管していた倉庫にも同じ印があったそうです」
初めて。
アルベルトの指が止まった。
「誰から聞きました?」
桐生は答えなかった。
代わりに、もう一枚の紙を置く。
「それより教えてください」
「なぜ二十年間放置していた担保を、今になって回収するんです?」
「財務上の判断です」
「俺たちが北側の土地を使おうとした直後に?」
「偶然でしょう」
「倉庫を調べた直後に放火されても?」
アルベルトの目が冷たくなる。
ガイルがゆっくり立ち上がった。
エレノアも、もう俯いてはいない。
桐生は最後に、破られた取引帳簿を机へ置いた。
「そして」
「クロイツ商会が関わっていたはずの期間だけ、取引記録が抜かれている」
アルベルトはしばらく帳簿を見つめた。
やがて。
「なるほど」
小さく笑った。
「だから何だというのです?」
桐生の表情が止まった。
「証拠は?」
アルベルトは椅子にもたれる。
「古い船乗りの記憶」
「破れた帳簿」
「印章が似ている」
「それだけです」
反論できない。
疑わしい。
だが、証明できない。
「あなたは面白い方だ」
アルベルトが立ち上がった。
「しかし惜しい」
「物語としては非常に面白い」
そしてクロイツ商会の契約書を指で叩く。
「こちらには契約書がある」
「あなたには想像しかない」
アルベルトはエレノアへ向き直った。
「三日以内に遅延損害金をお支払いください」
「できなければ、北部港湾用地を差し押さえます」
「三日!?」
ガイルが叫ぶ。
「税の期限とは別の契約ですので」
アルベルトは一礼する。
「それでは」
扉へ向かう。
その背中を見ながら、桐生は何も言えなかった。
正しいことを言うだけでは勝てない。
疑うだけでも勝てない。
必要なのは。
相手が否定できない、事実だ。
扉が閉まる。
「桐生さん……」
エレノアが不安そうに呼ぶ。
だが桐生は、破られた帳簿を見つめていた。
ページそのものはない。
なら、そこから何が消されたのかは分からない。
――本当に?
桐生の目が止まる。
「リディアさん」
「はい?」
「紙を一枚ください」
「紙?」
「それと炭を」
ガイルが怪訝そうに見る。
「何をするんだ?」
「消されたなら」
桐生は破られたページの直前を開いた。
「残っているものを探します」
薄い紙を重ね。
炭を横に寝かせて、ゆっくり擦る。
黒く染まる紙の中から。
少しずつ。
文字の跡が浮かび上がった。
エレノアが息を呑む。
「これは……」
前のページを書いた時。
筆圧が、その下の紙に残っていた。
すべては読めない。
だが一行だけ。
はっきりと浮かび上がっている。
クロイツ商会 王都第七倉庫
そして、その横。
もう一つの名前があった。
桐生の表情が変わる。
「……嘘だろ」
ガイルが覗き込む。
「誰だ?」
桐生は答えなかった。
そこに記されていたのは。
クロイツ家ではない。
アストラ領主家の名だった。




