第十五話 金が足りない
塩田から戻った翌朝。
城の執務室には、久しぶりに明るい空気が流れていた。
「塩の出荷量は以前の一・六倍。バルド殿との取引価格も市場価格まで戻りました。ヴァレンス商会からは、来月以降も買い付けを増やしたいと連絡が来ています」
エレノアが報告書を読み上げる声には、わずかに弾みがある。
ガイルも上機嫌だった。
「上出来じゃないか。港も動いた。塩も売れた。あとは稼いだ金で税を払えば――」
「足りません」
桐生の言葉に、二人の表情が止まった。
机の上には、昨夜遅くまでかけて集めた領地の帳簿が積まれている。
「塩田の利益が増えても、三十日以内に入ってくる金は限られています。しかも、全部を税に回すわけにはいかない」
「なぜです?」
「職人への給金、港の修繕、次の塩を作る費用。ここで全部吐き出せば、来月また金がなくなります」
エレノアの顔から喜びが消えていく。
「では……間に合わない?」
桐生は答えず、一冊の帳簿を開いた。
収入。
支出。
借入。
倉庫。
土地。
何度見ても数字は変わらない。
三十日の期限まで、残り二十二日。
事業は良くなっている。
だが、金が入ってくるまでには時間がかかる。
桐生は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「惜しいな……」
「何がだ?」
ガイルが尋ねる。
「この領地、潰れかけてるのに、悪くないんです」
「何を言っている?」
「港がある。塩がある。商人も戻り始めた。これから利益が増える可能性もある。それなのに――」
桐生は帳簿を閉じた。
「今、金がないというだけで死のうとしている」
エレノアが戸惑った顔をする。
「それは……同じことでは?」
「全然違います」
桐生は思わず身を乗り出した。
「稼げない領地なら、俺にもどうしようもない。でも、ここは稼げる。時間さえあれば立ち直れるんです」
その声には、不安よりも興奮が混じっていた。
ガイルがそれに気づき、呆れたように笑う。
「お前、楽しそうだな」
「……そう見えます?」
「見える」
桐生は少し考えてから笑った。
「こういうの、嫌いじゃないんです」
崩れかけている。
だが、価値は残っている。
足りないものを繋げれば、まだ伸びる。
その可能性を見つける瞬間が、桐生は好きだった。
問題は一つ。
どうやって時間を買うか。
◇
午後。
桐生はリディアとバルドを城へ呼んだ。
「金を貸してほしい?」
バルドが露骨に嫌そうな顔をした。
「断る。昨日会ったばかりの男に金を貸すほど、私は人が良くない」
「私も同じです」
リディアまであっさり続ける。
エレノアの肩が落ちた。
だが桐生は平然としていた。
「まだ条件も言ってませんよ」
「聞いても同じだ」
バルドは椅子にもたれた。
「商売と金貸しは違う。塩なら商品がある。金を貸したところで、お前たちが返せなくなれば何も残らん」
「その通りです」
「だったら――」
「だから、領地には貸さなくていい」
バルドの言葉が止まった。
リディアも桐生を見る。
「どういうことです?」
桐生は机の上へ一枚の紙を置いた。
「バルドさん。あなたは今後も、この領地から塩を買うつもりですよね」
「ああ」
「リディアさんは、それを港から運ぶ」
「ええ」
「そしてヨハンさんたちは、塩を作る」
二人は黙っている。
桐生は紙の上に三人の名前を書いた。
「なら、これから生まれる商売そのものに金を出してください」
「……商売に?」
「領地が返すんじゃない。塩が返すんです」
バルドの目つきが変わった。
先ほどまでの拒絶とは違う。
商人の顔だった。
「続けろ」
「今後三か月、バルドさんが買う塩の代金。その一部を先に払ってもらう」
エレノアが息を呑んだ。
「先に……?」
「前払いです」
桐生は続ける。
「代わりに一定量の塩を優先的に確保する。バルドさんは仕入れを押さえられる。こちらは今、必要な金を手にできる」
リディアが紙を引き寄せた。
「ですが、もし塩が作れなければ?」
「だから全部は前払いにしません。無理のない量だけ契約する。さらに輸送はヴァレンス商会が管理する」
「私まで巻き込むんですか」
「儲かるでしょう?」
リディアは一瞬黙り、それから笑った。
「……そういう頼み方をするんですね」
バルドは笑わなかった。
紙を睨んだまま、指で机を叩いている。
「一つ問題がある」
「何でしょう」
「私は塩が欲しい。だから前払いする理屈は分かる」
指が止まった。
「だが、お前はその金を税に使うつもりだ」
「はい」
「それでは塩田に金が残らない。また同じことになるぞ」
桐生の表情が変わった。
痛いところだった。
バルドはそれを見逃さない。
「信用だの未来だのと言っていた男が、未来の売上を食いつぶすのか?」
部屋が静まり返る。
エレノアもリディアも、桐生を見ている。
正論だった。
前払いで税は払える。
だがそれは、未来の金を今使うだけだ。
領地は救えても、事業が痩せる。
桐生は紙を見つめた。
――違う。
これでは足りない。
税を払い、なおかつ事業へ金を残す。
そんな都合のいい方法があるのか。
その瞬間。
桐生の視線が、机の端に積まれた帳簿で止まった。
先代領主の資産台帳。
土地。
倉庫。
港。
そして、その中に一つ。
妙な記載があった。
「エレノアさん」
「はい?」
「この土地……誰のものですか」
桐生が指差したのは、港の北側。
長年使われていない広大な土地だった。
エレノアは台帳を覗き込み、首を傾げる。
「領地のものです。でも、そこは何もない荒れ地ですよ」
桐生はしばらく地図を見つめた。
港のすぐ隣。
街道にも近い。
船が増えれば、荷物も増える。
荷物が増えれば――。
「……何もない?」
桐生の口元がゆっくり上がった。
「最高じゃないですか」
バルドとリディアが同時に地図を覗き込む。
「何を考えている?」
桐生は地図の一点を指で叩いた。
「未来の売上を使う必要はありません」
「未来そのものに、金を出してもらいましょう」




