第十話 動かない理由
翌朝。
桐生はまだ日が昇り切る前に塩田へ来ていた。
「桐生さん?」
眠そうなエレノアが馬を降りる。
「こんな時間に何を……。」
「待っていました。」
桐生は塩田ではなく、一本の街道を見つめていた。
やがて、遠くから荷馬車が現れる。
一台。
二台。
三台。
しかし塩田へ着くと、どの荷馬車も荷物を降ろさず止まってしまった。
御者たちは文句を言いながら順番を待つ。
「……始まりました。」
桐生が小さく呟く。
エレノアは目を凝らした。
「まだ仕事も始まっていないのに。」
「もう渋滞しています。」
「ええ。」
桐生は頷いた。
「問題は塩じゃありません。」
「仕事の始め方です。」
◇
しばらくするとヨハンが姿を現した。
「朝っぱらから何を見とる。」
「一日です。」
「え?」
「一日が始まる瞬間を見たかったんです。」
ヨハンは鼻で笑った。
「変わった若造だ。」
桐生は荷馬車を指差す。
「毎朝、あの順番なんですか。」
「ああ。」
「先に来た順だ。」
「昔からな。」
「誰が決めたんです?」
ヨハンは考え込む。
「……誰だ。」
「親方の親方の、そのまた親方だったか。」
「もう覚えとらん。」
桐生は思わず笑った。
「それです。」
「何がだ。」
「誰も理由を知らないのに、全員が守っている。」
ヨハンは黙った。
◇
「ちょっと試してもいいですか。」
桐生は一人の御者へ歩み寄る。
「この荷馬車、先に降ろしてください。」
御者は困った顔をした。
「でも順番が……。」
「私が責任を持ちます。」
その瞬間だった。
「ふざけるな!」
後ろから怒鳴り声が飛ぶ。
「俺たちは一時間も待ってるんだ!」
「割り込みか!」
あっという間に人だかりができる。
ガイルが前へ出ようとするが、桐生は首を横に振った。
「大丈夫です。」
桐生は怒鳴った男へ歩み寄る。
「あなたに一つだけ聞かせてください。」
「何だ。」
「あなたは順番を守りたいんですか。」
「当たり前だ!」
「それとも、早く荷物を降ろしたいんですか。」
男は言葉に詰まった。
「……そりゃ早く降ろしたい。」
「なら。」
桐生は横転した荷馬車を指差した。
「昨日、事故がありました。」
「今日も同じ順番で始めますか。」
周囲が静まり返る。
「皆さんは順番を守っています。」
「でも。」
「その順番は、皆さんを守ってくれましたか。」
誰も答えない。
ヨハンだけが腕を組み、黙って桐生を見ていた。
◇
その時だった。
「面白い。」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、リディアが立っていた。
「商人は利益のためなら動きます。」
「ですが。」
「慣習を変えるのは利益だけでは足りません。」
桐生は笑う。
「だから皆さんに聞きました。」
「順番を守りたいのか。」
「早く帰りたいのか。」
リディアも微笑む。
「答えは決まっていますね。」
桐生は御者たちへ向き直る。
「一時間だけください。」
「今日だけです。」
「もし荷下ろしが遅くなったら、元のやり方に戻しましょう。」
「ですが。」
「早く終わったら。」
「明日から、このやり方に変えませんか。」
御者たちは顔を見合わせる。
やがて一人が口を開いた。
「……今日だけだぞ。」
その一言をきっかけに、周囲からも小さく頷く者が現れ始めた。
ヨハンは帽子を深くかぶり直し、小さく笑う。
「若造。」
「ようやく仕事らしくなってきたな。」
桐生は荷車の列を見つめた。
変えるのは、仕組みだけではない。
人の「当たり前」を変えること。
それこそが、一番難しい仕事なのだった。




