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第十話 動かない理由

 翌朝。


 桐生はまだ日が昇り切る前に塩田へ来ていた。


「桐生さん?」


 眠そうなエレノアが馬を降りる。


「こんな時間に何を……。」


「待っていました。」


 桐生は塩田ではなく、一本の街道を見つめていた。


 やがて、遠くから荷馬車が現れる。


 一台。


 二台。


 三台。


 しかし塩田へ着くと、どの荷馬車も荷物を降ろさず止まってしまった。


 御者たちは文句を言いながら順番を待つ。


「……始まりました。」


 桐生が小さく呟く。


 エレノアは目を凝らした。


「まだ仕事も始まっていないのに。」


「もう渋滞しています。」


「ええ。」


 桐生は頷いた。


「問題は塩じゃありません。」


「仕事の始め方です。」



 しばらくするとヨハンが姿を現した。


「朝っぱらから何を見とる。」


「一日です。」


「え?」


「一日が始まる瞬間を見たかったんです。」


 ヨハンは鼻で笑った。


「変わった若造だ。」


 桐生は荷馬車を指差す。


「毎朝、あの順番なんですか。」


「ああ。」


「先に来た順だ。」


「昔からな。」


「誰が決めたんです?」


 ヨハンは考え込む。


「……誰だ。」


「親方の親方の、そのまた親方だったか。」


「もう覚えとらん。」


 桐生は思わず笑った。


「それです。」


「何がだ。」


「誰も理由を知らないのに、全員が守っている。」


 ヨハンは黙った。



「ちょっと試してもいいですか。」


 桐生は一人の御者へ歩み寄る。


「この荷馬車、先に降ろしてください。」


 御者は困った顔をした。


「でも順番が……。」


「私が責任を持ちます。」


 その瞬間だった。


「ふざけるな!」


 後ろから怒鳴り声が飛ぶ。


「俺たちは一時間も待ってるんだ!」


「割り込みか!」


 あっという間に人だかりができる。


 ガイルが前へ出ようとするが、桐生は首を横に振った。


「大丈夫です。」


 桐生は怒鳴った男へ歩み寄る。


「あなたに一つだけ聞かせてください。」


「何だ。」


「あなたは順番を守りたいんですか。」


「当たり前だ!」


「それとも、早く荷物を降ろしたいんですか。」


 男は言葉に詰まった。


「……そりゃ早く降ろしたい。」


「なら。」


 桐生は横転した荷馬車を指差した。


「昨日、事故がありました。」


「今日も同じ順番で始めますか。」


 周囲が静まり返る。


「皆さんは順番を守っています。」


「でも。」


「その順番は、皆さんを守ってくれましたか。」


 誰も答えない。


 ヨハンだけが腕を組み、黙って桐生を見ていた。



 その時だった。


「面白い。」


 聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、リディアが立っていた。


「商人は利益のためなら動きます。」


「ですが。」


「慣習を変えるのは利益だけでは足りません。」


 桐生は笑う。


「だから皆さんに聞きました。」


「順番を守りたいのか。」


「早く帰りたいのか。」


 リディアも微笑む。


「答えは決まっていますね。」


 桐生は御者たちへ向き直る。


「一時間だけください。」


「今日だけです。」


「もし荷下ろしが遅くなったら、元のやり方に戻しましょう。」


「ですが。」


「早く終わったら。」


「明日から、このやり方に変えませんか。」


 御者たちは顔を見合わせる。


 やがて一人が口を開いた。


「……今日だけだぞ。」


 その一言をきっかけに、周囲からも小さく頷く者が現れ始めた。


 ヨハンは帽子を深くかぶり直し、小さく笑う。


「若造。」


「ようやく仕事らしくなってきたな。」


 桐生は荷車の列を見つめた。


 変えるのは、仕組みだけではない。


 人の「当たり前」を変えること。


 それこそが、一番難しい仕事なのだった。

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