## 第五章「光を放つ石の下で」
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ドルフが立ち上がった。
日誌を読み終えてから、しばらく動かなかった。それから無言で立ち上がり、廃墟の暗がりの中へ歩いていった。壁を殴る音が聞こえた。一度。二度。三度。それから間が空いて、もう一度。音が止んだ。
戻ってきたドルフは、焚き火の前に座った。右手の拳の皮が剥けて、血が滲んでいた。手当てはしなかった。
誰も口を開かなかった。
ドルフが装備の確認を始めた。戦斧の刃を指で確かめ、ハンマーの柄を握り直し、水筒と松明の残りを数えた。一つずつ、丁寧に。これから何をしに行くのかが、はっきりしたからだ。
確認が終わってから「行くか」と言った。声が平たかった。さっきまでの声とも違う。感情が外に出ないようにしている声だ。出したら、制御できなくなると分かっている声だ。
フィーアがいつもより静かだった。アレクの肩の上に座っているが、いつもなら何か言う場面で黙っている。日誌の内容を——精霊に幻聴を起こさせた、という部分を——まだ消化できていないのかもしれない。声を奪われるということが、妖精にとってどれほどの恐怖なのか。アレクは聞かなかった。
リーンが弓の弦を確かめた。手は正確だった。弦を張り直し、矢の本数を数え、短剣を腰に収めた。目がさっきと違っていた——覚悟が入った目だ。
七人で居住区の広場に出た。大空洞は広く、奥が暗い。この先に何があるのか——坑道の全容は誰にも分からない。アレクの目には、空洞の奥から見えない光の靄が流れてきているのが見えた。居住区でも濃かったが、奥はさらに濃い。
ガルドが荷物をまとめていた。財宝を詰め込んだ袋を背に重そうに担ぎ直している。重い。明らかに重い。しかし降ろそうとしない。
エリスが目を細めた。「精霊の気配が近づいてきています」
アレクも感じていた。さっきからずっと感じていた——精霊が坑道の中を動いている。出口が塞がれた坑道の中を、数百年間さまよっている。そして今、こちらに向かっている。
「来ます」とエリスが言った。
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大空洞の奥が、揺れた。
地面の振動が足の裏から伝わってきた。低い、重い音が空洞の奥から来る。それから壁の石が鳴り始めた——ざらざらと、細かい粒子が崩れ落ちる音だ。居住区の建物の石壁が振動で軋んだ。
フィーアがアレクの肩から飛び立ち、空中に静止した。
それが見えた。
大空洞の暗がりの中から、動いてくる。
大きかった。竜の上半身が岩盤の床を揺らしながら進む。全身が岩石の鎧に覆われており、鎧の継ぎ目から赤と白の炎が漏れ出ている。呼吸のように揺れる炎だ。下半身は蠍の構造で、石の大きな鋏と湾曲した尾を持つ。動くたびに石の床に亀裂が走る。
しかし——アレクはその動き方を見た。
巨大だが、動き方が滑らかではない。岩の体が揺れるたびに、どこかぎこちなさがある。上半身と下半身が、ちぐはぐだ。竜の上半身は前に進もうとし、蠍の下半身は別の方向に引っ張られている。それを無理やり一つとして動かしている——そういうぎこちなさだ。
胸の中心部に、黒い石があった。
岩の鎧の中に——宝石のように嵌め込まれているのではなく、体の一部のように、岩と一体化している。アレクは見た瞬間に分かった。制御石だ。日誌に書かれていたものだ。
精霊の目——目と呼べるものがある——が、こちらを向いていた。
向こうから来た。こちらに向かって、まっすぐに。
全員が戦闘か退避の態勢を取った。
ガルドだけが逆方向に動いた。
精霊から離れて、居住区の奥——採掘区の方向へ。財宝を詰めた袋を担いだまま、走っていた。
「ガルド!」
アレクが叫んだ。振り返らなかった。
精霊の尾が動いた。
薙ぎ払いだった。広範囲の攻撃だ。蠍の巨大な尾が空洞の空気を裂いて横に振れた。全員が伏せるか跳ぶかした。ドルフが盾を構えて身を低くした。リーンが柱の陰に跳んだ。プラムが床に転がった。アレクはフィーアを抱えて横に飛んだ。
ガルドだけが背を向けて走っていた。
尾が当たった。
重い音がした。石の尾が、走っている背中に直撃した。ガルドの体が宙に浮いた——飛ばされた、というより弾かれた。石の壁に叩きつけられて、床に落ちた。
財宝が散らばった。
金の食器、銀の杯、宝石の装身具——ガルドが詰め込んでいたものが、袋から飛び出して床に散った。金属が石の床に当たる音がした。ガルドの体のそばに、金貨が転がっていた。
アレクが駆け寄ったときには、もう動いていなかった。
背骨が折れていた。石の尾の一撃で。ドワーフの頑丈な体でも——走りながら背中に受ければ、耐えられない。ガルドの目が開いていた。何も映していなかった。口が半開きで、最後に何を言おうとしたのかは分からない。
財宝が、ガルドの周りに散らばっていた。
童話の教訓が目の前で起きた。誰も口にしなかった。
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精霊が止まらなかった。
「退けますか」とアレクはドルフに聞いた。声が硬かった。
「後ろに道は一本しかない」とリーンが答えた。「後退すれば通路に押し込まれる」
プラムが投石器を構えた。エリスが短杖を取った。リーンが弓を引いた。
アレクが精霊魔法を使った。まず試したのは声だ。精霊語で、精霊に届けようとした——話が通じれば、戦わなくて済む。
届かなかった。
精霊は反応しない。こちらの声が存在しないかのように、そのまま進んできた。幻聴の中にいる。外の音が届かない。何も聞こえていない。数百年間、ずっとそうだったのだ。
「フィーア」とアレクは呼んだ。
「やってみる」
フィーアが精霊に向き直り、妖精語で呼びかけた。精霊にも届くはずの方法で。
止まらなかった。
「ダメ」とフィーアが言った。「制御石が全部弾いてる。声が中まで届かない」
フィーアが少し間を置いてから言った。目が険しかった。
「でも——精霊の方は叫んでる。ずっと叫んでる。外には聞こえてないだけで、中では——」
フィーアの声が途切れた。何を聞いているのか、その表情で分かった。恨みだ。ドワーフとエルフへの、数百年分の恨み。フィーアにはそれが聞こえている。ミュエルもリーンの肩の上で光を強めていた——二体の妖精が同じものを感知している。
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ドルフが動いた。
正面から。まっすぐに。精霊の視界の真ん中に踏み込んだ。精霊の目がドルフを向いた——ドワーフの血筋の匂いを嗅いでいるような、怒りのある視線だ。
「こっちだ」
ドルフが戦斧を引き抜いた。壊すためのハンマーではなく、戦うための斧だ。精霊の鋏が振れた——ドルフが跳んで避けた。尾が来た——体を捻って躱した。重い体で信じられない速さで動いた。
その間に、アレクは走った。
精霊の横側に回り込んだ。精霊の注意はドルフに向いている。制御石が見えた——胸の中心、黒い石。アレクは精霊魔法を制御石に向けて絞り込んだ。術で物を砕く——岩を割るように、その石を割る。
力を流し込んだ。
制御石の表面に、罅が入った。
しかし砕けない。硬い。数百年かけて岩と一体化した石は、ひと押しでは砕けない。もう一度。精霊魔法を制御石の罅に差し込む——楔を打つように。罅が広がった。あと少しだ。
「アレク!」
リーンの声だった。
精霊が向きを変えていた。ドルフへの注意が半分、アレクへの注意が半分。鋏がアレクを向いた。来る——跳んだ。鋏が着地地点の岩を砕いた。直撃なら体ごと砕かれていた。受け身を取りながら転がり、立ち上がった。制御石から意識が切れた。罅は入ったが、砕けていない。
エリスが精霊魔法で水の壁をアレクの前に展開した。精霊の追撃が水壁に当たり、蒸気が上がった。蒸気の中でエリスがアレクの腕に手を触れた——回復魔法だ。打撲と擦り傷が温かくなって消えた。
プラムが精霊の足元に走り込んでいた。投石を蠍の脚の関節に叩き込んだ。精霊の動きが一瞬だけ乱れた。プラムがその隙に転がって離脱した。
「もう一度行きます」とアレクはドルフに言った。
「待て」
ドルフの声が変わっていた。
ドルフはもう精霊の正面に立っていた。斧をしまっていた。代わりにハンマーを両手で持っている。打つための道具だ。
「退いてろ」
ドルフが精霊の正面に歩いていった。止まらない足取りだった。全員が見ていた。
「ドルフ」とアレクは言った。「鋏が——」
「分かってる」
分かっていて、歩いていた。
精霊の鋏が開いた。巨大な石の鋏が、ドルフを両側から挟もうとしている。ミュエルが光を強め、リーンの矢に風を纏わせた。リーンが放った——矢が鋏の継ぎ目に吸い込まれるように当たった。ミュエルの風で軌道が補正された一矢だ。動きが一瞬乱れた。
その一瞬で、ドルフが精霊の胸に取りついた。
熱い。継ぎ目から漏れる炎が革の装備を焦がした。ドルフは構わなかった。胸の中心に黒い石がある。罅が入っている。あと一撃で砕ける。
ハンマーを引いた。
鋏が戻ってきた。
ドルフは見えていた。見えていて、ハンマーを振り下ろした。体重ごと——ドワーフの体重ごと——罅に叩き込んだ。声にならない声が出た。叫びでもなく、気合いでもなく——怒りだ。先祖が埋め込んだ石を、先祖が壊さなかった石を、今ここで壊す。その怒りだ。
鋏が閉じた。
制御石が砕けた。
二つが、同時だった。
黒い破片が飛散した。ドルフが鋏に挟まれたまま、精霊の胸から離れた。重い音がした。岩盤の床に落ちた音だ。
「ドルフ!」
アレクが走った。ドルフが床に倒れていた。鋏に挟まれた胴の革鎧が砕けている。ドワーフの体は頑丈だ。人間なら即死の一撃だ。しかしドワーフでも——
エリスが駆け寄って回復魔法を試みた。手を当てた。光が入らない。届かない。砕けた鎧の奥の傷が——深すぎた。
「……終わったか」
ドルフが口を開いた。声が小さかった。
「制御石は砕けました」とアレクは言った。
「あとはお前たちでやれ」
ドルフが目を閉じた。
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精霊が動いていた。
制御石が砕けたのに、止まっていない。幻聴が切れたはずなのに——動きが乱れてはいる。しかし収まっていない。鎧の継ぎ目から漏れる炎が、さっきより激しく揺れていた。暴れている。制御が外れた分だけ、暴れている。
「届いていません」とエリスが言った。声が細かった。「制御石を壊しても——外の声が届かない。数百年間、ひとりで幻聴の中にいた。もう本当に——」
「違う」
フィーアが言った。
戦闘中ずっと聞いていた——精霊が発している声を。一つの叫び声として聞こえていたものが、制御石が砕けた瞬間に変わった。
「声がふたつになった」
全員がフィーアを見た。
ミュエルがリーンの肩の上で光っていた。小さく、しかし確かに——フィーアに向かって頷いていた。二体の妖精が、同じものを感知している。
アレクが状況を整理した。動きがちぐはぐだった理由。上半身と下半身が別々の方向に引っ張られていた理由。制御石が砕けても止まらない理由。
「これは一体の精霊じゃない」とアレクは言った。「火の精霊と、土の精霊。二つを一つに縛りつけた——それがこの姿です」
「鎧に見えていたのは——拘束具です」
竜の上半身が火の精霊。蠍の下半身が土の精霊。継ぎ目から炎が漏れていたのは——二つが分かれようとしていた圧力だ。何百年も、ずっと。
「上と下の境目に要があります。そこを壊せば分かれる」
リーンが矢筒を確かめた。矢が一本だけ残っていた。
「どこ」
「上半身と下半身の境目です。腰の継ぎ目——一番大きな継ぎ目です」
リーンが弓を引いた。精霊が動いている。揺れている。狙いが定まらない。
フィーアが精霊の頭の周囲を飛び始めた。注意を引く動きだ。精霊がフィーアを追って首を振る。体が一瞬、安定した。
リーンが放った。
ミュエルの風がもう一度、矢に寄り添った。矢が上下の境目に吸い込まれるように刺さった。炎が大きく膨らんだ——継ぎ目が、そこだけ開いた。
「今です」
アレクは精霊魔法を境目に向けて絞り込んだ。楔を打つように。石と石の隙間に力を差し込む。こじ開ける。継ぎ目が軋む音がした。精霊の体が、震えた。
上半身と下半身が、引き裂かれるように、分かれた。
轟音があった。
空洞の空気が大きく揺れた。分かれた二つが——上半身と下半身が——それぞれ別々に床に降りた。もう一体の生き物ではない。二つの別々の気配だ。
炎が、静かになった。
赤と白の炎が、橙色になった。さらに薄くなった。二つの気配が、空洞の中に漂っている。暴れていない。ただ、漂っている。
アレクは床に膝をついた。
ドルフが倒れたままの床が、見えた。ガルドが倒れていた場所も、見えた。散らばった金貨と銀の杯が、松明の残り火を受けて光っていた。
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(第六章へ続く)




