## 第二章 後編「ヴィラ鉱山」
予約投降の設定に失敗してしまい、序章、第1章なしになってしいました。
失礼いたしました。
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合流点の集積場で、ハルト隊とシルヴィ隊が待っていた。三つの坑道が一つに繋がる広い空間だ。それぞれの隊が上層の怪物を掃討しながらここまで来ていた。ハルト隊の方も何度か遭遇があったらしく、リーンの矢筒が目に見えて減っている。
幸運なことに、オスカー隊は死者も負傷者も居なかったが、ハルト隊とシルヴィ隊はそれぞれ死者と負傷者を出していた。
ヴァルターが状況を確認し、全員で中層へ下りる判断を下した。
前を向いていたから、誰も天井を見ていなかった。
音は——なかった。
気づいたのは、ハルト隊のベックが「あっ」と言ったときだ。声というより息の破裂だった。驚きの声ではない、体に衝撃が来たときに漏れる音だ。
振り返った瞬間、アレクは状況が分かった。
巨大な変異ムカデが、天井から落ちていた。
牛ほどの体長がある。灰色の外骨格が通路の石と見分けがつかない——天井に張りついていたまま誰にも見えなかった。百本を超える脚が天井と壁を同時に掴んで、天井を走るように移動していた。先頭のベックが通り過ぎ、二番目が通り過ぎ、三番目のベックの頭上に来た瞬間に、外れた。
ムカデの胴体の前半部がベックの肩から胸を直撃した。ベックが通路の石床に叩き付けられた。すぐ起き上がれる重さではない——牛ほどの塊が上から来た。起きようとしたが、ムカデがそのまま覆いかぶさった。百本の脚が通路の壁と床を掴み、体で下の人間を押さえつけた。
「どけ——!」
オスカーが叫びながら斧を振った。当たった。外骨格が弾いた。腕がしびれた。ダンゴムシより硬い——石そのものを叩いているようだった。
ドルフが戦斧を逆手に持って走り込んだ。ムカデの横腹の節の間——外骨格が薄くなる接合部に狙いをつけ、刃を叩き込んだ。めり込んだ。ムカデが反応して体を揺らした。脚の先が壁を叩く音が連続した。
しかしベックがもう声を出していないことに、誰かが気づいた。
「ベック!」
ハルトが呼んだ。返事がなかった。ムカデの胴体の下に、ベックの片腕が見えていた。動いていない。
アレクが精霊魔法を使った。風の刃をムカデの目の部分に走らせた。ムカデの頭の複眼が割れ、体が石床を叩いてのたうった。ドルフがさらに節の間を二撃、三撃。後ろのハルト隊からリーンが進み出て、隙間を縫うように矢を節と節の間に連続で射ち込んだ。ムカデの動きが鈍くなり、やがて脚の動きが止まった。
全員でムカデの体を押した。動かない死体は重かった。ドルフとオスカーが体を押して、通路の壁に寄せた。
ベックが出てきた。
ハルトが前に出て、ベックの肩を持って引き起こした。上半身を起こしたところで、ハルトの動きが止まった。
ベックの首に、二本の穿刺孔があった。毒牙だ。ムカデが体を押さえた直後に牙を刺していた——潰したのではなく、仕留めていたのだ。孔の周囲が、すでに黒く腫れ上がっていた。肌の変色が首から肩へと広がっている。速い。毒の回りが速い。
ベックの目が開いていた。しかし焦点が合っていない。息があった——浅い、規則がない息だ。
「ベック。ベック、俺の声が聞こえるか」
ハルトが呼んだ。ベックの唇が動いた。声にならなかった。目が半開きのまま、ゆっくりと、動かなくなった。
誰も言葉が出なかった。
オスカーが斧を収めた。ハルトがしばらくその場にいた。立ったまま、座ったまま、全員が動けなかった。ムカデの死体が通路の横に転がっている。ベックの体が、ハルトの腕に支えられたまま、石床に寄せられた。
ハルトが立ち上がった。何も言わなかった。先を見た。
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誰かが咳をした。
振り返ると、ジャンが口元を押さえていた。「大丈夫ですか」と声をかけると、「ちょっと……空気が重い感じで」と言い、歩きながら首を振った。足は止めなかった。
アレクは靄を見た。ジャンの周囲にも、薄く漂っている。吸っている。ジャンは今、これを吸っている。見えない光を含んだ空気を吸い続けて、体の中に取り込んでいる。
——言うべきか。
アレクの中で、判断が揺れた。鉱員の症状が頭の中にある。「見えない光」の話もある。しかし確証はない。似た症状の病は他にもある。坑道の空気が悪いだけかもしれない。ここで「見えない光の毒だ」と言って、間違っていたら——二十人の作戦が止まる。怪物はまだ坑道にいる。退いた先にクルスの住民がいる。
まだ分からない。確証がなければ言えない。
その判断が正しいのか、ただの臆病なのか、アレク自身にも分からなかった。
ジャンが最初だった。
角を曲がった先で、ジャンが急に壁に手をついた。膝がかくんと折れた。「ちょっと——頭が」と言いかけて、膝から崩れた。壁に背をつけて座り込んだ。顔が白い。額に汗が浮いている。目の焦点が合っていない。
「どうした」とオスカーが戻ってきた。ジャンの顔を覗き込み、肩に手を置いた。
「頭が、割れそうで……吐き気が」
ジャンの言葉が途切れた。口を押さえて、横を向いた。嘔吐した。壁の隅に水っぽい液体が飛んだ。それを見てプラムが顔を背けた。
オスカーがジャンの額に手の甲を当てた。熱はない。熱がないのに、この汗。オスカーの目が変わった。金の匂いを嗅いでいる目ではなくなっていた。
「引き返す」
「まだ中層だぞ」とドルフが言った。
「そうだ、まだ中層だ」とオスカーは言った。声が静かだった。「だから引き返す。これ以上深くなったらこいつは歩けなくなる」
「ここまで来て——」
「ドルフ」とオスカーはドルフの目を見た。「俺は今までいろんな場所で、引き返さなかったやつを何人も見てきた。帰ってこなかった。深さより人間のほうが大事だ。金は次がある」
ドルフは黙った。
ハルト隊でも同じことが起きていた。合流点まで戻ると、若い傭兵が二人、壁にもたれて座り込んでいた。一人は吐いた後で、もう一人は頭を抱えて動かない。ハルトが二人の顔を一人ずつ確認して、「全員上に出る」と言った。迷いがなかった。ハルトは声を荒げなかった。ただ、部下の手を引いて立たせた。
ヴァルターの副官のケルンも、壁に手をついて立っている。顔が青ざめていた。唇の色が薄い。
「ケルン」とヴァルターが声をかけた。命令の声ではなかった。ヴァルターの声が、一瞬だけ崩れた。この青年は副官として信頼している人間だ。その人間の顔が、自分の目の前で青ざめていっている。
「少し……頭が重くて。大丈夫です」とケルンは言った。声がかすれていた。大丈夫ではないことは、全員に分かった。
アレクは周囲を見回した。
倒れているジャン。壁にもたれるケルン。座り込んでいるハルト隊の二人。他にも顔色が悪い者がいる。
症状が出ていないのは——自分、フィーア、ドルフ、リーン、プラム、エリス。それから、ハルト隊にいたもう一人のドワーフ——ガルドも問題なく立っていた。七人だ。
もう先送りにはできなかった。これ以上黙っていれば、ジャンは悪化する。ケルンも悪化する。この場にいる人間全員が、今も浴び続けている。自分は見えている。見えているのに黙っている。それは——
アレクはヴァルターに向き直った。
「たぶん、見えない光の毒です。見えない光には、毒性がある可能性があります」
通路が静かになった。
ジャンが膝をついたまま顔を上げた。「え」と言った。
「見えない光の、毒。見えない光なら聞いたことがあるが。毒とは」とヴァルターが繰り返した。声が硬い。
エリスがアレクの方を向いた。
「ちょっと待って、見えない光は私も見えるけど。毒とは聞いたことがないわよ」
「憶測です。見えない光は亜人や妖精、精霊使いには見えて、人間やゴブリンには見えないそうです。そして、今、発病しているのも、普通の人間です。精霊使いである自分もエリスさんも発症していません。見えない光は見える人と見えない人で効果が違う可能性があります」
「たしかに、そうだけど」
エリスは納得がいかないようだ。
リーンが口を開いた。
「ひょっとしたら死の光か——古き森の記録で見たことがあります。妖精界には死の光があるから人間は長生きできないと」
「そうか、だから気分が良いのか」とミュエルが言った。
エリスが口を開いた。
「それなら私も、エルフから聞いた話があります——妖精界は強い光にあふれていると。妖精にとって強い光は糧だが、精霊の加護がない人間は強すぎて毒だと。だから妖精の多いところは注意しなさいと」
アレクは頷いた。
ヴァルターの目が変わった。
「そんな重要なことが、なぜ今まで判らなかった」
声が低かった。怒りではない——怒りになる前の、もっと冷たいものだった。自分の部下が目の前で倒れている。その原因を知っていた人間たちがいた。
「通常この程度の光では、短期間に人間への影響がないからです。エルフや妖精にとっては光は春の日差しのように心地良い物です。人間にとっても光る温泉は害はなく、むしろ健康に良い物です」とリーンは言った。「坑道での不調となれば、ガスや鉱毒が原因だと考えるのが普通です」
「じゃあ、どうして。こんなことになった」とヴァルター。
リーンは黙っていた。考え込んでいたアレクが口を開いた。
「石だけではありません。石は細かい粒子になり空気に混じります。密閉された空間には長い時間をかけて溜まっていきます。石に触れなくても、ここの空気を吸い続けるだけで体の中に入っていく。そして、内部から体を蝕む」
「確かにそれなら説明がつくかも。しかも、深くなるごとに光の霧が濃くなっている気がする」
エリスは奥を指した。
「だとしたら、大変よ。もっと深い場所から、見えない光を含んだ空気が流れ出して来ていることになる。通路全体に。今もこの瞬間も」
ヴァルターは黙っていた。
長い間があった。
ヴァルターの顔に、様々なものが走った。怒り。理解。恐怖。そして——自分の部下をこの場所に連れてきたのは自分だ、という認識。
ドルフが「この石の密度は異常だ」と低い声で言った。「こんなに出るのはおかしい。何かが、もっと深いところで起きている」
ケルンが「ヴァルター様」と小さな声で言った。腹を押さえていた。もう立っているのが辛いのだ。
ヴァルターはケルンを見た。それから、アレクを見た。
「撤退する」
声が、絞り出すようだった。
「全チーム、上に出ろ」
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上層まで退き、倒れた者を外に出した。
坑口を出た瞬間、光が眩しかった。朝の光だ。入ったときにはまだ低かった陽が、もう高い位置にある。どれだけ中にいたのか——体の感覚が分からなくなっていた。
外の空気を吸わせると、ジャンの顔色が少し戻った。ケルンも、座り込んだまま何度か深く息を吸って、唇に色が戻り始めた。被曝量がまだ少なかったからだろう。外に出さなければどうなっていたか——頭痛。吐き気。その先は。
ジャンが地面に座ったまま、アレクの方を見た。
「アレクさん。あんた、見えるんすよね。見えない光が」
「ええ」
「綺麗なんですか」
「ええ、とても」
「俺、光っている洞窟を見て感動したんすよ。マジで。でも、アレクさんたちにはもっと別の綺麗な世界が見えていたんですね。それにしても綺麗な花には毒がある本当すね」
「そうですね」
「……俺たちがどのくらいヤバいかも分かるんすか」
「それは判りません」
アレクは少し黙ってから「ただ、長くはいませんでした。今、外に出た。それだけで十分違いと思います」と答えた。
ジャンは何か言いかけて、やめた。地面を見た。
ヴァルターが人数を確認した。倒れた者、顔色が悪い者、まだ動ける者。一人ずつ見て回った。その目は、さっき坑道で「なぜ今まで言わなかった」とアレクに言ったときの目とは違っていた。自分の部下を数えている目だった。全員がここにいる。全員が生きている。そのことを確認する目だった。
確認が終わってから、ヴァルターが言った。
「症状が出ていないのは誰だ」
七人だった。
アレク、フィーア、ドルフ、リーン、プラム、エリス、ガルド。理由はそれぞれ違う——妖精界育ちのフィーアには「見えない光」がむしろ力になる。精霊使いのアレクとエリスは体内で変換できる。ドワーフのドルフとガルド、エルフのリーン、ソビットのプラムは亜人の耐性を持つ。人間だけが弱い。人間が特別に弱いのだ。
ヴァルターがその七人を見た。
「七人で、あの先に行けるか」
質問ではなかった。送り出すかどうかを、自分自身に問いかけている声だった。
ドルフが「行ける」と答えた。
リーンが「行ける」と答えた。同時ではなかったが、ほぼ同時だった。言ってから互いを見た。
「……なんでこいつと一緒に行かにゃならん」とドルフが言った。リーンの方を向かずに。
「こっちのセリフよ」とリーンが言った。ドルフの方を向かずに。
どちらも、声の温度は同じだった。面倒くさい、という温度だ。本気で嫌っている声ではない。長い年月の中で積み上がってきた種族間の距離感が、そのまま声になっているだけだ。
「行くのか、行かないのかはっきりしろ」とドルフが言った。
「行くに決まってるでしょう」とリーンが言った。「あなたこそ邪魔しないでよ」
「邪魔などしない」
ガルドが「俺も行くぞ」と声を上げた。前のめりだった。昨夜の酒場で見せた愛想の良い顔のまま、しかし目が少し違っていた。何かに急いている目だった。「ドワーフの耐性があるからな。当然だろ」
ドルフがガルドを横目で見た。何も言わなかった。
プラムが「あたしも行きます」と言った。小さな声だったが、はっきりしていた。
エリスは何も言わなかった。ただ、短杖を握り直した。行く、という意思表示だった。
ヴァルターが七人を見ていた。止めるべきだ、という判断と、止めたらこの先に進める者は誰もいない、という判断が、同時に顔にあった。
「アレク」
ヴァルターがアレクを呼んだ。呼び方が変わっていた。坑道に入る前は「個人参加の冒険者」を呼ぶ声だった。今は違う。
「見えない光の濃度が高くなったら、引き返せ。お前にしか判断できない。その判断を、お前に任せる」
アレクは頷いた。
ヴァルターはもう一度、七人を見てから言った。
「必ず帰って来い」
命令ではなかった。
オスカーが腰の斧を叩きながら「羨ましいな。奥の方が値が張るだろうに」と笑った。しかし声に普段の軽さがなかった。ジャンの嘔吐を見た後の声だった。
七人で坑口に戻った。
坑口の手前で、プラムが立ち止まって振り返った。外の光が、後ろにある。青空が見えた。松の木の緑が見えた。
「上から見ると、ずいぶん普通の山ですね」とプラムは言った。「中を見るまで分からない」
誰も返事をしなかった。プラムは坑口に向き直り、先に入っていった。
フィーアがアレクの肩の上で言った。「やっと少人数になった。大人数はうるさくて嫌い」
「うるさいのはお前だ」
「違うわよ。私はにぎやかなの。全然別でしょ」
坑口の暗さが、待っていた。
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(第三章へ続く)




