## 第二章 前編「ヴィラ鉱山」
予約投降の設定に失敗してしまい、序章、第1章なしになってしいました。
失礼いたしました。
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ヴィラ鉱山の坑口は、朝の光の中でも暗かった。
山腹を削って開けた口が三つ、並んでいる。木組みの支柱が立てられており、かつてはここから荷車が出入りしていた。レールの錆がまだ残っている。入り口の手前に、採掘道具の残骸が散乱していた——逃げる際に捨てていったものだろう。ツルハシ、ランプ、革手袋が、ばらばらに落ちている。誰かの靴が片方だけ、石の上に置かれたままになっていた。
三つの坑口は、どれも同じ顔をしていた。
ただの穴だ。岩に開いた、暗い穴。しかし立ち止まると、その暗さが普通ではないことが分かる。光が入っていかない——正確には、入り口の数歩先から、光が飲み込まれている。外の朝の陽が届かない。松明を向けてもそれ以上は照らせない。何かが、中から吸っているような暗さだ。
自警団が築いた防壁は坑口のすぐ手前にあった。丸太を組み、荷車を横倒しにし、土嚢を積んだもので、二週間の防衛戦の跡がついていた。壁面に爪の跡が幾筋も走り、丸太の一本が半分まで齧られている。何かが内側から体当たりした凹みもあった。
坑口の手前に、見覚えのない女がいた。短杖を腰に差し、三つの坑口のうちの一つをじっと見ている。年はアレクと同じくらいか、少し上か。落ち着いた表情だが、目が細かった。何かを測るような目だった。
女がアレクの方を振り向いた。アレクを——正確には、アレクの周囲の空気を見ていた。
「精霊使いのアレクさんですね。昨日リーンさんにお話を聞きました」と女は言った。「私はエリス。精霊使いです。シルヴィ隊に加わることになりました」
アレクは少し驚いた。精霊使い同士は、互いの気配が分かることがある。この女はそれで気づいたのだ。
「アレクです。オスカー隊に」
「よろしくお願いします」
短い挨拶だった。必要なことだけを言う人間だと、アレクは思った。
ヴァルターが各チームを坑口の前に整列させた。三つの坑口に、三つのチームを割り振った。
「縦穴の巻き上げ機を使えば集合場所の集積所まで、直接行くことが出来る。しかし、本作戦では怪物を掃討し安全に鉱山を再開するために、坑道を探索しながら進む。オスカー隊は右の坑口。ハルト隊は中央。シルヴィ隊は左。上層を掃討しながら進め。集積場で落ち合う」ヴァルターが言った。「合流するまで、他のチームの坑道に入るな」
誰も笑わなかった。
エリスがシルヴィ隊の方へ歩いていった。「では、中で」と短く言い残して。
「行くぞ」とオスカーが大きな声で言い、先頭で右の坑口に踏み込んだ。
アレクは精霊魔法を使った。指先から淡い光の玉が浮かび上がり、肩の高さで漂い始めた。精霊の火だ。松明と違って両手が自由になる。剣も弓も使える。
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坑口をくぐった瞬間、温度が落ちた。
夏に蔵に入ったときのような冷気ではない。もっとじっとりとした冷たさだ。石の冷たさだ。壁が、天井が、足元の床が——全部、石だ。石が四方から迫り、上からのしかかっている。この岩の重さは何万年も前からここにある。そういう種類の感覚だ。
匂いが変わった。外の松の森の空気が、坑口をくぐった瞬間に遮断された。代わりに、湿った岩の匂いと、錆の匂いと、もう一つ——鉄とも硫黄とも違う、言葉にしにくい何かの匂いが混じっている。
アレクは一度立ち止まって鼻を動かした。
「なに」とフィーアが外套の首元から顔を出した。
「匂い」
「……うん。鉱山のにおいでしょ」フィーアが少し考えてから言った。「でも、妖精界の深い場所に似てる。石の奥から来るにおい」
アレクは答えずに歩き始めた。
通路は狭い。人間が掘ったものだ。二人が並んで歩けるが、三人並ぶと肩が壁に当たる。天井は大人が背を伸ばせる程度。木製の支柱が等間隔に立っており、それを松明で照らしながら進む。松明の煙が天井を流れていく。
ドルフが壁を触りながら歩いていた。通路の石の質を確かめる手つきだ。なぜかその手つきだけが、ここでは自然に見えた。
「詰まってきたな」とドルフが独り言のように言った。
「何が」とプラムが聞いた。
「怪物の巣穴のにおいだ。近くに群れがいる」
全員が足を遅くした。
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最初の群れとは、最初の曲がり角で当たった。
足音だけが先に来た。通路の向こう、松明の光が届かない暗がりから、爪が石を引っ掻く音が走ってくる。岩に反響して、四方から来ているように聞こえる。どこからだ——前だ。
「来る」とオスカーが松明を前に突き出した。
変異したダンゴムシが四体、通路の奥から転がるように走ってきた。先頭の個体が松明の光を浴びて姿を見せた瞬間、ジャンが「でかい」と言った。犬ほどの大きさがある。外殻が分厚く石のような光沢を帯びていて、無数の脚が床を掻いている。地下に棲む虫が、見えない光を浴びて巨大化したものだ。
ドルフが前に出た。
狭い通路でも動じない。壁に左肩を当てて体を半身にし、戦斧を縦に構えた。横に振る空間がない。正面から来る相手を、突くか、叩き落とすか——限られた選択だ。
先頭のダンゴムシが丸まった。石の球になって通路を転がってくる。ドルフは半歩退いて斧の腹で受けた。衝撃が両腕に走った。重い。石の塊がそのまま突っ込んでくるのだから当然だ。弾かれたダンゴムシが壁にぶつかって体を開き、脚を広げて起き上がろうとした。ドルフが裏返った腹に斧を叩き込んだ。腹は外殻より柔らかい。体液が飛んだ。ダンゴムシが動かなくなった。
「邪魔だ」
死骸を蹴って脇に寄せた。しかし後ろのダンゴムシが、倒れた仲間の体を踏み越えて来る。二体が同時に丸まった。石の球が二つ、通路を塞ぎながら転がってくる。
アレクが精霊魔法を使った。風の刃を通路に流す——しかし通路が狭い。ドルフの横を通すには、刃を薄く、狭く絞らなければならない。壁に当たれば跳ね返って味方を傷つける。息を止めて、ドルフの右耳の横を通した。ダンゴムシの外殻の継ぎ目に当たった。殻の接合部に罅が入り、転がる軌道がぶれた。壁にぶつかって体を開いた。
「いまだ」とドルフが言った。怒鳴ったのではない。事実を言った。
ルカが詠唱した。短い古語が通路に響き、ドルフの戦斧の刃が淡く光った。武器付呪だ。ドルフが光る斧を裏返ったダンゴムシの腹に振り下ろした。魔力を帯びた刃が外殻ごと両断した。
残りの一体がその隙間を縫って突っ込んできた。プラムが投石を放った。石がダンゴムシの頭部に当たり、一瞬だけ丸まりかけた体が開いた。マルガの矢がその瞬間を逃さなかった。殻の継ぎ目——外殻の薄い一点に吸い込まれるように矢が入り、ダンゴムシが動きを止めた。
マルガの放った矢は一本だった。一体に一本。外さなかった。
「継ぎ目を狙えば通る」マルガが短弓を下ろしながら言った。声に興奮はない。確認しただけだ。
「精霊使いにしちゃ動けるな」とドルフが斧の刃を拭きながら言った。振り返らずに。
「脚は大丈夫ですか」とアレクは言った。さっきダンゴムシの突進を正面から受けた脚だ。
ドルフが足を踏み替えた。「折れちゃいない」
それだけだった。ドルフはそのまま先へ歩き始めた。アレクは自分の腕が僅かに震えているのに気がついた。精霊魔法を狭い場所で絞るのは神経を削る。あと何回やれるか——数えたくなかった。
ジャンが四体のダンゴムシの死骸を見て、何か言いかけた。口が開いたが、言葉が出ないまま閉じた。死骸の向こうに、暗い通路が続いている。
オスカーがジャンの肩を叩いた。「最初はそんなもんだ。次は動けるようになる」
ジャンは頷いたが、顔色が戻っていなかった。
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進むほど、怪物の変異の度合いが増した。
上層の入り口付近で見たものは、外皮が少し硬い程度だった。しかし奥に進むほど、形が崩れていく。
三度目の遭遇で出てきたダンゴムシは、目がほとんど退化していた。外殻に覆われて痕跡だけが残っている。振動だけで動いている。外殻が石板のように分厚く、丸まると本物の石と見分けがつかない。アレクの長剣が刃こぼれした。ドルフの戦斧でも二撃必要だった。ルカが武器付呪でドルフの斧に魔力を乗せ、ようやく殻を砕けた。
五度目の遭遇では、ダンゴムシではないものが混じっていた。巨大な蜘蛛だ。交差点の天井に石質の糸で巣を張っていた。通常の刃では切れない。先頭のマルガが足を取られて転倒しかけた。ルカが魔力矢を放った。古語の詠唱とともに青白い光の矢が指先から飛び、蜘蛛の胴体を貫いた。立ち直ったマルガが短弓を引いて三本使って残りを仕留めた。矢の残数を、マルガが小声で数えた。
一体仕留めるたびに、消耗が重なっていった。ドルフの戦斧の刃が欠けていた。アレクの長剣にも刃こぼれがいくつもあった。プラムの投石の弾が減っていた。
「石、拾っときましょうか」プラムが通路の床を見回した。「使えそうなのがあれば」
「硬い奴を選べ」とマルガが矢筒の残りを確かめながら言った。「柔らかいと当たっても弾かれる」
「分かってます。ソビットは投石のプロですから」プラムが胸を張った。小さな胸だったが、誇りは大きかった。
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中層への降り口を越えた頃から、通路の様子が変わった。
壁の割れ目から、植物が伸びていた。
葉が触手のように細長い。石の面に張りつき、先端が微かに発光している。弱い光だが、暗い通路の中では目を引く。アレクが近づいて観察しようとすると、葉の先端がわずかに動いた——光の方ではなく、アレクの体温の方に向かって。
「触るな」とドルフが先を歩きながら言った。
「見ていただけです」
「見るのもやめとけ。気を取られる」
キノコがあった。傘の広い、青白く光るキノコが、通路の端にまとまって生えている。ルカとアレクが腰をかがめて見ていた。
「このキノコ、二種類ある」とルカは言った。「光り方が違う。青白いのは無害。黄緑みが入ってるのは食べると胃から溶ける」
「なんで知ってるんすか」とジャンが後ろから聞いた。
「古い記録に書いてある。坑道に出ることがあると」ルカが顔を上げて、ジャンを見た。「触らないほうが。両方とも」
「は、はい」
周囲をよく見ると、岩の割れ目から這い出すように茂る、不気味なほど青々とした葉を見つめ、プラムが不思議そうに呟いた。
「日光も届かないこんな深い場所に、なんで植物が育ってるんだ?」
「キノコなどの菌類なら光は不要ですが……。それにしても、ここは生命力が過剰な気がしますね。判りますか、アレクさん」
後衛に立つルカ が、観察者の目で周囲を検分しながらアレクを促した。
「たぶん、あの『見えない光』のせいじゃないかな」
アレクには、石の奥から滲み出す青白い靄が、陽光の代わりに植物たちを浸しているのが見えていた。
「ほう。あの光を糧に成長していると……。実に興味深い」
ルカが理知的に頷く一方で、プラムは「やっぱり!」とどこか得意げに胸を張った。
「ちょっと、二人で勝手に納得しないでよ。その『見えない光』って何なの?」
話についていけないマルガ が、苛立ったように大斧の柄を鳴らした。
「妖精族や精霊使いにしか見えない、特別な波長の光だよ。マルガには見えないのか?」
プラムの解説に、マルガは怪訝そうに鼻を鳴らした。
「そんな幽霊みたいなもんがあるのかね。あたしの目には、ただの湿気た岩肌にしか見えないよ」
しばらく進むと、天井が崩落したのか、不自然に天井が高くなっていた。
プラムが少し後ろを向いて「アレクさん、あれ何なんですか」と上を指差して聞いた。
「あぁ、答えたくないですね」とアレクは言った。
変異した蝙蝠の大群が天井を埋めていた。翼の膜が厚く黒い。体が通常の倍近くある。光の精霊を向けると、一斉に奥へ退いた——退くのが遅かった。反応が鈍い、あるいは光への恐れが薄れてきている。どちらにしろ、悪いことだ。
「あれ、食えそうですね」とジャンが言った。
「食うな」とドルフが言った。
「なんで」
「育った場所が悪い。あれは不味い」
ドルフはそれ以上言わなかった。ジャンは何か聞きかけて、やめた。
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トロールが現れたのは、その先の広い通路だった。
壁が異様だった。石の面が削り取られて、そこだけ生の岩肌が剥き出しになっている。人間が掘ったものではない——穴の内側に歯の跡が残っていた。何かが壁を噛み砕いている。石を食い破った跡だ。
「何だこれは」とオスカーが穴を覗き込んだ。
遠くから、重い足音が聞こえた。石の床が揺れた。
通路の曲がり角の向こうから、それが現れた。
人間の二倍ほどの高さがある。岩のような灰色の肌。分厚い皮膚が石灰化しており、鈍い光沢がある。腕が太く長い。口が大きく、石を噛み砕く臼歯が並んでいた。
トロールだ。
「なんで、鉱山にトロールがいるの!!」とプラムが叫んだ。
「決まってるだろ。どこから来たんだよ」とマルガが言った。
トロールが壁の石を一つ掴み、口に入れた。噛み砕いた。石を食っている。この場所の壁を食料にしている。こちらに気づいたが、すぐに攻撃してこなかった。石を噛みながら、脳の鈍い演算で脅威かどうかを判定している目だった。
「避けて通れますか」とアレクは言った。
「通路が一本しかない」とドルフが答えた。
トロールが判定を終えた。腕を上げた。
全員が散った。
トロールの拳が石床を叩いた。床が割れた。破片が飛んだ。一撃で石畳の一枚が粉砕される腕力だ。
ルカが古語魔法を唱え始めた。魔力付与の魔法だ。ドルフ、オスカーの武器に魔力を付与され輝き始める。
正面からは無理だった。ジャンが槍を突いたが、分厚い皮膚に弾かれ刺さらない。マルガとアレクが同時に矢を放った。マルガの矢がトロールの脇腹に刺さり、アレクの矢はトロールの目を狙うが外れる。
ドルフの戦斧が脇腹の皮膚に食い込んだ——切れた。血が出た。脇の下の皮膚が薄い。トロールがよろめいた。
プラムが背後に回り込んでいた。小柄な体を活かして、トロールの脚の後ろに潜り込んだ。二刀流で膝裏を切りつける。トロールの膝が崩れた。バランスを失ったところに、オスカーが一撃を首に入れた。
トロールが崩れた。
息があった。しばらく床で動いていた。それから、止まった。
「でかかったですね……」プラムが手を振りながら言った。「手応えが石柱みたいでした」
「狙いは良かったが、目は外れたな。脇の下だ」マルガが弓弦を確かめた。「覚えておけ。トロールは脇の下の皮が薄い」
「トロールは岩盤に棲むものです。そして、夜でも地上に出ることは、まずありません」とアレクはトロールの死骸を見ながら言った。「トロールがいるってことは、トロールの住処と鉱山が地下のどこかでつながっていると言うことですね」
ドルフが何か考えていた。しかし言わなかった。
答えはまだ出なかった。
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壁が光り始めたのは、中層の中ほどだった。
最初は小さかった。岩肌が星空のように、青白く光っている。松明の光とは違う色だ。冷たい光だ。暗い通路の中を歩いているはずなのに、まるで星空の中を歩いているようだ。
「光る石か」とドルフが言った。「古のドワーフは光る石を加工して永遠の松明を作ったと言うが。今は遺跡から発掘するくらいだな」
「失われた技術ですか」とルカが言った。
「まあ、そういうことだな」とドルフが言った。
「それにしても、きれいだな」とジャンが言った。「足元まで星空なんて、まるで自分が鳥になったみたいだ」
「鳥になっても、足元に星空は見えないぞ」とオスカー。
「例えですよ。例え。俺はロマンチストなんですよ」
岩肌の光る部分が、進むにつれて増えていった。鉱脈のように筋が走り、壁の面積の一割、二割と広がっていく。松明がなくても歩けるほどの明るさになってきた。青白い光が通路を満たし、影の形が変わった。
「土産にならないか」とジャンが言いながら、壁に手を伸ばした。
「触らないでください」
アレクが言った。声が少し鋭くなった。手を伸ばしていたジャンが止まった。
アレクには、石から別のものが見えていた。
光の石の周囲に、光の靄が漂っている。薄い、見えるか見えないかの光の靄だ。しかし確かにある。精霊使いの目には見える。靄は石の表面から滲み出るように広がり、通路の空気に混じっていた。
ただ、密度がおかしかった。
石の周囲だけではない。通路の空気そのものが、薄く光を靄を帯びていた。
通路が見えない光で溢れていた。
石が放つものが密閉された場所に溜まり続ければ——どれほどの時間をかければこの濃さになるのか。アレクには分からない。ただ、この量は、目の前の壁の石だけでは説明できない。下から流れてきている、という感触があった。何かが、もっと奥から押し出されてきている。
美しい石のすぐそこに、目に見えない何かがある。先ほどヴァルターが言っていた鉱員の病が、頭の中で並んだ。原因不明の病。血を吐く。内臓が崩れる。死ぬ。嫌な予感がする。
「なんで触っちゃいけないんですか」とジャンが聞いた。「きれいですよね。光ってる」
「美しい物には棘があるんですよ。注意したほうが良いです」とアレクは言った。
嘘ではない。しかしそれだけではなかった。
ドルフが壁の光る石を眺めながら歩いた。「こんなに出るとは思わなかった」と独り言を言った。「これだけ密に出るのは、何か理由がある」
アレクは聞こえなかったふりをして、歩き続けた。
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「呪われた……」
姿はない。突如、壁から声が聞こえてきた。
右の壁からだと思った。振り向いたら、左から来た。
「駄目だ、駄目だ、行くな」
天井から来た。足元から来た。何人かの声が重なっている——あるいは一人が何度も繰り返している。分からない。方向が分からない。声が壁の中を走っている。石の中を、声が走っている。
ジャンの足が止まった。「何ですか、あれ」
声が震えていた。ダンゴムシの時とは別の震え方だった。怪物は斬れる。しかし声は斬れない。
「たぶん、ここで死んだ鉱員です」とアレクは答えた。
「……成仏してないんすか」とジャンが言った。
「成仏してたら、出てこないでしょ」とマルガが言った。「苦しんで死んだのよ。まだここにいる。あとで神官を呼ばないとな」
ジャンは黙った。
しばらく歩いて、声が遠くなった頃に、ジャンが言った。
「俺、今日初めて本物の幽霊の声を聞きました」
「それは良かったですね。でも、気を付けてください。幽霊だけじゃなくて、別のが来ますよ」とアレクは答えた。
光が通路の奥に届いた瞬間、影が動いた。影ではなかった。人型だ。立っている。しかし立っているのとも違う——揺れている。体が前後にわずかに振れていて、棒に吊るされた人形のように見えた。
松明を向けると、それが人間の形をした装備を身につけているのが分かった。金属のヘルメット。泥と何かの染みがこびりついた作業服。腰に革のベルト——そこにツルハシが引っかかっている。
匂いがした。
怪物の匂いとは違う。人間の体が、生きていないのにまだここにある。その匂いだ。甘くて、重い。通路の湿った空気に混じって、鼻の奥に届く。
それが、こちらに向かってきた。
足を引きずっている。石の床に靴底をこすりつけるような歩き方で、一歩ごとに腰のツルハシが揺れて鳴る。金属の、小さな、規則正しい音。生きていたときに、そのツルハシを使って、ここを掘っていた人間だ。三週間前にはそうしていた。
オスカーが斧の柄から手を離した。「斬るな」と後ろに低い声で言った。「怪物じゃない」
「ゾンビだな」とドルフが言った。目を背けずに見ていた。声が平たかった。
ゾンビが近づいてきた。三歩先。二歩先。松明の光が顔を照らした——顔だったものを照らした。皮膚が灰色に変わっている。目は開いているが何も映していない。頬が痩けて、口が半開きだった。
それが声を出した。
嗄れた、人間の発音ではない音で——喉の奥から空気が押し出されるような音で。しかし言葉だった。
「逃げろ……呪われた……逃げろ……」
後ろで、誰かが息を呑んだ。ジャンだった。槍を構えた手が震えていた。顔が白い。ダンゴムシの時には震えなかった手が、人の形をした死者を前にして止まらなくなっていた。
「おい」とオスカーがジャンの槍の穂先をそっと下に押した。「向けるな。元は鉱員だ」
ジャンの手がさらに震えた。槍を下げたが、体が一歩退いた。退いた先に壁があって、背中が当たった。壁に張りつくように止まった。
マルガがゾンビの方をじっと見ていた。弓は下げたまま。怖れてはいなかった。マルガの目が、死者の姿を静かに受け止めている。
「……かわいそうな人」
静かな声だった。しかしその声は、甘い同情ではなかった。眼の前にいるものを正確に見た上での言葉だ。ここで死んで、帰れなくて、まだ歩いている。そのことが、正確に「かわいそう」だった。
「通るぞ」とドルフが言った。「端に寄せる」
ドルフが盾を構えてゾンビの前に立った。ゾンビは攻撃してこない。ドルフがゆっくり盾で押すと、ゾンビは押されるまま、壁に当たって止まった。抵抗しない。足がまだ動こうとしているが、壁に押されたまま足踏みをしているだけだ。
ドルフが先に通った。アレクが続いた。
すれ違いざまに、横を見た。
見なければよかった。作業服の胸に刺繍がある。粗い縫い目で、葉の形だ。自分で入れたのか、家族が入れてくれたのか分からない。縫い目が少しゆがんでいる。手先が器用な人間の仕事ではない——不器用な手が、一針ずつ丁寧にやった仕事だ。
アレクは前を向いた。
その先にも、いた。
二体。通路の壁に寄りかかるように立っていた。一人は作業服、もう一人は上半身裸だった。裸の方の体には、黒い染みが胸から腹にかけて広がっていた。血だったものだ。乾ききって、もう匂わない。
「逃げろ……奥に行くな……逃げろ……」
同じ言葉だった。最初のゾンビと同じ言葉を繰り返している。生前に叫んだ言葉が体に残っているのか——あるいは、死んでもなおそれしか言えなくなっているのか。
三体目が通路を塞ぐように立っていた。ドルフが押そうとした。しかしこの一体は動かなかった。足が床に張りついていた。靴底が何かの粘液で床と癒着していた。
「回り込め」とオスカーが言った。全員が壁に体を押しつけて、ゾンビと壁の隙間を横向きに通った。ゾンビの顔がすぐ横にあった。目が開いている。何も映していない。口が動いている。声は出ていない——口だけが、同じ言葉を繰り返していた。
通り過ぎた。
後ろから、最初のゾンビの声がまだ聞こえていた。「逃げろ……奥に行くな……逃げろ……」
通路が曲がっても、まだ聞こえた。




