鉛筆と、信じて待つ場所
その日の朝、ロウェナの胸の奥には、ざわざわとした嫌な『胸騒ぎ』が渦巻いていた。
領都から、クリスの実家がある領地へと向けて旅立つ二人の姿。
普段は穏やかなクリスの横顔が、その日に限って、ひどく思い詰めたように硬く強張っていたからだ。
野生の勘にも似た鋭い感覚が、彼がこれからとても危険で、悲しい場所に向かおうとしていることをロウェナに告げていた。
だから、出発の直前。
ロウェナはたまらず、エドのコートの袖をぎゅっと引っ張った。
「……エド。クリス、優しすぎるから……悪い奴にいじめられたら、エドがぶっ飛ばしてあげてね」
縋るように見上げるロウェナの頭に、エドの大きな手がポンと乗せられた。
「ああ。……必ず、連れて帰ってくる」
面倒くさそうな態度の裏にある、絶対に曲がらない強い意志。
その力強い言葉と手のひらの温もりに、ロウェナの胸騒ぎは少しだけ落ち着いた。
ロウェナは小さく頷き、遠ざかっていく二人の背中が見えなくなるまで、ずっと大きく手を振って見送ったのだった。
◇
二人が旅立ってからの数日間。
ロウェナはエドの言いつけをしっかりと守り、驚くほど「いい子」にして過ごしていた。
日中は、以前から通っている学校へ。
本当はぽかぽかとした太陽の下で思い切り走り回りたいけれど、ロウェナは木の机にかじりつき、短い鉛筆を強く握りしめた。
エドやクリスが帰ってきた時、すらすらと文字を読んだり計算をしたりして、「すごい!」と驚かせたかったからだ。
うんうん唸りながら、苦手な頭の体操を一生懸命に頑張る。
そして夜。
孤児院での夕食を終えた後、ロウェナは年下の孤児たちと一緒に、大きなテーブルを囲んでいた。
エドたちがいないから少しだけご飯が美味しくないような気がするけれど、おかわりも我慢して、ランプの灯りの下でノートを広げる。
「ここはね、こうやって書くんだよ!」
日中に学校で習ったばかりの文字を、身振り手振りを交えながら、ロウェナは得意げに小さな子供たちに教えてあげる。
たまに綴りを間違えてシスターにこっそり直されたりもしたが、子供たちは「ロウェナお姉ちゃん、すごい!」と目を輝かせてくれた。
そのたびに、ロウェナはえっへんと胸を張る。
すっかり、孤児院の頼れるお姉ちゃんだった。
それでも、夜が深まり、子供たちが寝静まった後。
一人で窓辺に座り、夜空に浮かぶ月を見上げていると、無意識に握りしめた鉛筆の先が震えそうになる。
(……クリス、大丈夫かな。ちゃんとご飯、食べてるかな)
クリスは真面目で、優しすぎるから。
悪い貴族や怖い人たちに騙されて、泣いていないだろうか。
不安が押し寄せそうになるたび、ロウェナはあの朝のエドの言葉を思い出した。
自分が一人ぼっちでお腹を空かせて、暗闇の中で震えていた時。
一番に見つけて、救い出してくれた、世界で一番強くて優しい人。
そのエドが「必ず連れて帰ってくる」と約束したのだ。なら、絶対に大丈夫だ。
「……明日も学校、頑張ろう」
ロウェナは星空に向かって小さく呟くと、ノートを閉じてベッドへと潜り込んだ。
◇
そして、数日後の晴れた昼下がり。
その日のロウェナは、なぜか朝からずっと落ち着かず、ソワソワしていた。
座っていても足が貧乏ゆすりのように動き、本を開いても文字が頭に入ってこない。
気を紛らわせるために、孤児院の裏庭へ飛び出し、子供たちといっぱい走り回って遊んでいた。
すると、表の方から別の小さな男の子が、息を切らして駆けてきた。
「ロウェナお姉ちゃん! 門のところに、おっきなお客さんだよ!」
「えっ……?」
ロウェナは弾かれたように立ち上がった。
そのまま小走りで裏庭から表へと向かう。
好奇心旺盛な子供たちが、「だれだれー?」「お姉ちゃんのお客さん?」と、ロウェナの背中にくっつくようにしてゾロゾロとついてきた。
少しだけ足早になりながら、孤児院の門をくぐる。
そこには。
「……随分と、立派なお姉ちゃんになったじゃねいか」
いつものように少し気怠げに、けれど呆れたような優しい笑みを浮かべたエドが立っていた。
そして、その隣。
出発の朝、あんなにも思い詰めていたクリスの顔からは、暗い影が完全に消え去っていた。
まるで憑き物が落ちたかのような、雲一つない爽やかで温かい笑顔を、ロウェナと子供たちに向けている。
あの日、袖を引いて交わした約束通りだった。
「エド! クリス!!」
ロウェナは満面の笑みを弾けさせ、地面を蹴った。
弾丸のような勢いで、二人の胸元へと思い切り飛びつく。
「ぐえっ!? おいバカ、重ぇっ!」
エドが文句を言いながらも、その大きな手でロウェナの頭をガシガシと乱暴に、けれどとても愛おしそうに撫でてくれる。
クリスも優しく目を細め、「ただいま、ロウェナちゃん」と笑いかけてくれた。
ロウェナの後ろからひょっこりと顔を出した子供たちが、不思議そうに、けれど嬉しそうにその光景を見上げている。
「おかえりなさい!!」
ロウェナの元気いっぱいの声が、晴れ渡った青空に高く響き渡る。
ずっと信じて待っていた温かい日常が、今、完全に彼女の元へと帰ってきたのだった。




