長兄の手紙と、帰るべき場所
泥と血の匂いを洗い流した隠れ家の宿屋に、ジョッキがぶつかり合う小気味良い音が響き渡った。
「おう、飲め飲め! 今日は俺たちの奢りだ!」
「あの分厚い扉を蹴り破った時はどうなるかと思ったが……いやぁ、生きて飲むエールは格別だな!」
貸し切られた1階の酒場では、Bランク冒険者たちとエド、そしてクリスによるささやかな、だが熱気にあふれた打ち上げが行われていた。
テーブルには大皿に盛られた肉料理と、樽出しの冷えたエール。
死線を越えた者同士の気安い空気が満ちており、クリスも彼らに囲まれながら、これまでの重圧を完全に忘れたかのように腹の底から笑い合っていた。
「……領孤児院で留守番させてる食いしん坊が、今頃不貞腐れてなきゃいいがな」
エドは手元のジョッキを傾けながら、ふと窓の外の夜空を見上げて苦笑した。
この場にロウェナがいれば、テーブルの上の料理は瞬く間に消え失せ、男たちの度肝を抜いていたことだろう。
宴もたけなわとなった頃、宿の扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、ハイモア家の紋章を胸につけた若い兵士だった。
「夜分遅くに申し訳ありません。……アーサー様からの伝言をお持ちしました」
兵士は背筋を伸ばし、エドたちに向かって一礼する。
「『事後処理の目処が立ちました。皆様の手が空いた時で構いませんので、一度本邸までお越しいただきたい』とのことです」
◇
翌朝。
緊急の要件かもしれないと考えたエドとクリス、そしてBランクパーティの面々は、連れ立ってハイモア家の本邸へと向かった。
案内された豪奢な応接室。
そこで彼らを出迎えたアーサーの顔つきは、数日前までの焦燥に駆られた少年のものではなく、すっかり領主を代行する者のそれに変わっていた。
「朝早くから申し訳ありません。どうしても、お伝えしておきたいことがありまして」
アーサーは席を勧めると、真っ直ぐにエドとクリスを見据えた。
「ウォルシュ子爵の尋問と、押収した書類の調査を進めた結果……彼の背後に、王都の巨大な『商会』が絡んでいることが判明しました。子爵に莫大な投資をしていた彼らが、今回の件で黙っているとは到底思えません」
裏で糸を引いていた、巨大な商会の存在。
新たな厄介事の気配にエドが微かに眉をひそめたが、アーサーは力強く言葉を続けた。
「ですが、心配は無用です。王都の兄上と密に連携し、商会の圧力はこちらで完全にカタをつけます。……俺たちの領地は、俺たちで守り抜いてみせます」
その声には、一切の揺らぎがなかった。
頼もしい弟の宣言に、クリスは安心したように深く頷いた。
「それと、兄上。……これを」
アーサーがテーブルの上に差し出したのは、一通の封書だった。
「王都の兄上からです。先日の手紙の中に、兄上宛てに同封されていました」
クリスははっとして、その手紙を受け取った。
それは、クリスが領都を出発する際、長兄へ宛てて出した『謝罪の手紙』に対する、正式な返事だった。
震える指で封を切り、折り畳まれた便箋を開く。
『……こちらの事は、何も心配しなくて良い。お前はお前の道を、自由に生きていけ。だが忘れるな。ここは、お前の家でもあるのだ。疲れた時、何かあった時は、何時でも頼ってこい』
端正で力強い筆跡。
かつて重圧から逃げ出した弟を責める言葉は、ただの一文字もなかった。
そこにあるのは、遠く離れた地で弟の無事を祈る、長兄としての温かい愛情だけだった。
「…………っ」
クリスの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
便箋を握りしめ、声にならない嗚咽を漏らす。
長い間、彼を縛り付けていた過去の鎖が、音を立てて完全に崩れ去った瞬間だった。
「……なぁ、領主様」
静かな感動に包まれる応接室の中で、Bランク冒険者のリーダーがふと前に出た。
彼は後頭部を掻きながら、照れ隠しのようにニヤリと笑う。
「俺たちも、いい歳だ。そろそろ命懸けの冒険者は引退しようかと思ってたんだが……どうだ、俺たちをあんたの『専属護衛』として雇ってくれないか?」
その唐突な申し出に、アーサーは目を丸くした。
「あなた方ほどの腕利きが……本気ですか?」
「ああ。あの夜、俺たちの前で腹を括ったあんたの心意気に、すっかり惚れ込んじまったのさ。これからは、ハイモア家の盾として働かせてもらうぜ」
リーダーが親指を立てると、後ろに控えていた仲間たちも、当然だというように深く頷いた。
アーサーは一瞬言葉を詰まらせた後、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。これ以上ないほど、心強いです」
◇
その夜、エドたちは宿ではなく、ハイモア家の本邸に泊まることになった。
泥にまみれた籠城戦の舞台ではなく、温かい食事と柔らかいベッドが用意された客室で、ハイモア領での最後の夜が静かに更けていく。
そして、翌朝。
すっかり落ち着きを取り戻した本邸の門の前。
出発の準備を整え、愛用の槍を背負ったクリスに、エドがふと横から声をかけた。
「おい、クリス。親父さんに会っていかなくていいのか?」
その問いに、クリスは少しだけ瞳を伏せ、ゆっくりと首を振った。
「ええ。父上はまだ病み上がりですし……何より、僕は一度、この家から逃げ出した身ですから」
自嘲するわけではなく、ただ真っ直ぐに事実を受け止めた清々しい声だった。
「領地の混乱が完全に落ち着いたら……その時は堂々と、改めて顔を見せに来ますよ」
エドはその横顔を見て小さく鼻を鳴らし、「そうか」とだけ返した。
「いつでも、帰ってきてください」
見送りに来ていたアーサーが、寂しさを堪えるように差し出した右手を、クリスは力強く握り返した。
「ああ。……でも、お前ならもう大丈夫だ」
過去の重圧から完全に解放され、ただの『冒険者』としての一歩を踏み出したクリスの顔には、雲一つない爽やかな笑みが浮かんでいた。
「行くぞ、クリス。あまり遅くなると、本当にあの馬鹿が孤児院の柱を齧り始めるぞ」
エドが肩越しに声をかける。
クリスは「はいっ!」と元気よく返事をした。
長かったハイモア領での戦いが、終わった。
二人は、見送る家族と仲間たちに大きく手を振ると、食いしん坊の少女が待つ領都へ向けて、軽やかな足取りで街道を歩き出した。




