飾りの剣と、退路なき死線
重厚な鉄格子の門が、重々しい音を立てて開かれる。
昨夜の別邸での襲撃を受け、ハイモア家の本邸は一晩にして完全な城塞へと変貌していた。
石造りの高い壁の周囲には、歩く隙間もないほどに傭兵たちが配置され、その誰もが血走った目で周囲を警戒している。
空気に混じる、油と鉄の匂い。
張り詰めた緊張感が、肌をチリチリと刺した。
だが、その厳重すぎる警戒の網目を、二つの影が白昼堂々とすり抜けていく。
奪ったウォルシュ子爵の紋章入り鎧を身に纏い、深く兜を被ったエドとクリス。
彼らは巡回部隊の交代要員を装い、無言のまま門兵の横を通り抜けた。
不審な挙動を見せれば、即座に数十本の槍が突き出されかねない状況。
クリスの背中を、じっとりと冷たい汗が伝い落ちる。
しかし、隣を歩くエドの足取りは、まるで昼下がりの散歩でもしているかのように自然で、それがクリスの心を僅かに落ち着かせた。
邸内に入っても、状況は変わらなかった。
美しい装飾が施された廊下には、不釣り合いな土足の跡が点々と続き、数メートルおきにガラの悪い傭兵や私兵が立ち止まって談笑している。
これだけ広大な屋敷の中で、諸悪の根源であるウォルシュ子爵がどこにいるのか、今のクリスたちには見当もつかない。
「……子爵の居場所は、わかりません」
すれ違う傭兵たちに聞こえないよう、クリスは兜の中で極小の声を絞り出した。
「ですが、父上の寝室ならわかります。昔と部屋が変わっていなければ……この廊下を抜けた先、東棟の最奥です。父上の容態が急変する可能性を考えれば、毒の管理をしている医者も、必ず父上の部屋のすぐそば……隣の控室あたりに待機しているはずです」
「なるほどな。親父さんが死ぬ前に書類のサインが欲しいなら、子爵本人もその近くにいる可能性が高いな」
エドが低く囁き返し、二人は自然な足取りを装ったまま、屋敷の奥深くへと歩みを進めた。
だが、東棟の最奥へと続く最後の区画に差し掛かった時、二人の足はピタリと止まった。
分厚い両開きの扉。
その前には、これまでとは比にならない数の傭兵と、子爵の私兵たちが密集して陣取っていたのだ。
ざっと見積もっても十人以上。
全員が武器を手にし、油断なく周囲に目を光らせている。
兜の奥で、エドが微かに舌打ちをするのが聞こえた。
いかにエドの技術が卓越していようと、この人数を相手に「誰一人として声を出させず、足音一つ立てずに」制圧するのは不可能に近い。
一人でも悲鳴を上げ、扉の向こうに異常が伝われば、焦った子爵が侯爵の首をはねるか、致死量の毒をあおらせるかもしれない。
ジリジリと時間が過ぎていく。
今この瞬間にも、父の命の灯火は弱まっているのだ。
クリスは焦燥感を噛み殺しながら、周囲を見回した。
そして、廊下の天井の隅に、長方形の僅かな切れ込みがあるのを見つける。
幼い頃、兄弟でかくれんぼをした時に見つけた、屋根裏の点検口。
(……あそこからなら、見張りの頭上を越えて、控室の真上に降りられるかもしれない)
クリスはエドの袖を軽く引き、天井を顎でしゃくって自らの考えを伝えた。
エドの目が、兜の隙間から細められる。
「俺が上から行きます。……ですが」
クリスは自身の背中に背負った、布で包まれた長物を恨めしそうに見つめた。
「天井裏は狭い。この槍を持ったままでは、つっかえて音が出てしまいます」
ただでさえ古い木材だ。
極力音を立てずに這い進むには、身軽でなければならない。
クリスは躊躇うことなく布包みを解き、自身の半身とも言える愛用の槍をエドへと差し出した。
「師匠。……預かっていてください」
「おい。丸腰で突っ込む気か?」
「これを使います」
クリスの視線の先。
廊下の壁には、ハイモア家の歴史を示す装飾品として、意匠の凝らされた古びた『飾りの剣』が掛けられていた。
実戦で使われることを想定していない、美術品に近い代物。
だが、刃はついている。
今のクリスにはそれで十分だった。
エドはクリスの瞳に宿る揺るぎない覚悟を見ると、小さく息を吐き、槍を受け取った。
「わかった。俺が適当に小競り合いを起こして、連中の意識を別の場所に釘付けにしてやる。……しくじるなよ」
「はいっ」
短く頷き合い、二人は別れた。
クリスは廊下の死角へ入り込むと、壁の僅かな装飾に指をかけ、極力音を立てないように慎重に身体を引き上げた。
筋肉の軋みに耐えながら点検口を押し開け、埃まみれの暗闇へと身体を滑り込ませる。
◇
カビと長年の埃の匂いが充満する、狭く息苦しい天井裏。
クリスは呼吸を殺し、梁の強度を確かめながら、四つん這いでゆっくりと進んだ。
少しでも体重のかけ方を間違えれば、古い木材が悲鳴を上げ、下の階で見張りをしている傭兵たちに気づかれてしまう。
船上で波の揺れに耐え抜いたバランス感覚を、今度は「音を立てないための重心移動」へと全て振り向ける。
じっとりと滲んだ汗が、目尻に落ちる。
その時。
眼下の廊下から、突然、怒声と激しい金属音が弾けた。
「てめぇ、どこの者だ! いきなり何しやがる!」
「あぁ? そっちがぶつかってきたんだろうが!」
エドの声ではないが、明らかに統制の取れていない傭兵同士の揉め事のような怒声。
続いて、壁が壊れるような轟音が響き渡る。
エドが手近な傭兵を巻き込んで、派手な陽動を仕掛けたのだ。
「おい、あっちで騒ぎだぞ!」
「チッ、どこの馬鹿共だ。見に行くぞ!」
クリスの真下にいた護衛たちの足音が、慌ただしく遠ざかっていく。
今しかない。
敵の意識が完全に別の場所へ釘付けになっているこの瞬間に。
クリスは目的地である「控室」であろう部屋の真上に到達すると、隙間から漏れる明かりを頼りに、通気口の木製の格子をゆっくりと取り外した。
音もなく、床へ向かって着地する。
膝のクッションで衝撃を完全に吸収し、クリスはゆっくりと顔を上げた。
推測通りだった。
そこは、父の寝室の隣にある控室。
室内には無数の薬瓶や不気味な色の液体が入ったビーカーが散乱し、鼻を突くような薬草の匂いが充満していた。
そして部屋の隅のデスクで、白衣を着た初老の男が、何かの調合書を震える手でめくっている。
「……動くな」
クリスは壁から拝借した飾りの剣を抜き放ち、その鈍い切っ先を男の背中へ突きつけた。
「ひっ……!?」
「声を出せば斬る。お前が父上に盛った毒の、解毒薬を出せ。今すぐにだ」
低く、冷たい声音。
白衣の医師は恐怖に顔を歪め、ガタガタと震えながら両手を上げた。
「わ、わかった……! 薬はそこだ、殺さないでくれ!」
男が顎で示した先、机の上に置かれた小さな青い小瓶。
クリスがそれへ手を伸ばそうとした、次の瞬間だった。
「……なるほど。表の騒ぎは囮というわけか」
背後から響いた、地鳴りのような低い声。
クリスの全身の産毛が、一気に逆立った。
医師の震えは、クリスに向けられたものではなかったのだ。
バッと振り返る。
部屋の死角になっていた、巨大な天蓋付きのソファー。
そこから立ち上がったのは、天井に届きそうなほどの巨躯を持つ、傷だらけの男だった。
「街に放ったネズミ捕りには引っかからねぇ。なら、直接この本陣に突っ込んでくる大馬鹿野郎がいるかもしれねぇと……見張っていた甲斐があったぜ」
男の手には、分厚い鉄の塊のような巨大な戦斧が握られていた。
ウォルシュ子爵の側近か、あるいは傭兵たちを束ねる隊長か。
どちらにせよ、その体から発せられる濃密な血の匂いと殺気は、これまでクリスが相対してきたどのゴロツキとも次元が違っていた。
重い足音が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
扉の外には、騒ぎが収まればすぐに戻ってくるであろう多数の敵。
頼れる師匠は、壁の向こう側。
退路は完全に断たれた。
手の中にあるのは、実戦に耐えうるかどうかも怪しい、一振りの飾りの剣のみ。
「さぁて。長男坊の首、子爵様に高く買ってもらうとするか」
残忍に嗤う巨漢を前に、クリスはゆっくりと呼吸を整えた。
恐怖はない。
ただ、家族を救うために、目の前の障害を排除する。
クリスは重心を低く落とし、飾りの剣の切っ先を、圧倒的な暴力へ向けて静かに構え直した。




