迫る包囲網の内側へ
エドの言葉によって、部屋の空気が微かな感傷から、ひりつくような実戦のそれへと切り替わった直後。
コン、コンコン、コン。
不規則なリズムで、一階の裏口から控えめなノックの音が響いた。
あらかじめ取り決めていた、身内の合図。
エドが顎でしゃくると、クリスは音を立てずに扉の前に移り、静かに鍵を外した。
隙間風と共に流れ込んできたのは、焦げた木材の匂いと、濃厚な土の匂い。
「……お出迎え痛み入るぜ、坊ちゃん」
擦れた声と共に、リーダー格の白髪交じりの男が、三人の仲間を引き連れて姿を現した。
彼らの革鎧は煤にまみれ、顔には泥や油がこびりついている。
だが、その瞳は野獣のようにギラギラと輝き、誰一人として致命的な傷を負っていなかった。
昨夜の別邸での大立ち回りから、一晩中森を駆け回り、傭兵たちの目を完全に引き付けた上での見事な帰還。
「無事で何よりです。……完璧な仕事でした」
クリスは深く頭を下げ、テーブルの上に用意していた革袋を押し出した。
「約束の追加報酬です。受け取ってください」
ずっしりと重い金貨の袋。
白髪交じりの男はそれを手に取ると、中身を改めもせずに自身の腰のポーチへと放り込んだ。
「いい雇い主には、いい仕事で返す。Bランクの意地ってやつさ」
男はニヤリと笑い、仲間たちと壁際に腰を下ろして水筒を煽った。
全員が揃い、改めて部屋の中央に視線が集まる。
ベッドに身を預けるアーサーの表情は、先ほどまでの冷ややかな独白を終え、今は領主代行としての厳しい顔つきに戻っていた。
「……子爵の真の狙いは、単なる領地の簒奪ではありません」
アーサーの乾いた声が、静かな部屋に響く。
「このハイモア領の北にある渓谷には、武器や農具の素材となる良質な金属の鉱脈が眠っています。……子爵の狙いは、その採掘権と領地そのものを、他所の怪しげな商会に売り渡すことです」
クリスの眉が、険しく跳ね上がった。
「領地ごと、他所に? そんなことをすれば、領地の産業や民の生活は完全に崩壊するぞ……!」
「ええ。ですが、元々自分の領地ではない彼らにとって、その後この土地がどう荒れ果てようと関係ないのです」
アーサーは悔しげに唇を噛んだ。
「彼らの算段はこうです。まず当主である父上に、領地をウォルシュ子爵へ譲渡するという書類に署名させる。そして正当な持ち主となった直後に、商会へ高値で売り払う。……だから子爵は今、街の中心から少し外れた『本邸』に居座っています。毒で弱りきり、猶予の少ない父上の側から離れず、無理やりペンを握らせようとしているのです」
「親父さんの命は、あとどれくらい持つ?」
腕を組んだエドが、低い声で尋ねる。
「……わかりません。元々お体の弱い方でしたし、今日、あるいは明日……いつ心臓が止まってもおかしくない状態です。解毒するには、子爵と共に本邸にいるお抱えの『医師』から、調合書か解毒の成分を奪うしかありません」
敵の目的と、明確な居場所。
「本邸か……。あそこなら、僕の庭みたいなものだ。場所も内部の構造も、目を瞑っていても歩ける」
クリスが静かに槍を握り直した、その時である。
「……チッ。のんびり思い出話をしてる時間はなさそうだぜ」
窓の隙間から表通りを窺っていた冒険者の一人が、鋭い舌打ちを漏らした。
エドとクリスが窓際に寄り、音を立てずに木の戸を僅かに開く。
街に入った時点から、ガラの悪い傭兵たちが我が物顔で練り歩いているのは目に付いていた。
だが、今の彼らの動きは明らかに違っていた。
表通りだけでなく、人目に付かない薄暗い裏路地にまで三人一組の見張りが立ち、道行く領民を乱暴に呼び止めては、執拗に何かを問い詰めている。
「昨夜の騒ぎで、完全に本気になりやがったな。あの様子じゃ、街中の路地という路地を塞いで、怪しい場所をじわじわと絞り込む気だ」
白髪交じりの男が、壁際から立ち上がりながらボウガンを手に取った。
彼らも手当たり次第に扉を蹴り破るような、目立つ真似はしていない。
だが、このままじわじわと包囲網が狭まれば、いずれ不自然に人の出入りがないこの宿屋が怪しまれ、見つかるのも時間の問題だった。
「どうします、兄上。このままでは……」
アーサーの声に焦りが滲む。
窓の外を見つめていたクリスは、ふっと息を吐き、隣に立つエドと視線を交わした。
「……逃げ回っていては、親父さんの命が保たない」
「それに、向こうから細かく散らばって歩いてきてくれるなら、好都合だ」
エドの口元に、好戦的な、だがひどく冷酷な笑みが浮かんだ。
「……好都合?」
アーサーが怪訝な顔をする前で、クリスはBランク冒険者たちに向き直った。
「あなたたちには、ここに残ってアーサーの護衛をお願いしたい。もし傭兵たちがこの宿を嗅ぎつけたら、彼らからアーサーを隠し通してほしいんです」
「俺たちを後衛に回すってのか? ……まぁ、追加報酬分はきっちり働いてやるが。あんたたちはどうする気だ?」
クリスは自身の愛用の槍を手に取り、その穂先を静かに見つめた。
「敵の数が多くて厄介なら、堂々と紛れ込めばいい。……敵の『内側』に入り込みます」
◇
宿屋から離れた、薄暗い路地裏。
表通りの喧騒から少し外れたその場所を、三人の傭兵からなる小隊が巡回していた。
「クソッ、どこのどいつだ。昨日の夜から寝ずの番だぞ」
「文句を言うな。怪しい奴を見つけたら金貨が弾むんだ、隅々まで探せ」
男たちが悪態をつきながら、周囲を警戒して歩みを進める。
その頭上。
建物の屋根の縁に、影のように張り付く二つの人影があった。
(……やるぞ、クリス)
エドの視線での合図。
次の瞬間、二つの影が音もなく路地裏へと落下した。
――ドスッ!
傭兵が異変に気づくよりも早く、落ちてきたエドの手刀が、後方を歩いていた男の首筋に正確に叩き込まれた。
悲鳴を上げる間すら与えない、完璧な急所への一撃。
男は白目を剥き、崩れ落ちるように石畳に沈む。
「なっ……!?」
驚愕して振り返り、剣に手をかけようとした前方の二人の顔面に、今度はクリスの蹴りと拳が容赦なく突き刺さった。
バキッという鈍い音と共に、二人の傭兵が壁に吹き飛ばされ、意識を刈り取られる。
ものの数秒。
一切の血を流すことなく、誰の悲鳴を上げさせることもなく、三人の傭兵が路地裏の暗がりに無造作に転がされた。
「……手際が良くなったな、クリス。人を殴ることに躊躇いがなくなってる」
倒れた傭兵の身ぐるみを剥がしながら、エドが感心したように口の端を上げた。
「師匠の教えがいいですからね。……それに、もう逃げないと決めたので」
クリスは泥と汗にまみれた自身の革鎧を脱ぎ捨て、気絶した傭兵が着ていた、ウォルシュ子爵の紋章が刻まれた鉄の胸当てを身に付けた。
サイズは少し大きいが、フードを深く被れば十分にごまかしが利く。
エドもまた、同じように敵の鎧を纏い、傭兵たちが落とした長剣を無造作に腰に差した。
「準備はいいな」
「はい」
子爵と医師のいる、ハイモア家本邸。
街の中心から外れたその場所へ向けて、敵の鎧を着込んだ2人が、白昼堂々と歩みを進め始めた。




