揺れる足場と、受け継がれた重心
狭い控室に、巨漢の嗤い声が低く響く。
「丸腰でネズミが飛び込んできたと思えば、壁の飾りを後生大事に抱えてやがる。……泣かせるじゃねぇか」
巨漢の傭兵隊長が、身の丈ほどもある巨大な戦斧を肩に担ぎ直した。
その無造作な動作だけで、分厚い筋肉が鎧の下で隆起し、室内の空気が圧迫されるような錯覚を覚える。
対するクリスの手に握られているのは、先ほど廊下の壁から外してきた『飾りの剣』だ。
刃こそ研がれているものの、本来は美術品であり、実戦の激しい打ち合いに耐えられるような造りではない。
まともに斬り合えば、一撃でへし折られるのは火を見るより明らかだった。
「さっさと死んで、親父を待ってな!」
巨漢が床を蹴り、猛然と距離を詰めてくる。
振り被られた戦斧が、天井のランプを掠めながら、クリスの脳天へ向けて一直線に振り下ろされた。
――ヒュゴォォォォッ!!
空気を裂く、暴力的な風切り音。
クリスは剣で受けるような愚行はせず、弾かれたように横へとステップを踏んだ。
――ガシャァァァァァンッ!!
凄まじい轟音。
クリスが先ほどまで立っていた場所にあった木製のデスクが、戦斧の直撃を受けて木っ端微塵に粉砕された。
上に乗っていた無数のビーカーや薬瓶が宙を舞い、赤や緑の奇妙な液体が石造りの床にぶちまけられる。
「ひぃっ……!」
部屋の隅で縮こまっていた医師が、頭を抱えて悲鳴を上げた。
飛び散った薬液とガラス片によって、室内の床は油を撒いたかのようにひどく滑りやすくなっていた。
巨漢が戦斧を引き抜こうと足を踏ん張るが、ぬかるんだ床にブーツが滑り、微かに体勢を崩す。
「チッ……。足場が悪かろうが、関係ねぇ。次でその細い胴体を両断してやる」
巨漢が苛立たしげに斧を構え直す。
だが、クリスの瞳には、恐怖も焦りも浮かんでいなかった。
自らの足元に広がる滑りやすい薬液の海を見て、小さく息を吐き、腰を深く沈める。
今までの経験で培ってきたバランス感覚が、この滑る足場の中で、自然と最適な重心の置き方を弾き出していた。
剣として振るうのではない。
自らの半身である『槍』と同じように、ただ一点を突くための構え。
「舐めやがって!」
巨漢が咆哮と共に、今度は横薙ぎに戦斧を振るう。
部屋の壁をえぐりながら迫る、逃げ場のない薙ぎ払い。
だが、クリスの脳裏には、王都の武術大会での光景が鮮明に蘇っていた。
巨大なウォーハンマーを振るう重装甲の騎士、ガラハドを相手にした師匠の戦い。
あの立ち回りを見て、クリスなりに導き出した一つの見解があった。
――重い武器には、必ず致命的な隙が生まれる。
それは、武器を振り切った直後の『減速』と、遠心力によって持ち主自身の『重心が外側に持っていかれる瞬間』だ。
(……見える)
クリスは戦斧の刃先ではなく、巨漢の肩と腰の連動だけを注視した。
戦斧がクリスの胴体を薙ぐ、その直前。
クリスは滑りやすい薬液の床を逆手に取り、足で踏ん張るのではなく、氷の上を滑るように前方へと『スライド』した。
これまで磨き上げてきた無駄のないボディバランスが、姿勢を微塵も崩すことなく、戦斧の刃の下を潜り抜ける。
「なっ……!?」
空を切った戦斧の恐るべき遠心力が、巨漢の身体を大きく右へと持っていく。
床が滑るせいで踏ん張りが利かず、巨漢の脇腹と腕の付け根が完全に無防備に晒された。
完全な減速。そして、重心の崩壊。
クリスは滑り込んだ勢いを一切殺さず、飾りの剣の柄尻に左手の平を添えた。
斬撃では、分厚い筋肉は裂けない。
だからこそ、全身の体重と、滑る床の推進力のすべてを乗せた『突き』を放つ。
「おおおおおっ!!」
――ドスッ!!
鈍い、肉を裂く音。
飾りの剣の切っ先が、巨漢の鎧の隙間――右腕の付け根の急所へ、根元まで深く突き刺さった。
「ガ、アァァァァッ……!?」
巨漢の目が見開き、戦斧が手から滑り落ちて床を叩く。
クリスは剣から手を放すと同時に、巨漢の膝の裏へ強烈な蹴りを叩き込み、その巨体を完全に床へと沈めた。
地響きを立てて崩れ落ちる傭兵隊長。
静寂が、薬草の匂いと共に部屋に降りた。
「……あ、あ、ああ……」
腰を抜かした医師が、信じられないものを見るようにクリスを見上げている。
クリスは荒い息を吐きながら、冷たい視線を医師へと向けた。
「……どれが、父上の解毒薬だ」
「ひっ……! あ、あれだ! その青い小瓶だ!」
医師が震える指で示した先。
粉砕された机の残骸の中に、奇跡的に割れずに転がっていた青い小瓶があった。
クリスは油断なく周囲を警戒しながらそれに近づき、静かに拾い上げる。
その時。
――ドガンッ!!
背後の分厚い扉が、凄まじい音を立てて弾け飛んだ。
土煙の中から姿を現したのは、肩で微かに息をするエドだった。
奪った敵の鎧にはいくつもの真新しい刃こぼれが刻まれ、その表面には生々しい返り血が斑点のようにこびりついている。
あれだけの数の傭兵を相手に立ち回ったのだ。
いかにエドであっても、無傷で涼しい顔をしているわけにはいかなかった。
「……怪我はないか、クリス」
エドは額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、床に転がる巨漢と部屋の惨状を見て、少しだけ目を丸くした。
「はい。……少し、床が滑りましたが」
クリスは解毒薬の小瓶を握りしめ、師匠に向かって不器用に笑い返した。
背中を預け合う二人。
その視線の先にあるのは、侯爵とウォルシュ子爵がいるであろう、最後の寝室へと続く内扉。
「行くぞ。親父さんに、変な事を書かれる前にな」
「はいっ!」
クリスはエドから愛用の槍を受け取ると、諸悪の根源が待つ部屋へ向けて、迷いなく足を踏み出した。




