不在がもたらした自由と、見知らぬ家族の形
木片と土埃が舞う最上階の一室。
アーサーの頬を伝う涙が床に落ちるよりも早く、階下から荒々しい足音と怒号が這い上がってきた。
「おい、最上階から音がしたぞ!」
「裏口が破られてる! 侵入者だ!」
別邸の警備に残っていた傭兵たちが、剣や槍を抜き放ちながら階段を駆け上がってくる気配。
その数は五、いや六人か。
「……感動の再会は後回しだ。さっさとずらかるぞ、クリス」
廊下の様子を窺っていたエドが、面倒くさそうに首の骨を鳴らした。
「はいっ。……立てるか、アーサー」
「あ、ああ……」
クリスは弟の腕を自身の肩に回し、しっかりと腰を抱きとめた。
三年前よりもずっと頼もしく、厚みを増した兄の背中。
アーサーは戸惑いながらも、その力強い歩みに身を預ける。
部屋を飛び出した直後、階段を上りきった傭兵たちと鉢合わせた。
「見つけたぞ! 次男坊もいる、生け捕りにしろ!」
先頭の男が下卑た笑みを浮かべ、刃こぼれした長剣を振り被る。
だが、クリスの瞳に焦りはない。
船上で波の揺れに耐え抜いた下半身は、重傷の弟を抱えながらでも微塵もブレなかった。
スッ、と重心を沈める。
次の瞬間、クリスの手にした愛用の槍が、手首のスナップだけで鋭く跳ね上がった。
ガキンッ!
石突が男の顎の下、喉仏の僅か上を正確に打ち据える。
悲鳴を上げる間もなく、男は白目を剥いて階段を転げ落ちていった。
「なっ……!?」
後続の傭兵たちが怯んだその隙を、エドが見逃すはずがない。
音もなく間合いを詰めたエドは、構えすら見せない自然体のまま、二人の男の腹部に重い拳を沈めた。
くぐもった破裂音。
胃袋の空気を根こそぎ吐き出し、男たちが崩れ落ちる。
「露払いは任せろ。お前は弟の足を引っ張らないように歩け」
「助かります!」
暗闇に包まれた裏山からは、未だにBランク冒険者たちが仕掛けた火の手と爆音が上がっている。
見事な陽動だった。
主力部隊が完全に森へ釘付けになっている隙を突き、エドとクリスは別邸の敷地から夜の闇へと溶け込んだ。
◇
翌朝。
目立たない裏通りにある古びた宿屋の一室。
窓の隙間から差し込む朝日が、室内の埃を白く照らし出していた。
古参メイドのマーサによる手当てを受け、泥のような眠りから覚めたアーサーは、ベッドの背もたれに寄りかかっていた。
顔色はまだ青白いが、死の淵にあった昨夜の切迫感はすでに消え失せている。
「……体の具合はどうだ、アーサー」
丸椅子に腰掛けたクリスが、気遣うように声をかけた。
「ええ。マーサの薬湯のおかげで、だいぶ楽になりました」
アーサーの口調は、ひどく落ち着いていた。
昨夜、兄の手を取って涙を流した姿が嘘であるかのように、その瞳にはどこか冷ややかな、はっきりとした線引きをするような理性が宿っている。
静かな沈黙が、兄弟の間に降りた。
遠くで、荷馬車が石畳を軋ませて通り過ぎる音が聞こえる。
「昨夜は……俺を助けに来てくださって、本当にありがとうございました」
アーサーはベッドの上で、静かに頭を下げた。
だが、顔を上げた彼の瞳の奥には、複雑な色が渦巻いていた。
「……ただ、兄上が戻ってこなくて、よかったこともあるんです」
唐突に紡がれたその言葉は、感情の起伏を抑え込んだ、ひどく平坦なものだった。
「……それは、どういう意味だ?」
クリスは眉を寄せ、弟の真意を探るようにまっすぐに見つめ返した。
アーサーは視線を窓の外、切り取られた四角い空へと向けたまま、静かに語り始めた。
「父上は……ハイモア侯爵は、正室の子である兄上たちを、それはもう熱心に後継者として育てようとしておられました。領民の期待も、家臣たちの眼差しも、すべてが輝かしい『次期当主』に向けられていた」
アーサーの薄い唇が、自嘲気味に歪む。
「妾の子である俺は、ただの予備。あるいは、兄上を引き立てるための影でしかなかった。もちろん……長男のアルベルト兄上も、クリス兄上も、俺には本当によくしてくれました。幼い頃から、分け隔てなく優しく接してくれたことは、今でも感謝しています」
アーサーはそこで一度言葉を切り、深く息を吐き出した。
「けれど、周りの大人たちは違った。彼らの目は常に冷たく、俺を見る視線にはいつも値踏みするような侮蔑が混じっていました。屋敷の中を歩くのすら息苦しかったですよ。……自分がここに存在する意味など、何一つないのだと思い知らされる毎日でしたから」
クリスの手が、膝の上で強く握りしめられる。
兄たちがどれほど優しく接しようと、貴族社会という檻の中で、弟がどれほどの孤独と冷遇を味わっていたか。
重圧から逃げることしか考えていなかった当時の自分は、その苦しみに少しも気づいてやれなかった。
「でも、兄上が逃げ出してくれた」
アーサーはゆっくりと視線を戻し、クリスの目を真っ直ぐに射抜いた。
「次期当主の座が空席になり、誰もが混乱する中で……俺には、領地の運営という実務が転がり込んできた。皮肉なものですよ。兄上が重圧から逃げたおかげで、俺はようやく『自分の実力』を証明する機会を得た。誰かの影ではなく、アーサーという一人の人間として、領地を動かす裁量と……自由を手に入れたんです」
刃のような言葉だった。
兄の逃亡を責めるのではなく、むしろそれを踏み台にして自分が立ち上がったのだという、冷徹な事実の突きつけ。
かつてのクリスなら、その言葉に耐えきれず、目を逸らして言い訳を口にしていたかもしれない。
あるいは、罪悪感に押し潰されて再び逃げ出していたかもしれない。
だが、今のクリスは違った。
(……ああ。アーサーは、ずっと一人で戦ってきたんだ)
クリスは目を逸らさなかった。
泥にまみれ、海を渡り、エドという規格外の師の背中を見て学んできた彼には、他者の痛みを真正面から受け止めるだけの芯が備わっていた。
「……ごめん。君に、すべての荷物を背負わせてしまった」
クリスは深く頭を下げた。
「でも、ありがとう。君が僕がいなくなってからの三年間、それに、父上が病に伏してから、ハイモアの領地と民を守り抜いてくれたからこそ、僕は今、こうしてやり直す機会をもらえた」
頭を上げたクリスの瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
「君が手に入れたものを奪うつもりはない。僕は当主の座に戻るために帰ってきたんじゃない。……ただの家族として、弟を、家族を助けに来たんだ。父上の毒の件も、子爵の企みも、僕が必ず終わらせる」
その言葉の重みに、アーサーの目が僅かに見開かれる。
冷ややかな理性の奥底で、固く結ばれていた何かが、微かに解けたような気がした。
◇
二人のやり取りを、部屋の隅の暗がりに背中を預けながら、エドは静かに聞いていた。
腕を組み、目を閉じているその姿は、まるで壁の染みの一部のように気配を消している。
(……家族、ね)
エドの胸の奥で、微かな風が吹いた。
血の繋がり。
憎しみと感謝が入り混じった、複雑で面倒くさい感情の糸。
それらをぶつけ合い、それでもなお断ち切ることができない何か。
「あれが、家族か」
誰に聞こえるでもない声で、ぽつりと呟く。
天涯孤独で生きてきた自分には、兄弟の絆というものがどういうものか、正確には理解できない。
血の繋がった親の顔すら知らないのだ。
「……知らないな」
だが、目を閉じれば浮かんでくる顔がある。
薄暗い部屋で、外の世界の広さを語って聞かせてくれた、厳格で優しい代官騎士。
不器用な自分を、いつも呆れたように笑って許してくれたシスター。
そして。
(……あの食いしん坊は、今頃、串焼きでもたらふく食ってるんだろうな)
屈託のない笑顔で「エド~!」と抱きついてくる、規格外の力を持った少女の姿。
血は繋がっていなくとも、帰るべき場所があり、守るべき背中がある。
面倒事を極端に嫌う自分が、こうして他人の家の騒動にまで首を突っ込んでいるのは、その暖かさを、どこかで彼らにも失ってほしくないと思っているからかもしれない。
「さて……」
エドはゆっくりと目を開け、壁から背中を離した。
窓から差し込む朝の光が、彼の鋭い瞳を照らし出す。
「お涙頂戴の兄弟喧嘩は、一区切りついたか?」
あえて空気を読まない軽い口調で、エドはベッドの二人に向かって歩み寄った。
「泣いても笑っても、時間はないぞ。……アーサーとやら。親父さんの毒の具合と、あのふざけた子爵の裏事情、知ってることを全部吐き出してもらおうか」
本格的な『後始末』の時間が、始まろうとしていた。
注目度ランキング1位ありがとうございます!
ランキングもそうですし、評価やPVもすごくて手が震えております笑
今回から、行間読みずらいと多数頂きましたので、変えてみました。




