西の風と忠臣の涙、そして老練なる刃の証明
領都を出発し、馬車を幾度か乗り継いだ数日の旅路を経て、一行はようやく西のハイモア領へと足を踏み入れた。
だが、領都の門をくぐったクリスを迎えたのは、かつての故郷の姿とは似ても似つかない、異様に重苦しい空気だった。
活気にあふれ、多くの商人たちの声が飛び交っていたはずの大通りは、ひどく閑散としている。
代わりに我が物顔で石畳を練り歩いているのは、ウォルシュ子爵の紋章を胸に掲げた私兵や、どこからか雇い入れられた素性の悪そうな傭兵たちだった。
領民たちは皆、彼らと目を合わせないように俯き、息を潜めるようにして足早に通り過ぎていく。
それが、クリスが重圧から逃げ出し、家を空けていた三年の間に出来上がった西の領地の惨状だった。
クリスは深くフードを被り、自身の土地勘を活かして一行を裏通りへと誘導した。
目立たない路地裏にある、古びた石造りの宿屋。
そこを当面の拠点と定めた。
四人のベテラン冒険者たちが、不審に思われない手際の良さで周囲の警戒と情報収集に散る中、クリスは宿屋の主人に銀貨を握らせ、ある人物を密かに呼び出していた。
日も完全に落ちた頃、宿屋の一室の扉が控えめにノックされた。
エドが油断なく扉の脇に立つ中、入ってきたのは、地味な外套を深く被った初老の女性だった。
彼女は部屋の中央に立つ青年の姿を認めた瞬間、外套のフードを外し、その場にへたり込むようにして泣き崩れた。
「ウィリアム様……っ! よくぞ、よくぞお戻りくださいました……!」
「マーサ。久しぶりだね。……こんなに痩せてしまって」
彼女は、クリスや兄、そして弟を幼い頃から分け隔てなく育ててくれた、屋敷の古参メイド長だった。
クリスは床に膝をつき、皺の増えた彼女の震える手を優しく握りしめた。
声を殺して嗚咽を漏らしながら、彼女の口から語られた実家の内情は、使者から聞かされていた内容よりも遥かに凄惨で、残酷なものだった。
「旦那様が倒れられたのは、決して病などではございません。ウォルシュ子爵の息のかかった医者によって……少しずつ、毒を盛られていた疑いが強いのです」
「なんだって……!?」
「そして今、子爵はアーサー様に恐ろしい濡れ衣を着せました」
マーサの目から大粒の涙が溢れる。
妾の子である弟のアーサーは、これまで見事に領地の運営を代行し、領民からも深く慕われていた。
しかし、家令のセバスチャンから「ウィリアムが間もなく戻ってくる」という知らせを受けた子爵派は、神輿の到着を前に、実権を握るアーサーが邪魔になったのだ。
彼らは即座にアーサーから領主代行の権限を奪い、『湖畔の別邸』へと力ずくで軟禁したという。
「子爵は、ウィリアム様がこの領地に到着される前に、アーサー様を『当主暗殺未遂』の罪で秘密裏に処刑するおつもりです。彼らはそれを、謀反の重圧に耐えかねた『自殺』として処理する手はずを整えております。……猶予は長くて数日、あるいは、明日かもしれません!」
緊迫した死の宣告。
クリスの瞳に、冷たく激しい怒りの炎が灯った。
優秀な弟は、兄の不在を賄うために、孤独の中でずっと耐え忍んできたのだ。
自分が逃げ出したツケを、あいつ一人が命を懸けて払わされようとしている。
「……マーサ、教えてくれてありがとう。アーサーは、僕が必ず助け出す」
◇
状況は一刻を争う。
宿屋のテーブルを囲み、エドと四人のベテラン冒険者たちに事の次第が共有された。
しかし、湖畔の別邸の周囲には、子爵が雇った数十人の傭兵たちが厳重な包囲網を敷いているという。
地の利は向こうにあり、無策で突っ込めば多勢に無勢、全滅の危険すらある。
重い沈黙が落ちる中、クリスは懐からずっしりと重い革袋を取り出し、テーブルの中央に置いた。
中には、硬く澄んだ音を立てる金貨が詰まっている。
前金として渡したものとは別の、クリスの全財産だった。
「危険手当として、ギルド規定の三倍の額を、今ここでお支払いします」
クリスはベテランたちを真っ直ぐに見据え、静かに告げた。
「ですが、あなたたちの命が最優先です。もし包囲網が想定以上に強固なら、迷わず撤退してください。僕は名誉のために死んでくれる『死兵』を雇ったわけではありません。……プロの冒険者としてのあなたたちの命と技術に、これを支払うのです」
貴族特有の「主のために命を捨てろ」という傲慢さは微塵もない。
あくまで雇い主として、彼らの命を尊重し、理にかなった取引を提示する姿勢。
リーダー格の白髪交じりの男は、テーブルの上の金袋を手に取ると、その重さを確かめるように放り投げ、ニヤリと笑った。
「……いい雇い主じゃねぇか。そういう『生きた金』の使い方を知ってるなら、俺たちも本気で応えてやらねぇとな」
男は背負っていた大弓を手に取り、仲間たちと不敵な笑みを交わした。
「Bランクの古参を舐めるなよ、坊ちゃん。魔法や見栄えのいい剣術なんざ使えねぇが、俺たちの泥臭いやり方で綺麗に引っ掻き回してやる。……あんたは、弟さんのところへ一直線に向かいな」
◇
夜の帳が下りた、湖畔の別邸。
松明の明かりが周囲を照らし、武装した傭兵たちが油断なく目を光らせていた。
その時である。
別邸の裏山、風上の斜面から、幾つもの巨大な木樽が勢いよく転がり落ちてきた。
傭兵たちが怪訝な顔でそれを見た瞬間、暗闇から放たれた数本の火矢が樽に突き刺さる。
樽の中に詰め込まれていたのは、強烈な度数の蒸留酒だった。
――ドゴォォォォンッ!!
凄まじい爆音と共に、引火した酒が一気に燃え上がり、夜の森を真昼のように照らし出した。
風上からの強烈な熱風と炎が別邸の正面へ向けて吹き荒れる。
パニックに陥った傭兵たちが迎撃に向かおうと森へ踏み入った途端、あらかじめ仕掛けられていた落とし穴が次々と牙を剥き、足元で無数の鳴子罠がけたたましい音を立てて連鎖した。
「敵襲だ! 反乱軍が来やがったぞ!!」
「数が多い、正門の守備を回せ!」
炎の向こう側の暗闇から、正確無比な矢の雨が降り注ぐ。
命を奪うためではない。
確実に傭兵たちの足を射抜き、武器を持つ手を弾き飛ばす恐るべき弓術。
たった四人でありながら、まるで倍の人数、それどころか数十人が奇襲をかけてきたかのような偽装。
長年の経験に裏打ちされた、泥臭くも無駄のない古参のゲリラ戦術が、傭兵たちの主力部隊を見事に別邸から引き剥がしていった。
木陰からその惨状を窺っていたエドは、「流石だな」と感心の息を漏らした。
「……行くぞ、クリス」
「はいっ!」
警備が手薄になった別邸の裏手。
エドとクリスは闇に紛れて接敵した。
裏口にはまだ数名の衛兵が残っており、頑丈な鉄格子の入った扉には太い鍵が掛けられている。
エドは「どいてろ」と短く告げると、衛兵が槍を構えるより早く間合いを詰め、その圧倒的な暴力で二人の顔面を石畳に沈めた。
そのまま、一切の躊躇なく、閉ざされた裏口の扉に向かって全力で凄まじい前蹴りを放つ。
――バキィィィィンッ!!
扉が鍵ごと壊れたのではない。
鉄格子の入った重厚な扉が、石造りの『壁の枠組み』ごと粉砕され、豪快に吹き飛んだのだ。
土煙を上げて崩れ落ちた壁を乗り越え、クリスは一直線に最上階の部屋へと階段を駆け上がった。
最上階の扉の向こう。
表の騒ぎに気づいた暗殺者が、「反乱軍が来たか。予定を早めて今ここで始末する!」と舌打ちをし、縛り上げられたアーサーに向けて凶刃を振り下ろそうとしていた。
絶体絶命の瞬間。
クリスは助走をつけ、手にした愛用の槍で扉の蝶番を全力で突き破った。
木片が吹き飛ぶ室内。
クリスは槍を大きく振りかぶり、手首のスナップを利かせて暗殺者の腕へ向けて投擲した。
ガキンッ!!
青剛鉄の石突が暗殺者の手首を正確に打ち据え、振り下ろされようとしていた短剣が弾き飛ばされる。
悲鳴を上げて後ずさる暗殺者の腹に、クリスは流れるような動作で踏み込み、強烈な蹴りを叩き込んで壁際まで吹き飛ばした。
完全に意識を刈り取る、容赦のない一撃。
静まり返った室内。
床に倒れ込んだまま、アーサーは信じられないものを見るように目を見開いていた。
豪華な貴族の衣装ではない。
土と油に汚れ、使い込まれた革鎧を纏った見慣れぬ姿。
だが、その背中と、不器用で優しい微笑みは、三年前から何も変わっていなかった。
「……遅くなって悪かったな、アーサー」
クリスは槍を拾い上げ、弟に向かって静かに手を差し伸べた。
「迎えに来たぞ」
かつて剣を捨て、重圧から逃げ出したはずの兄が、頼もしい冒険者の姿となって、自分を助けに来てくれた。
その温かい手のひらに触れた瞬間、張り詰めていたアーサーの糸が切れ、その瞳から堪えきれない大粒の涙が溢れ出した。




