第19話 悪夢
前回のあらすじ:包囲されましたがなんかみんなあっけらかんとしてます。
――――濃紺の夕闇を背景に黒い炎が燃え上がり、紅い炎を散らして家が焼ける。家畜小屋が焼ける。人が焼け、畑が焼け、何をしてもその火焔は留まることを知らない。
「水術――雨乞空!」
桶一杯に蓄えてあった水に魔力を込め、雨雲を形成しすぐに雨を降らせたが、幾ら雨粒が降り注げども火はその勢いを弱めることさえしない。見れば俺よりも大きな大人たちが同じように水術で、土術で火を抑え込もうとしているが、その悉くを嘲笑うように火焔は荒れ狂う。
『哀れなものだな小僧』
耳元に響く――いや、それよりもっと近く、頭の中に響く声。闇術――脳裏記帳か。ここまで簡単に“内に入って”来られる時点で戦力の差は相当だろう。
背後に何かが近づく感覚を察知し影の密度を限界まで高めた刃を作り振り抜くが、その一撃は迫っていた魔王の影を捉えるもただ霧散させただけだ。闇術――影分身か。魔王を自称する癖に狡いやり口だと嗤ってやりたくなるが、軽口など叩けないほどに圧倒的な存在感をすぐ傍らに感じる。
今俺が生きているのは間違いなく目にも見えない魔王とやらの戯れだ。俺よりも力が強く、術にも長けていた大人たちを皆物言わぬ躯に変えたのはこいつだ。
燃え続ける漆黒の火が弾け、飛礫と熱風が嵐のように舞い狂い周囲の、俺の生活の場だった全てを吹き飛ばしていく。それでも、今の俺に出来ることはもう精々自分の身を守りながらただその破滅を見ていることしか出来ない。
「水術――水盾!」
盾の術を使うが俺が桶1杯の水から生み出すことが出来る盾では黒い炎の余波の熱を緩和する程度にしかならない。瞬く間に熱との衝突で盾は摩耗し込めた魔力が大気に霧散していく。
「術が無くても! お前なんかぁぁぁあああ!!」
黒炎に一切が焼き払われ、新たに触媒である水を確保することも出来ない。大木の影のように月明りの下で姿を持った影そのものに疾風の如く近付いて刃を突き立てるが、その影は俺の身体を受け止めることなく、鋳造の銅剣が地面に突き立っただけだった。
『遅いな。あまりにトロくさくて欠伸が出てしまうよ』
これでも夜の闇の力をめいっぱいに集めた影外殻で全身を強化しての最速の一撃だったが、捉えられない。そもそも魔王とやらの使用術は闇術ばかりだ。
夜が本領という点では俺と変わらないのだから、後は術の扱いと、その身が練り上げられる魔力の量と質の差でしかない。
『お前が弱いから全てを失くす。失くしたモノはお前の元には帰らないものだ』
暗がりの中に更に塗り込めたような漆黒の闇がせせら笑う。表情など見えなくてもニタァと気持ち悪い笑みを浮かべているだろうことをありありと感じる。
『この女も手間取らせてくれたが、この魔王にやせっぽっちのガキ1人が持久戦で勝ち目があるとでも思ったか』
揺れるイチイの木の下に影が揺らいだかと思うと、それは1人の、魔族の男の姿を取った。
デーモンを束ねる者を自称するに相応しい圧倒的な魔力と、強大なデーモンの王の力を詰め込んだ細身の身体。夢見がちなヒトの世の娘たちをその美貌で捉えて離さないだろう容姿と屈強なデーモン達の軍を束ねる圧倒的なカリスマ性――正しく、悪魔たちの王。魔王だった。
「リース!?」
その男が片手で引き摺っている少女に見覚えがないはずがない。俺の、大切な相棒だ。
さっきは脳裏記帳だったが、今度は幻覚か? だって、そうでなければ、おかしいだろ?
『言ったはずだ。お前は弱い。弱いから全て失くす。家も、ヒトも、帰るところも』
「リース……? 本当にリースなのか……?」
『泣け! 喚け! お前の暗く淀んだ感情全てが私の贄だ』
黒いマントの向こう側で、リースの慎ましく平たい胸を魔王の腕が貫いた。
叫んでも無駄だ。俺は『これがどういうことだったのか』知っている。あの時と同じ――あの日『あの子』は帰って来なかった。
ボタリ、と重く滴る水音が1滴。ボタリと落ち、その音は次第に止めどないものになっていく。心は今すぐにでも目の前の影の塊を爆発四散させ散らしてやりたいというのに、体が動かない。目の前で失われていく女の子の命を繋ぎとめることすら、光の加護を持たない俺には出来ない。
『さて、もう行くとするか。お前の絶望で私の腹は満たされたことだ。お礼にお前を後続の連中の餌にしてやろう。お前の愛しい愛しい想い人と一緒にな』
そう言って魔王は、少女の亡骸を俺の方に放って来た。俺には治癒の術も使えないことを分かっていながら、どうにもならない俺を見て愉悦に浸るために。
『取り乱さないのか。面白くないな。どれ、抵抗の手も奪っておいてやろう』
「……っ!」
小さな手に影から生じた楔が打ち込まれる。寒風の吹く心の中を黒い靄が湧き上がり、手も足も動かせないまま、虚しさの涙だけが地面に吸い込まれていく。心を砕き絶望に叩き落し身も心も拘束する闇の術。それに心を容易く飲まれてしまう時点で、既に格の差は決している。
俺では、魔王には勝てない。それでも、ただ憎さだけで、言葉がこぼれた。
「殺してやる……! 絶対に、殺してやる……!」
『その体たらくで面白いことを言う。生きていたらまた会おうではないか。まあ私の配下の餌の運命から逃げ出すなんて奇跡が起これば、の話だがな』
哄笑と共に去って行った魔王の背に、一太刀与えてやるだけの力ももう残ってはいなかった。ただ這いずり、貫かれた少女の平たい胸に手を当てる。俺には、魔王の暴威から誰かを守ることは出来ない。
ほとんどのヒトには出来ないことだ。ごく一部の例外以外には。
『ねえ、聞こえる?』
少女の優しい声がする。幻聴か。迫ってきているはずの魔王の後続軍の足音もただ残響のように遠くぼやけて聞こえる。
「……リース。俺は、お前のことを……」
『よんだ?』
1人呟いた言葉に返事の幻聴が聴こえてくるあたり、俺はもうダメみたいだな。きっと勇者だったら『自分』も『この村』も『少女』もきっと全てを救えていたのにな……。
——そうだ。俺は、勇者になりたかった。そして成れなかった。朝日にカーテンを開いた瞬間のように、突如視界が開け『目が覚めた』俺は、やっぱり元の落伍者の俺だった。
「ゆ、ゆめ……?」
「……そうだと思う。闇術の痕跡があるから」
目を開けた先で、リースは心配そうに俺のことを覗き込んでいてくれた。
不意にこみ上げた切なさに抱き締めたリースの身体は、やっぱり小さくて、細くて、起伏がないが、確かにそこにいた。温もりが、悪夢の終わりを告げていた。




