この子は渡さない
翌朝、リーフは薬草小屋の外で目を覚ました。
隣には、緑色のスライムがいる。
昨夜、少年の傷を治したせいか、体の色は少し薄くなっていた。
いつもなら、近くで音がすればすぐに揺れる。
けれど今朝は、ほとんど動かなかった。
「おはよう」
リーフが声をかけても、わずかに体を震わせるだけだった。
リーフは不安になり、そっと手を伸ばした。
触れたところから、冷たい感触が伝わってくる。
「疲れているのかな」
スライムが小さく揺れた。
リーフは布袋から、昨日買ってもらったパンを少し取り出した。
エダが、仕事の分だと言って渡してくれたものだ。
「食べられる?」
パンを近づけると、スライムはゆっくり体を伸ばした。
けれど、パンに触れてもすぐには吸収しない。
少し迷うように揺れてから、ほんのわずかだけパンを取り込んだ。
「無理しなくていいよ」
リーフはパンを小さくちぎり、残りを布に包んだ。
「今日は、ゆっくり休もう」
スライムはリーフの足元に戻ってきた。
その姿を見ていると、胸の奥が重くなった。
昨日、治癒の力を使わせすぎた。
助けてもらった嬉しさで、少年の傷を治してほしいと思ってしまった。
もし、もっと苦しませていたら。
もし、この子が動けなくなってしまったら。
リーフは自分を責めた。
「ごめんね」
スライムは、答えるように小さく揺れた。
薬師の仕事を始めても、リーフの気持ちは落ち着かなかった。
何度も薬草小屋の方へ目を向けてしまう。
エダに注意され、薬草を間違えそうになった。
「心ここにあらずだね」
エダが言った。
「スライムのことが心配かい?」
「はい」
「治癒の力を使ったからだろう。今日は休ませておけばいい」
「でも、あの子はまだテイムしていません」
リーフがそう言うと、エダの手が止まった。
「テイムしていない?」
「はい。僕のそばについてきているだけです」
「それなら、いついなくなってもおかしくないね」
その言葉に、リーフの胸が強く締めつけられた。
「いなくなる……?」
「野生の魔物だからね。腹が減れば森へ戻るかもしれない。別の魔物に襲われれば、逃げてしまうかもしれない」
「でも、この子は僕についてきました」
「それは、お前さんが食べ物を分けて、傷を治したからかもしれない」
エダは薬草を束ねながら話を続けた。
「あるいは、治癒の力を持っているから、他の魔物に狙われているのかもしれない。安全な場所を探して、お前さんのところに来ただけという可能性もある」
リーフは黙り込んだ。
スライムが自分を必要としていると思いたかった。
自分と一緒にいたいと思ってくれていると。
けれど、ただ利用されているだけなのかもしれない。
自分がパンを持っているから。
傷を手当てしてくれたから。
「テイマーなら、契約すればいいのかい?」
エダが尋ねた。
リーフは頷いた。
「たぶん……。でも、僕はまだ使い方を知りません」
「そうかい」
「テイマーのスキルを使ったこともありません。どうすればいいのか、教えてくれる人もいなくて」
「契約には、魔物の意思が必要だと聞いたことがあるよ」
「意思……」
「無理やり従わせるものではない。魔物が拒めば、契約はできない」
リーフは薬草を握っていた手をゆっくり開いた。
「この子が、僕と一緒にいたいと思ってくれるでしょうか」
「それは、その子に聞くしかないね」
エダはそう言って、リーフを見た。
「お前さんは、どうしたいんだい?」
リーフは、すぐには答えられなかった。
テイマースキルが発現したとき、父は役立たずだと言った。
強い魔物など従えない。
騎士の家では必要ない。
その言葉が、ずっと胸に残っている。
けれど、目の前のスライムは、リーフを助けてくれた。
森犬から守ってくれた。
傷を治してくれた。
食べ物を分けると、嬉しそうに揺れた。
たとえ、強い魔物でなくても。
戦えなくても。
この子と一緒にいたい。
「僕は、この子と一緒にいたいです」
リーフは顔を上げた。
「この子が僕を必要としているかは、まだ分かりません。でも、僕はこの子を必要としています」
エダは、少しだけ目を細めた。
「そうかい」
そのとき、家の外から大きな声が聞こえた。
「エダばあちゃん!」
昨日、スライムに傷を治してもらった少年だった。
少年の後ろには、数人の大人がいる。
「どうしたんだい、そんなに騒いで」
「村長さんが呼んでる。昨日のスライムのことで話があるって」
リーフの背中に、冷たいものが走った。
エダはリーフを見た。
「一緒に行くよ」
村の集会所は、村の中央にある大きな建物だった。
中には村長と数人の村人が集まっている。
リーフとスライムが入ると、何人かが不安そうに後ずさった。
村長は、白い髭をたくわえた大柄な男性だった。
「この子が、治癒の力を持つスライムを連れている子か」
「はい」
リーフは丁寧に頭を下げた。
「リーフと申します。よろしくお願いします」
「……ずいぶんと礼儀正しいな」
村長が少し驚いたように言った。
「それで、そのスライムだがな」
村長の視線が、リーフの足元へ落ちる。
「この村に置いておくには、あまりにも価値が高い」
リーフはスライムを見た。
スライムは、村長を警戒するようにリーフの後ろへ隠れている。
「価値……ですか?」
「治癒の力を持つ魔物は珍しい。王都へ連れていけば、かなりの金になるだろう」
リーフの指先が冷たくなった。
「売るのですか?」
「村として買い取るつもりはない。商人へ渡せば、薬師や貴族が欲しがるだろう」
村人の1人が口を挟む。
「治癒の魔物がいれば、村の怪我人も助かるんじゃないのか?」
「この子が使える力には限りがあるでしょう」
エダが言った。
「昨日も1度力を使っただけで、今日は弱っている。何度も頼れば、命を縮めるかもしれない」
村長は眉をひそめた。
「だからこそ、専門の施設で保護する必要がある」
「保護ではなく、閉じ込めるのではありませんか?」
リーフの口から、思わず言葉が出た。
集会所の空気が変わる。
「何だと?」
「この子は、道具ではありません」
リーフはスライムの前に立った。
足は震えている。
声も震えている。
それでも、退くことはできなかった。
「怪我を治せるからといって、何度でも使っていいわけではありません。この子が嫌がっているなら、無理に連れていくべきではないと思います」
「10歳の子供が、何を分かったようなことを言う」
村人の1人が吐き捨てた。
「その魔物が村人を襲ったらどうする?」
「僕が責任を取ります」
「お前に何ができる」
言い返せなかった。
自分には、お金もない。
剣もない。
魔物と契約すらしていない。
何かあったとき、本当に責任を取れるのか。
不安が胸を満たしていく。
それでも、スライムの体がリーフの足に触れた。
小さな冷たさが伝わってくる。
リーフは、握った拳を開いた。
「僕には、まだ何もできません」
正直に言った。
「でも、この子を売ることはできません。僕を助けてくれたからです。今度は僕が、この子を守りたいです」
しばらく、誰も話さなかった。
やがて、村長が大きく息を吐いた。
「村の中で魔物を自由にさせるわけにはいかん」
「はい」
「だが、エダばあさんが預かり、危険がないか見張るなら、しばらく置いてもいい」
リーフは顔を上げた。
「本当ですか?」
「条件がある。村の外へ出すときは、必ず誰かに伝えること。村人を傷つけた場合は、すぐに追い出す」
「分かりました」
リーフは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
村長は、少し困ったように眉を動かした。
「お前さんは、その魔物を本当に大切にしているようだな」
「はい」
「ならば、早く正式に契約した方がいい。野生の魔物のままでは、守れる範囲にも限界がある」
リーフはスライムを見た。
スライムは、リーフのそばにいる。
けれど、契約できるかどうかは分からない。
もし拒まれたら。
もし、スライムが自分を選ばなかったら。
今の関係さえ失ってしまうかもしれない。
集会所を出たあとも、リーフはそのことばかり考えていた。
薬草小屋へ戻る道の途中、村の外れで足を止める。
「ねえ」
リーフはスライムに向かってしゃがみ込んだ。
「僕と一緒にいたい?」
スライムが、体を揺らす。
「僕と契約してもいいと思う?」
今度は、すぐに近づいてきた。
リーフの手に触れる。
その体の中で、淡い光が小さく揺れた。
けれど、それが答えなのかは分からない。
リーフは、まだ怖かった。
「明日、試してみよう」
スライムは、リーフの手のひらに体を寄せた。
「もし嫌なら、嫌って言ってね。無理に僕の仲間にならなくていいから」
スライムは何度も、ぽよん、ぽよんと跳ねた。
その姿を見ながら、リーフはそっと微笑んだ。
明日、初めてテイマースキルを使う。
成功するかどうかは分からない。
それでも、逃げるつもりはなかった。
この小さな仲間と、これからも一緒にいたい。
その気持ちだけは、はっきりしていた。




