森の外の村
森の外の村
森の入口を抜けると、細い道が続いていた。
道の両側には、背の低い草が広がっている。
その先に、小さな村が見えた。
木の柵に囲まれた村だった。
柵はところどころ補修されていて、門の横には小さな見張り台がある。畑には数人の村人が立ち、濡れた土を踏みながら作業をしていた。
リーフは、村が見えたところで足を止めた。
人がいる。
助けを求められるかもしれない。
食べ物を買えるかもしれない。
けれど、同時に不安もあった。
自分は今、家名を名乗れない。
お金もない。
しかも、後ろには魔物がいる。
緑色のスライムが、リーフの足元へぴたりと寄り添っていた。
「君は、村に入っても大丈夫かな」
リーフが尋ねる。
スライムは、体を小さく揺らした。
返事の意味は分からない。
それでも、リーフは村へ向かって歩き始めた。
門の前には、木の槍を持った男が立っていた。
年齢は、父より少し若いくらいだろうか。
日に焼けた顔と太い腕をしている。
男はリーフを見ると、すぐに槍の先を下げた。
「止まれ」
リーフの足が止まる。
男の視線は、リーフではなく、足元のスライムへ向けられていた。
「その魔物は何だ」
「スライムです」
「それは見れば分かる。なぜ村へ連れてきた」
リーフは背筋を伸ばした。
「申し訳ありません。勝手に入るつもりはありませんでした。ですが、僕は森でこの子を見つけて……」
「魔物を連れている理由を聞いている」
「この子は怪我をしていました。僕が手当てをしたら、ついてくるようになって」
「それで、村の中に入れるつもりか?」
男の声が厳しくなる。
門の近くにいた村人たちも、こちらを見ていた。
畑仕事をしていた人たちが手を止め、遠巻きに集まり始めている。
スライムが怯えたように、リーフの足へ体を寄せた。
リーフは、スライムを背中側へ隠した。
「この子は危険ではありません」
「魔物が危険ではないと、どうして言える」
「僕を襲わなかったからです」
「魔物は気まぐれだ。腹が減れば、人を襲う」
男は槍を下げたままだった。
その先端は、リーフではなくスライムへ向けられている。
スライムは、リーフの背後で小さく震えていた。
リーフの心臓が速くなる。
ここで追い払われたら、どうすればいいのか分からない。
森へ戻るしかない。
けれど、森に戻れば、また夜を過ごさなければならない。
次に襲われたら、逃げられるとは限らない。
それでも、スライムを置いていくことはできなかった。
「お願いします」
リーフは深く頭を下げた。
「この子は、僕が責任を持ちます。もし何かあれば、すぐに村の外へ連れていきます」
男が少し驚いたように目を開く。
リーフは、さらに頭を下げた。
「食べ物を買うお金はありません。何か仕事をさせていただけるなら、働きます。薬草も少し採ってきました。必要であれば、お渡しします」
「薬草?」
男の視線が、リーフの布袋へ向いた。
「はい。ヒナユキ草です」
リーフは袋から、布に包んだ薬草を取り出した。
男はすぐに手を伸ばさず、近くにいた村人へ声をかけた。
「エダばあさんを呼んでこい」
村人の1人が走っていった。
しばらくすると、杖をついた小柄な女性が門までやってきた。
白髪を1つにまとめ、背中の曲がった老女だった。
彼女はリーフを見るなり、細い目をさらに細めた。
「この子が薬草を採ったのかい?」
「はい」
「見せてごらん」
リーフは薬草を差し出した。
老女は葉を指先でつまみ、裏返したり、匂いを確かめたりした。
「……ヒナユキ草だね。採り方も悪くない」
リーフはほっと息を吐いた。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、量が少ない。これだけなら、銅貨を2枚というところだね」
銅貨。
リーフはその言葉を聞いて、胸が高鳴った。
お金があれば、食べ物を買える。
もしかしたら、今夜の寝床も見つけられるかもしれない。
「売ります」
「ずいぶん急ぐね」
「食べ物が必要なので」
正直に答えると、老女はリーフをじっと見つめた。
「家の者はどうしたんだい?」
リーフの体が固まった。
「……いません」
「森で1人だったのかい?」
「はい」
村人たちの間から、ざわめきが起こる。
10歳ほどの子供が、森で1人。
しかも、礼儀正しい言葉遣いで、汚れた服を着ている。
不自然に見えるのは当然だった。
老女は、リーフの外套や服をじっと見た。
泥で汚れているが、布地はしっかりしている。
縫い目も丁寧で、庶民が普段着にするものとは違った。
「どこから来たんだい?」
「……遠い場所です」
「遠い場所って、どこだね」
リーフは答えられなかった。
男爵家の名前を出してはいけない。
家名を使ってはいけない。
父に言われた言葉が、頭の中で繰り返される。
「話したくないなら、無理には聞かないよ」
老女はそれ以上追及しなかった。
代わりに、スライムへ視線を向ける。
「その子は、本当に怪我をしていたのかい?」
「はい。体がえぐれていて、動けないくらい弱っていました」
「それを、この子が治したのかね?」
老女の視線が、リーフの手へ移った。
リーフは昨日の傷を見た。
傷口は、もうほとんど分からない。
「たぶん……」
リーフが答えると、老女はスライムの前にしゃがみ込んだ。
「少し、触れてもいいかい?」
スライムが、リーフの背後へ隠れる。
リーフは振り返った。
「大丈夫だよ。たぶん、悪い人ではないから」
自分でも、なぜそう言ったのか分からない。
老女に怒られるかもしれない。
槍を持った男に追い出されるかもしれない。
それでも、今までの言葉や表情から、敵意がないことは感じ取れた。
スライムはしばらく揺れていたが、ゆっくりと老女の前へ移動した。
老女が指先で触れる。
その瞬間、スライムの体の中に淡い光が灯った。
「おや……」
老女の顔色が変わった。
彼女は指を引っ込め、自分の手を見つめる。
「古い傷が、少し軽くなった」
「え?」
「このスライム、治癒の力を持っているね」
門の前にいた村人たちが、一斉にざわついた。
リーフはスライムを見つめる。
「治癒の力……」
「珍しい個体だよ。少なくとも、ただのスライムじゃない」
老女は立ち上がり、門番の男を見た。
「槍を下げな。今のところ、この子に人を襲う気はない」
「ですが、魔物は魔物です」
「この子が人を襲えば、そのとき考えればいい。怪我を治せる魔物を、理由もなく追い払うほど、この村は裕福じゃないだろう」
門番の男は、しばらく迷っていた。
やがて槍の先を上げた。
「村の中で騒ぎを起こすな。魔物が暴れたら、すぐに外へ出てもらう」
「分かりました」
リーフは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
門番の男は、少し困ったように顔を背けた。
「……そんなに畏まらなくてもいい」
「ですが、入れていただいたので」
「お前、本当に子供か?」
近くの村人が、思わず口にした。
リーフは首を傾げる。
「はい。10歳です」
「10歳にしては、妙に言葉遣いが丁寧だな」
「家で、挨拶と礼儀はきちんとするよう教わりました」
「家っていうのは、ずいぶん立派な家みたいだね」
その言葉に、リーフは黙った。
老女が助けるように口を挟む。
「詮索はそのくらいにしておきな。腹を空かせた子供を、門の前で立たせておく気かい?」
門番の男はため息をついた。
「エダばあさんの家で、薬草の整理でも手伝わせたらどうだ」
「そうさせてもらうよ」
老女はリーフを見る。
「私はエダ。この村で薬師をしている。薬草を売るなら、まずうちへ来な」
「ありがとうございます、エダさん」
「さん付けかい」
「はい」
「本当に変わった子だね」
エダは呆れたように言ったが、表情は少し柔らかかった。
リーフは村の中へ足を踏み入れた。
スライムも、その後ろからついてくる。
村人たちの視線は、まだ警戒していた。
けれど、槍を向けられてはいない。
今は、それだけで十分だった。
エダの家は、村の端にある小さな建物だった。
壁には乾燥させた薬草が吊るされ、棚には瓶や布袋が並んでいる。
家の中へ入ると、懐かしい薬草の匂いがした。
「そのスライムは、外で待たせるかい?」
エダが尋ねる。
リーフはスライムを見た。
スライムは、リーフの靴に体を寄せている。
「できれば、一緒にいてもいいでしょうか」
「薬草を荒らさないならね」
「ありがとうございます」
リーフはまた頭を下げた。
エダは苦笑した。
「まずは、その薬草を棚へ並べな。終わったら、固いパンくらいは出してあげるよ」
「はい。よろしくお願いします」
リーフは袖をまくった。
屋敷では、使用人がしていた仕事だ。
自分が手伝うことになるなど、考えたこともなかった。
けれど、今は違う。
自分で働かなければ、食べられない。
リーフは薬草を1枚ずつ確かめ、教えられた通りに並べ始めた。
その隣で、緑色のスライムが静かに揺れている。
森の外での初めての仕事が、始まった。




