治癒
リーフは、森の中をゆっくり歩いていた。
その後ろを、緑色のスライムがついてくる。
ぺた。
ぺた。
湿った音が、静かな森に響いていた。
振り返るたび、スライムは少しだけ体を揺らす。
まるで、ここにいると伝えているようだった。
「本当に、ついてくるんだね」
リーフが声をかけると、スライムはぽよんと跳ねた。
返事のように見えて、リーフは小さく笑った。
昨日まで、森の中で聞こえる音は怖いものばかりだった。
獣の鳴き声。
枝が折れる音。
風に揺れる木々のざわめき。
けれど、今は違う。
後ろから聞こえる小さな音が、なぜか心を落ち着かせてくれた。
それでも、リーフは何度も立ち止まった。
「君は、本当に僕についてきて大丈夫なの?」
スライムは、リーフの足元まで近づいた。
そして、靴の先に体を寄せる。
「森の中には、君を襲う魔物がいるかもしれないよ」
ぺた。
「僕は強くないから、守ってあげられないかもしれない」
ぺた。
「それでも、来るの?」
スライムは、やはり離れなかった。
リーフには、その理由が分からない。
パンを分けたからだろうか。
傷を手当てしたからだろうか。
それとも、単に近くにいた人間がリーフしかいなかっただけかもしれない。
魔物の気持ちは、テイマーであるリーフにもまだ分からなかった。
スキルを授かっただけで、魔物と心が通じるようになるわけではない。
少なくとも、鑑定のときに神官はそう言っていた。
リーフは歩きながら、何度もスライムを観察した。
傷は、もうほとんど見えない。
昨日は体の一部が大きくえぐれていたのに、今では薄い跡が残っているだけだった。
それでも、スライムの動きは遅い。
時々、体を大きく揺らし、立ち止まってしまう。
「疲れた?」
リーフが尋ねると、スライムはその場でぺたんと平たくなった。
「やっぱり疲れているんだね」
リーフは周囲を見回した。
近くに大きな木があり、その根元に乾いた葉が積もっている。
木の根が地面から盛り上がり、雨を避けられる場所もあった。
「少し休もう」
リーフが腰を下ろすと、スライムも隣に移動してきた。
緑色の体が、リーフの靴に触れる。
冷たい。
けれど、不快ではなかった。
リーフは布袋から水筒を取り出した。
水を飲み、残った水を少しだけ手のひらに受ける。
「君も飲む?」
スライムは手のひらの水に近づいた。
体の一部を伸ばし、水に触れる。
すると、水はあっという間にスライムの中へ消えていった。
スライムの体が、少しだけ膨らむ。
「水も飲めるんだね」
リーフは驚いた。
手のひらに残った水滴を見つめる。
水筒の中身は減ったが、スライムが少し元気になったように見える。
リーフは残りの水も、ほんの少しだけ分けた。
「全部はあげられないから、これだけね」
スライムは水を吸収すると、嬉しそうに弾んだ。
リーフは、また笑った。
笑ったのは、屋敷を出てから初めてかもしれない。
そのとき、リーフの右手に痛みが走った。
「痛っ」
見ると、親指の付け根に赤い線が入っていた。
昨日、枝を削ったときについた傷だ。
たいした傷ではなかったので、そのままにしていた。
しかし、歩いているうちに開いてしまったらしい。
傷口から、赤い血がにじんでいた。
リーフは布袋からヒナユキ草を取り出そうとした。
けれど、その前にスライムが動いた。
緑色の体が、リーフの手へ伸びてくる。
「え?」
リーフが手を引くより早く、スライムの一部が傷口に触れた。
ひやりとした感触が広がる。
痛みが消えていく。
血が止まる。
傷口の周りにあった赤みも、少しずつ薄くなっていった。
リーフは、目を見開いた。
「治しているの?」
スライムは答えない。
ただ、傷口に触れたまま、体の中で淡い光を揺らしている。
しばらくすると、傷はほとんど閉じていた。
薄い線が残っているだけで、痛みもない。
リーフは、何度も自分の手を見た。
「治癒能力……?」
以前、父から聞いたことがある。
魔物の中には、特殊な能力を持つものがいる。
火を吹く魔物。
音を消す魔物。
薬草を見つける魔物。
そして、傷を癒やす力を持つ魔物。
数が少なく、とても珍しい存在だ。
「君は、治癒魔法が使えるの?」
スライムは、リーフの手の上で小さく揺れた。
答えは分からない。
けれど、目の前で傷が治ったことだけは確かだった。
リーフはスライムを見つめた。
家族が言っていた。
テイマーが従えられるのは、弱い魔物ばかりだと。
スライムに、戦う力はない。
剣士のように敵を倒すこともできない。
しかし、傷を癒やせるなら。
誰かを助けられるなら。
それは、本当に役立たずなのだろうか。
「君は、すごいね」
リーフがそう言うと、スライムは体全体を大きく揺らした。
「僕の家族は、君みたいな魔物を見ても、弱いって言うのかな」
返事はない。
リーフは自分で問いかけて、自分で苦しくなった。
父は、スライムを見たことがない。
レオンも、まだ知らない。
もし、この力を見せられたら、父は考えを変えてくれるだろうか。
屋敷へ戻してくれるだろうか。
リーフは一瞬だけ、そんなことを考えた。
けれど、すぐに首を振った。
戻れない。
門は閉じられた。
父は、自分で決めた。
何より、自分はもう家族に迷惑をかけたくなかった。
リーフは立ち上がった。
「村へ行こう」
スライムが、足元へ寄ってくる。
「君を連れていくかどうかは、まだ決めていないけど」
ぺた。
「……来るんだね」
リーフは困ったように笑った。
その後、2人は水場から離れ、森の入口へ向かって歩き始めた。
道は分かりやすかった。
昨日、目印をつけた木が見える。
リーフは安心して歩いていたが、昼を過ぎた頃、急に足を止めた。
前方の茂みが揺れている。
風は吹いていない。
葉が、一定の間隔で左右に動いていた。
何かがいる。
リーフは、スライムを後ろへ下げた。
「静かに」
小声で告げる。
スライムは、すぐにリーフの背後へ移動した。
リーフは息を殺し、茂みを見つめる。
やがて、灰色の毛が見えた。
小型の獣。
狼に似ているが、体はそれほど大きくない。
森犬だ。
村の近くに出ることもある魔物で、群れで行動することが多い。
1匹なら、子供でも逃げ切れる場合がある。
しかし、森犬は鋭い牙を持っていた。
リーフは木の枝を握りしめた。
戦えるとは思わない。
それでも、スライムを守るために、前へ出た。
森犬が茂みから姿を現す。
その口元には、昨日の雨で濡れた牙が見えていた。
リーフの足が震える。
逃げなければ。
頭では分かっている。
けれど、背後にはスライムがいる。
リーフが1歩下がると、スライムも一緒に下がった。
森犬が低く唸る。
その瞬間、スライムがリーフの横を通り過ぎた。
「えっ、待って!」
緑色の体が、森犬へ向かって進んでいく。
リーフは慌てて手を伸ばした。
森犬が口を開く。
次の瞬間、スライムの体が淡く光った。
森犬の動きが、急に鈍くなった。
足がもつれ、頭を振る。
まるで、ひどい眠気に襲われたようだった。
スライムは、森犬の前でゆっくりと揺れている。
「今のは……」
リーフが呟く。
森犬は何度か頭を振ったあと、リーフたちに背を向け、茂みの奥へ走り去っていった。
森に、静けさが戻る。
リーフはその場に座り込み、荒い息を吐いた。
「怖かった……」
スライムが、リーフの足元へ戻ってくる。
そして、いつものように靴へ体を寄せた。
「君が、助けてくれたの?」
スライムがぽよんと弾む。
リーフは震える手を伸ばし、スライムの体に触れた。
柔らかく、少し冷たい。
「ありがとう」
スライムは、もう1度だけ揺れた。
リーフは森の奥を見つめた。
このスライムには、傷を治す力だけではない何かがある。
けれど、まだ何も分からない。
自分がテイマーとして、この子と契約できるのかも分からない。
それでも、リーフは思った。
この子を1人にしたくない。
そして、この子にも1人にされたくない。
森の入口へ続く道は、もうすぐそこだった。
リーフは立ち上がり、スライムへ向き直った。
「村へ行こう」
今度は、迷わずに言った。
「君がいてくれるなら、僕も頑張れる気がする」
スライムが、リーフの足元で小さく跳ねる。
ぺた。
ぺた。
森の外へ向かう2人の足音が、少しずつ重なっていった。




