残り半分のパン
朝、リーフは火が消えかけていることに気づいて目を覚ました。
岩陰の中は冷えきっていた。
外套に包まっていても寒く、体の節々が痛い。けれど、昨日の夜よりは少しだけましだった。
火があった。
水も確保できた。
それだけで、昨夜は安心して眠ることができた。
リーフは枯れ枝を火にくべ、赤く残った炭を息で吹いた。
小さな炎が生まれる。
「おはよう」
誰もいない場所へ声をかける。
もちろん、返事はなかった。
それでも、朝の挨拶をしないと落ち着かなかった。
屋敷では、朝起きたら必ず使用人や家族に挨拶をしていた。
挨拶は相手を尊重するためのものだと、母から教えられている。
誰もいない森でも、その習慣は消えなかった。
リーフは水筒の中を確認した。
昨夜、水を煮沸して飲んだおかげで、残りは少なくなっている。
パンは、半分だけ残っていた。
本当なら、今日と明日のために分けて食べるつもりだった。
しかし、村へ行くにはまだ距離がある。
森の入口から村まで、どれくらいかかるのかも分からない。
リーフはパンを手に取り、しばらく見つめた。
硬くなったパン。
屋敷にいた頃なら、食べ残しても誰も気にしなかったものだ。
料理人に頼めば、柔らかいパンを焼き直してくれた。
今は、その半分が今日を生きるための大切な食料だった。
リーフは小さく息を吐き、パンを布で包んだ。
「村へ行く前に、薬草をもう少し探そう」
昨日見つけたヒナユキ草は、数枚しか採れなかった。
採取の仕方も分からないため、売り物になるかどうかは分からない。
それでも、何も持たずに村へ行くよりはいい。
リーフは岩陰を出た。
朝の森は、昨日よりも明るかった。
夜の雨が葉から落ち、細かな水滴が光を弾いている。
遠くでは小鳥の鳴き声が聞こえた。
その声に少しだけ安心しながら、リーフは目印を確認し、昨日の水場へ向かった。
森の中を歩くときは、必ず足元を見る。
動物の気配を感じたら、すぐに立ち止まる。
父に教えられたことを思い出しながら、慎重に進んだ。
水場へ近づいたときだった。
草むらの奥から、かすかな音が聞こえた。
ぺた。
ぺた。
何かが地面を引きずるような音。
リーフは足を止めた。
魔物かもしれない。
そう思ったが、音はひどく弱々しかった。
小さな呻き声のようにも聞こえる。
リーフは周囲を見回した。
木の枝を拾い、いつでも逃げられるようにしてから、音のする方へ少しずつ近づいていく。
草をかき分けた。
そこにいたのは、1匹のスライムだった。
丸い体が、泥の上で小さく震えている。
一般的なスライムは、透明に近い水色をしていると聞いていた。
けれど、そのスライムは淡い緑色をしていた。
朝の光を受けると、体の奥で小さな光が揺れている。
珍しい個体なのかもしれない。
しかし、今のリーフにはそんなことを考える余裕がなかった。
スライムの体には、深い傷がついていた。
体の一部が大きくえぐれている。
その周りには、黒い汚れのようなものが広がっていた。
近くには、折れた枝と大きな爪痕が残っている。
何かに襲われたのだろう。
「大丈夫?」
リーフが声をかけると、スライムの体がかすかに揺れた。
逃げようとしているのかもしれない。
しかし、力が残っていないらしく、少し動いただけで崩れてしまった。
「ごめん。怖がらせるつもりはないよ」
リーフはその場にしゃがみ込んだ。
魔物とは、距離を取って観察するものだと父に教えられている。
不用意に触れれば、襲われるかもしれない。
それでも、このスライムは今にも消えてしまいそうだった。
リーフは布袋からヒナユキ草を取り出した。
傷口に当てれば、血を止める助けになる。
ただ、スライムにも効果があるのかは分からない。
「これを使ってみる?」
もちろん、スライムは答えなかった。
リーフはヒナユキ草を細かく裂き、傷の近くに置いた。
スライムの体がびくりと震える。
逃げるかと思ったが、淡い緑色の体が、草の上にゆっくりと重なった。
ヒナユキ草が、スライムの体の中へ沈んでいく。
リーフは驚いて目を見開いた。
やがて、傷口を覆っていた黒い汚れが少しずつ薄くなった。
えぐれていた部分も、ほんのわずかだが盛り上がっている。
「治ってる……?」
スライムが持つ力なのか。
それとも、ヒナユキ草の効果なのか。
リーフには判断できなかった。
ただ、スライムが少しだけ動けるようになったことは分かる。
体が、さっきよりもはっきりと揺れていた。
「よかった」
リーフは胸を撫で下ろした。
すると、スライムがリーフの方へ体を寄せてきた。
ぺた。
湿った音を立て、リーフの靴に触れる。
敵意は感じなかった。
むしろ、何かを求めているように見える。
「お腹が空いているの?」
スライムが、もう1度揺れた。
リーフは布袋に目を向けた。
残っているパンは半分だけ。
自分が食べなければ、今日は何も口にできない。
村へ着くまで、次の食事がいつになるか分からない。
それでも、目の前で弱っているスライムを見捨てることはできなかった。
リーフはパンを取り出した。
手の中で、半分に割る。
大切な食料が、さらに小さくなった。
「全部は無理だけど……これでよければ」
リーフはパンの半分を、スライムの前へ置いた。
スライムはすぐには動かなかった。
警戒しているのかもしれない。
リーフは少し離れ、地面に座った。
「僕もお腹が空いているから、仲良く半分こにしよう」
スライムの体が、ふるふると揺れた。
やがて、ゆっくりとパンへ近づいていく。
体がパンに触れた瞬間、表面が柔らかく沈んだ。
パンがスライムの体の中へ吸い込まれていく。
少しずつ。
急ぐこともなく。
まるで大切に味わうように。
パンが消えていくたび、スライムの緑色が少しずつ濃くなった。
先ほどまで弱々しかった揺れが、次第に大きくなっていく。
傷口も、さらに小さくなっていた。
リーフはその様子を、黙って見つめていた。
自分の食料を分けたのに、不思議と後悔はなかった。
むしろ、胸の奥が温かくなっていく。
スライムはパンを食べ終えると、リーフの靴元へ戻ってきた。
体をぴたりと寄せる。
「もう少し食べる?」
残ったパンを見せる。
スライムはしばらくパンを見つめ、それからリーフの方へ体を寄せた。
「……いらないの?」
緑色の体が、ゆっくりと左右に揺れる。
リーフには、それが首を振っているように見えた。
魔物の仕草など、分かるはずがない。
それでも、なぜかそう感じた。
「そっか。じゃあ、これは僕が食べるね」
リーフは残ったパンをかじった。
硬くて、ぱさぱさしている。
けれど、いつもより美味しく感じた。
スライムは、リーフがパンを食べ終わるまでそばにいた。
逃げることも、襲うこともない。
ただ、丸い体を小さく揺らしながら、静かに見ている。
「君は、どこから来たの?」
返事はない。
「仲間はいる?」
やはり、答えは返ってこない。
それでもリーフは話しかけた。
屋敷を出てから、初めて誰かと一緒にいる気がした。
相手は魔物だった。
言葉も通じない。
自分が安全だと保証してくれるわけでもない。
それでも、1人ではなかった。
「僕はリーフ」
自分の名前を名乗る。
「リーフ・ヴァルグレン……」
そこまで言って、リーフは口を閉じた。
もう、ヴァルグレンの名を名乗ってはいけない。
「……リーフ。リーフって呼んで」
スライムが、ぽよんと体を揺らした。
それが返事のように思えて、リーフは少し笑った。
しばらくして、スライムの傷がほとんど見えなくなった。
それでも、まだ動きは遅い。
リーフは森の中へ戻ることにした。
村へ行くためには、もっと体力をつけなければならない。
このスライムを置いていくべきか迷った。
森には、まだ危険な魔物がいる。
弱ったスライムが1匹でいれば、また襲われるかもしれない。
「ねえ、君はここに置いていっても大丈夫?」
スライムは答えない。
リーフが歩き出すと、しばらくして後ろからぺたぺたと音が聞こえた。
振り返る。
緑色のスライムが、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。
「ついてくるの?」
スライムはリーフの足元で止まり、体を揺らした。
リーフは困ったように笑った。
「僕は、まだ君をテイムしたわけじゃないよ」
もちろん、スライムにその言葉が理解できるはずはない。
それでも、リーフは伝えたかった。
「でも、ここに置いていくのは心配だから……今日だけ、一緒に来る?」
緑色の体が、嬉しそうに弾んだ。
リーフはもう1度、ゆっくりと歩き出した。
後ろから、小さな音がついてくる。
ぺた。
ぺた。




