門の外
朝は、思っていたより早く訪れた。
リーフはほとんど眠れなかった。
ベッドに横になっても、目を閉じるたびに父の声が蘇る。
『明日の朝、屋敷を出ろ』
何度思い返しても、その意味は変わらなかった。
父は冗談を言っていない。
怒りに任せて口にしただけでもない。
リーフは、本当にこの家を出るのだ。
部屋の隅には、昨夜渡された布袋が置かれている。
中身は古い外套、着替えの服、硬くなったパンが2つ、水筒。それから、使い込まれた小さな布が1枚だけだった。
剣はない。
お金もない。
家名を証明するものも持っていけない。
リーフが持ち出せるのは、この袋に入るものだけだった。
窓から差し込む空が、少しずつ明るくなっていく。
リーフはベッドから降り、部屋の中を見回した。
壁には、幼い頃に母が描いてくれた絵が飾られている。
少し歪んだ家の絵。
その隣には、レオンと一緒に作った木の馬が置かれていた。
子供の頃、2人で庭の木の枝を拾い、使用人に削ってもらったものだ。
片方の足が短く、立たせると少し傾いてしまう。
それでも、リーフはその木馬が好きだった。
持っていきたいと思った。
けれど、布袋に入れる余裕はない。
リーフは木馬を手に取り、しばらく眺めたあと、元の場所へ戻した。
「……行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、頭を下げる。
それから、布袋を背負った。
廊下に出ると、いつもなら使用人たちの声が聞こえてくる時間だった。
しかし、今日は誰もいなかった。
わざと姿を見せないようにしているのかもしれない。
リーフは足音を立てないように歩いた。
食堂の前を通り過ぎる。
扉の向こうには、家族が朝食を取っているかもしれない。
父も、母も、レオンも。
リーフは扉の前で立ち止まった。
別れの挨拶をしなければならない。
貴族の家の子供として、それは当然のことだった。
リーフは深く息を吸い、扉を開けた。
食堂には、母とレオンがいた。
父の姿はない。
母は席に座ったまま、両手を膝の上で固く握っていた。
レオンは食事に手をつけておらず、リーフの姿を見るなり椅子から立ち上がった。
「リーフ……」
「おはようございます、母上。兄上」
リーフは、いつものように頭を下げた。
母の唇が震えた。
「おはよう、リーフ」
その声は、ひどくか細かった。
レオンは駆け寄り、リーフの肩をつかむ。
「本当に行くのか?」
「うん」
「父上に、もう1度話そう。僕からも頼むから」
「父上が決めたことです」
「でも、リーフは何も悪いことをしていない」
レオンの目に、涙が浮かんでいた。
リーフは胸が苦しくなった。
自分が泣けば、レオンはもっと悲しむ。
だから、笑わなければならない。
「兄上は、剣士スキルを授かったんです。これから、父上の期待に応えないといけません」
「そんなの、リーフがいなくてもできる」
「僕がいると、兄上の邪魔になるかもしれません」
「ならない!」
レオンが叫んだ。
食堂の壁に声が跳ね返る。
リーフは驚いて目を見開いた。
「僕は、リーフと一緒にいたいんだ。ずっと一緒だったじゃないか」
「兄上……」
「双子なのに、片方だけ追い出されるなんておかしいよ」
リーフは答えられなかった。
おかしいと思う。
どうして自分だけなのかと思う。
けれど、父が決めた。
男爵家の当主であり、領地と家族の責任を背負う父が決めたことだ。
その決定に逆らえるほど、リーフは強くなかった。
「レオン」
母が静かに呼んだ。
レオンは振り向かない。
母は立ち上がり、リーフの前まで歩いてきた。
昨日までなら、抱きしめてくれたかもしれない。
熱を出したときには額に手を当て、眠るまでそばにいてくれた。
けれど、今日は手を伸ばさなかった。
ただ、細い指でリーフの襟元を整える。
「外は寒いわ。外套のボタンをきちんと留めて」
「はい」
「食事は、食べられるときに食べなさい。知らない人について行ってはいけません。夜は、できるだけ明るい場所にいなさい」
「はい」
「困ったことがあったら……」
母の言葉が途切れた。
助けを求めなさい、と続けるつもりだったのだろう。
しかし、リーフには助けを求められる場所がない。
母もそれを分かっていた。
「……気をつけて」
「はい」
リーフは深く頭を下げた。
「今まで育ててくださって、ありがとうございました」
母の顔が歪んだ。
それでも、リーフは頭を上げなかった。
貴族の家で育った者は、別れの場で取り乱してはいけない。
それは母から教わった作法だった。
礼を失わず、姿勢を崩さず、相手への感謝を言葉にする。
涙がこぼれそうになっても、顔を伏せたまま耐える。
「リーフ……」
レオンの声が震えた。
リーフは彼の手を握った。
小さい頃から何度も繋いできた手だった。
「兄上も、お元気で」
「兄上って呼ぶなよ」
レオンは泣きながら笑った。
「僕たちは双子だろ」
「でも、兄上は兄上です」
「リーフ……」
もう1度、レオンの手を強く握る。
これ以上ここにいたら、出ていけなくなる。
リーフは手を離し、食堂を出た。
背中から、レオンの声が追いかけてくる。
「リーフ! 絶対に、また会おう!」
リーフは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まってしまう。
廊下を歩き、玄関へ向かう。
広い玄関には、誰もいなかった。
大きな扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。
空は薄曇りで、細かな雨が降り始めている。
門の外には、見慣れた街道が伸びていた。
いつもなら馬車に乗って通る道。
父の隣に座り、領地の村へ向かうときに眺めた道。
今日は自分の足で歩かなければならない。
リーフは屋敷を振り返った。
高い石壁。
尖塔。
朝の光を受けた家紋の旗。
ここで過ごした10年間のすべてが、そこに詰まっている。
楽しかったことも、苦しかったことも。
父に剣を教えてもらった日。
母に礼儀作法を叱られた日。
レオンと庭を走り回った日。
すべてを置いていく。
リーフは家紋の刺繍に触れた。
家名を名乗ることは許されない。
それでも、今まで育てられた事実まで消えるわけではない。
リーフは屋敷へ向かって、深く頭を下げた。
「行ってきます」
返事はなかった。
門番が重い門を開ける。
門の外へ出た瞬間、背後で金属の音がした。
門が閉じられていく。
屋敷と街道を隔てる鉄の門が、ゆっくりと閉じていく。
リーフは最後まで、その場を動かなかった。
やがて門が完全に閉じる。
もう、向こう側へ戻ることはできない。
リーフは布袋を背負い直し、街道を歩き始めた。
行き先は決まっていない。
町へ向かう道は分かる。
けれど、町に着いたところで何をすればいいのかは分からなかった。
宿に泊まるお金はない。
仕事を探すにしても、10歳の子供を雇ってくれる場所があるか分からない。
教会に行けば、もしかしたら助けてもらえるかもしれない。
しかし、そこへ行く道も知らない。
歩くたびに、靴の底から冷たさが伝わってくる。
雨は少しずつ強くなっていた。
外套の布地に水が染み込み、肩が重くなる。
それでも、リーフは歩いた。
屋敷を離れてすぐに戻るわけにはいかない。
戻れば、父に迷惑をかける。
家族の決定を覆そうとすることになる。
だから、歩くしかなかった。
街道の脇に、古い石の道標が立っている。
片方は領都。
もう片方は、森と小さな村へ向かう道を示していた。
領都へ行けば、人が多い。
仕事も見つかるかもしれない。
けれど、貴族の子供だと知られたら困る。
家名を使ってはいけないのだから、身分を明かすこともできない。
リーフは森へ続く道を見つめた。
森の向こうには、確か小さな村がある。
父から聞いたことがあった。
薬草を採り、木材を切り出して暮らす村。
魔物が出ることもあるが、村の近くには比較的安全な場所もあるらしい。
「……まずは、村へ行こう」
声に出すと、少しだけ勇気が出た。
雨の中、リーフは道標の示す方向へ歩き出した。
けれど、森へ近づくほど道は細くなり、やがて人の姿も馬車の音もなくなっていく。
背中の布袋は重い。
お腹も空いてきた。
足には小さな痛みが広がっている。
それでも、リーフは歩いた。
夕方になる頃、森の入口にたどり着いた。
黒い木々が、雨に濡れながら立ち並んでいる。
枝葉の向こうは暗く、奥へ進めば何がいるのか分からない。
リーフは足を止めた。
怖かった。
屋敷を出てから初めて、本当の意味で怖いと思った。
森には魔物がいる。
父が何度もそう教えてくれた。
近づいてはいけない場所。
子供が1人で入る場所ではない。
けれど、街道へ戻ることもできなかった。
雨は、まだ降り続いている。
夜になれば、外で眠ることもできない。
リーフは森の入口にある大きな木の根元を見つけた。
根が地面から盛り上がり、幹の下に少しだけ雨を避けられる空間がある。
そこなら、今夜だけは過ごせそうだった。
リーフは布袋から古い外套を取り出し、根元に敷いた。
硬い地面に腰を下ろす。
パンを1つ取り出したが、すぐには食べられなかった。
食べてしまえば、残りは1つしかない。
いつ次の食事にありつけるのか分からない。
それでも、空腹には勝てなかった。
固いパンを少しずつかじる。
味はほとんどしなかった。
それでも、温かい食事のことを思い出してしまう。
父と母とレオンで囲んだ食卓。
明日から、あの場所には戻れない。
リーフは膝を抱えた。
「僕にも、できることがある……」
誰もいない森へ向かって呟く。
「僕のスキルだって、きっと……」
言葉の続きが見つからなかった。
できることなど、まだ何も分からない。
テイマーとして、どうすればいいのか。
どんな魔物なら契約できるのか。
契約した魔物と、どう暮らせばいいのか。
何も分からない。
ただ、鑑定石の中で揺れていた淡い緑色の光だけが、心の奥に残っている。
リーフは外套を肩にかけ、木の根に背中を預けた。
雨音が、森を満たしている。
遠くで、何かの鳴き声が聞こえた。
リーフは身を強張らせたが、逃げる場所はなかった。
怖い。
寂しい。
帰りたい。
それでも、帰ることはできない。
リーフは震える手で、胸元の家紋を握った。
「……おやすみなさい、父上」
小さな声は、雨に溶けて消えた。
その夜、リーフは初めて、家族のいない場所で眠った。
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