第8話
「始まるわよ」
ミレーヌの一言で、空気が変わった。
さっきまで静かに待っていたカイルが立ち上がる。
「出産区域への立ち入りを制限しろ。残るのは必要な者だけでいい。入口にも伝えろ」
「はい」
「灯りは最低限。大声を出すな。他のラグナも近づけすぎるな」
騎士団員たちがすぐに動き出した。
布。
水。
ミレーヌが使う道具。
必要なものだけが運ばれてくる。
さっきまで隣で一緒に夜を過ごしていたカイルが、一瞬で団長の顔に戻った。
オレはというと。
「……先生」
「何?」
「オレにできることありますか?」
正直、何も分からない。
動物の世話ならしてきた。
怪我をした動物を見たこともある。
でも、
出産。
しかもラグナ。
こんなもの、初めてに決まっている。
「そばにいること」
「え?」
聞き返す。
ミレーヌはミアナから目を離さない。
「この子がアンタをそばに置きたがってる。だったら、そこにいて」
「それだけ?」
「大事なことよ。それに何か必要になったらアタシが言う」
「分かりました」
それならできる。
ミアナの頭へ手を置く。
呼吸が荒い。
身体にも力が入っている。
一度伏せる。
また立つ。
落ち着かない。
「いるよ」
首筋をゆっくり撫でる。
ミアナが鼻先をオレの服へ押しつけた。
「大丈夫」
言葉が通じているとは思っていない。
でも声をかける。
「オレはここにいるから」
大きな耳が、こちらへ向いた。
◇
思っていたより、時間がかかった。
ミアナの呼吸が強くなる。
身体に力が入る。
少し落ち着く。
また苦しそうになる。
その繰り返し。
ミレーヌは時計とミアナを交互に見ながら、何かを確認している。
時々腹部を見る。
出血も確認する。
オレには、それが正常なのか異常なのか分からない。
だからミレーヌの顔を見る。
普段なら、何を言っても一言返してくる人だ。
ドルガが太ればカイルを疑うし。
オレが字を書けなければ、暇だから教えてやると言う。
そんなミレーヌが、今はほとんど喋らない。
真剣な顔でミアナだけを見ている。
この人、
本当にラグナの医者なんだな。
当たり前のことを今さら思った。
「セナ」
「はい」
「少し位置を変えて」
言われた通り動く。
ミアナの鼻がすぐに追ってくる。
「近すぎないか?」
カイルの声がした。
「今は大丈夫そうです」
「匂いだ」
「あ」
オレの匂いは、濃ければ濃いほどいいわけじゃない。
一定以上になると、逆に刺激する可能性がある。
ここまでずっとミアナのそばにいる。
当然、かなり匂いを浴びているはずだ。
「少しでも様子が変わったら離れろ」
「はい」
ミアナを見る。
今はオレがいるほうが落ち着いている。
でも、それがいつ逆になるかは分からない。
自分が必要だからといって、ずっと近くにいればいいわけでもない。
そこは忘れないようにしないと。
◇
外が少しずつ明るくなってきた。
なのに、
「……長くないですか?」
思わず聞いた。
何度も苦しそうに身体へ力を入れている。
でも子供はまだ生まれない。
「まだ待てる」
ミレーヌが答える。
「でも」
「セナ」
少し強い声だった。
口を閉じる。
ミレーヌがオレを見る。
「アンタが不安になると、この子も不安になる」
「……」
「アタシが待てるって言ったら、今は待てる」
ミアナを見る。
大きな瞳がこっちを向いていた。
確かに、
オレが落ち着かない顔をしてどうする。
ミアナのほうがずっと大変なのに。
「……はい」
息を吐く。
肩の力を抜く。
頭を撫でる。
「大丈夫」
ミアナの耳が動く。
「先生が大丈夫って言ってるから」
もう一度、ゆっくり撫でる。
「オレもいる」
大きな頭が、手のひらへ押しつけられた。
焦るな。
何かしなきゃ、なんて思わなくていい。
オレが産ませるんじゃない。
ミアナが産む。
オレは、
そばにいるだけだ。
◇
そして。
その瞬間は、突然来たように感じた。
「セナ、そのまま」
ミレーヌの声。
「はい」
ミアナが大きく息を吐く。
身体が強く震えた。
オレは頭を撫で続ける。
「大丈夫」
もう何回言ったか分からない。
それでも言う。
「ここにいるから」
もう一度。
ミアナの身体に力が入る。
ミレーヌが動く。
オレには何が起きているのか、全部は見えなかった。
ただ、
しばらくして。
「……出た」
小さなものが、そこにいた。
最初に思ったのは。
小さい。
本当に、それだった。
「……ちっさ」
思わず声が漏れる。
いつも見ているラグナは、どれもオレよりずっと大きい。
頭だけでも抱えるような大きさがある。
なのに、
今、そこにいるものは、
小さい。
濡れた毛、
頼りない身体、
脚も細い。
まだ目もまともに開いていない。
神聖な国獣。
国の宝。
そんな言葉が全然似合わない。
ただの、
生まれたばかりの赤ちゃんだった。
「……」
誰も声を上げなかった。
オレも動けない。
ミレーヌが幼獣を見る。
次にミアナを見る。
呼吸。
身体。
出血。
いくつも確認している。
小さな身体が。
動いた。
「……」
もう一度。
今度は少し大きく動く。
そして、
か細い声がした。
「……鳴いた」
自分の声も、やけに小さくなった。
ミレーヌがようやく息を吐く。
「……大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間。
身体から一気に力が抜けた。
「よかった……」
その場に座り込む。
気づかなかった。
オレも息を止めていたらしい。
「お疲れさま」
横からカイルに言われた。
「オレ、何もしてないです」
「ずっとそばにいただろ」
「それだけです」
「それが必要だったんだろ」
「……」
ミアナを見る。
その大きな身体のすぐそばに、小さな命がいる。
オレが何か治したわけじゃない。
子供を取り上げたわけでもない。
ただ撫でていた。
声をかけていた。
それだけ。
でも、
それでよかったらしい。
「……そうですね」
初めて、
素直にそう思えた。
◇
ミアナが幼獣を舐め始めた。
あんなに大きな舌なのに。
触れ方は驚くほど優しい。
「壊れそう」
「壊さないわよ」
ミレーヌが答える。
「母親だもの」
「でも、こんなでかいのに」
「聞かれたら怒るわよ」
ミアナが幼獣の身体を何度も舐める。
幼獣は母親を探すように小さな身体を動かしている。
オレたちは手を出さない。
ミレーヌも異常がないと分かると、必要以上には触れなかった。
任せる。
そのほうがいいらしい。
少し離れたところから、低い鳴き声が聞こえた。
「他の奴ら?」
「ああ」
カイルが答える。
出産区域の外。
そこには他のラグナたちがいる。
新しい匂いに気づいたのか、何頭かがこちらを気にしているらしい。
でも今は近づけない。
ミアナがどう反応するか分からないからだ。
特に、
「ドルガ、近いな」
少し離れた木の向こうに、大きな顔が見えている。
「お前も気になるよな」
声にかける。
ドルガの耳がこっちを向く。
「でも今は駄目」
不満そうだ。
でも仕方ない。
母親と子供が落ち着くまでは、
待て。
◇
「触らないほうがいいですよね」
少し時間が経ってから、ミレーヌに聞いた。
「今はね」
「ですよね」
すぐに手を引く。
触りたい。
そりゃ触りたい。
あんなに小さくて。
柔らかそうで。
変な声で鳴いている。
でもオレに懐くかもしれないからって、触っていい理由にはならない。
ミアナの子だ。
ミアナが嫌なら触らない。
そのまま少し離れたところで見ていた。
しばらくして。
ミアナが身体の向きを変えた。
幼獣がその動きに押されるように、少しこちらへ転がる。
「……近い」
手を伸ばせば届く。
幼獣の鼻が小さく動いた。
「ん?」
また動く。
こっちを向いた。
「もう分かるのかな」
「何がだ?」
「匂い」
幼獣がもう一度鼻を動かす。
オレのほうへ顔を向けている。
まだ何が何だか分かっていないはずなのに。
「お前も?」
思わず笑う。
ミアナを見る。
嫌がる様子はない。
「先生」
「いいわよ。ほんの少しね」
「はい」
指を伸ばす。
幼獣の身体へ。
本当に少しだけ触れる。
「……」
柔らかい。
成獣とは全然違う。
毛もまだ湿っている。
「……ちっさ」
「そのうちお前より大きくなるぞ」
カイルが言った。
「今のままでいいです」
「無理だな」
「でかいの七頭でも大変なのに」
「今日から八頭だ」
「……そうか」
七頭だった。
昨日までは。
今は、
八頭。
数字が一つ増えただけなのに。
何だか全然違う気がした。
◇
騒ぎが落ち着くころには、すっかり朝になっていた。
ミレーヌは改めてミアナの状態を確認している。
騎士団員たちも、それぞれの仕事へ戻っていった。
オレとカイルは少し離れたところに座って、親子を眺めていた。
「無事でよかったですね」
「ああ」
それだけ。
でも十分だった。
ミアナの腹のそばで、小さな身体が動いている。
「……隊長」
「何だ?」
「怖くなかったんですか?」
カイルが少し黙った。
「正直、怖かった」
「隊長でも?」
「俺を何だと思ってる」
「何でも平気そうな人」
「そんなわけあるか」
少し呆れたように言われる。
「何頭の出産を見ても、何か起きる可能性はある」
「そういうもんですか」
「ああ」
カイルでも怖い。
それを聞いて。
何となく安心した。
仕事ができる。
何か起きてもすぐ動く。
いつも落ち着いている。
でも、
怖くないわけじゃない。
同じなんだな、
そう思った。
◇
幼獣が無事に生まれたことは、すぐに王宮へ報告された。
「そんなことまで報告するんです?」
「ああ」
「一頭生まれましたって?」
「国獣だからな」
カイルが当たり前のように答える。
正式な報告が出たあと、王都でも誕生が告げられたらしい。
遠くから鐘の音が聞こえた。
「……鐘まで鳴らすんです?」
「当然だ」
「この国、ラグナの子供でも国中で祝うんですね」
「『でも』じゃない。ラグナだから祝うんだ」
「そういうものですか」
「ああ」
そういえば。
この国へ来たときも、ヴィオラ王妃の懐妊で町中が飾られていた。
王族の子供。
ラグナの子供。
どっちも国中で祝う。
この国にとって、ラグナがどれだけ大切なのか。
こういうところを見ると少し分かる。
少なくとも、
オレには、
国獣だからじゃなく、
無事に生まれたから、めでたい、
それで十分だけど。
◇
母子が落ち着いたころ。
約束を果たすことにした。
「静かにしてくださいよ」
「分かっている」
今日のルカリオは妙に神妙だった。
護衛を連れて森へ来たものの、いつものようにあれこれ聞くこともない。
足音まで小さくしようとしている。
「こっちです」
少し離れた位置まで案内する。
「ここから先は、ミアナの様子見てから」
「分かった」
素直だ。
前回、見たいと言って即座に断られたのが効いているのかもしれない。
木々の間から。
眠っているミアナが見える。
その腹元。
小さなものが動いた。
ルカリオが固まった。
「……」
「どうしました?」
「……小さい」
「オレも最初そう思いました」
「本当にラグナか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「大きくなれば分かるでしょ」
ルカリオは目を離さない。
普段の、妙にしっかりした王子の顔じゃない。
ただの五歳児だ。
「触っていいか?」
「まだ駄目」
「……」
「母親が嫌がるかもしれないから」
ルカリオの口が少し尖った。
でも、
「分かった」
座って待つ。
ちゃんと約束を守る。
しばらくしてミレーヌが確認し、ミアナも落ち着いていることが分かった。
「先生、ルカリオが触っても?」
「少しならいいわよ」
「よかったですね」
ルカリオの顔が一気に明るくなる。
「どうすればいい?」
「優しく」
「それだけか?」
「急に掴まない。大声出さない。嫌がったらやめる」
「分かった」
ルカリオが恐る恐る手を伸ばす。
さっきまで偉そうに「僕も見る」と言っていた子とは思えない。
指先が震えている。
幼獣の鼻先に指を近づける。
小さな鼻が動いた。
くん。
くん。
指先の匂いを嗅ぐ。
「……!」
ルカリオが息を呑む。
幼獣の舌が、ほんの少し指先へ触れた。
「セナ」
「はい」
「舐めた」
「舐めましたね」
「僕を?」
「他に誰がいるんです?」
ルカリオの顔が。
ぱっと明るくなった。
「もう一度触っていいか?」
「やりすぎない」
「少しだけだ」
「なら」
そっと頭を撫でる。
幼獣も嫌がらない。
「こんなに小さいのか」
「今はね」
「弱い?」
「大人よりは」
ルカリオが幼獣を見る。
少し考えて。
「じゃあ、守らないとな」
「はい」
「僕も守る」
何でもないことみたいに言った。
「小さいからな」
「そうですね」
五歳のルカリオから見ても、小さい。
それが少し面白かった。
◇
しばらくすると、幼獣が身体を動かし始めた。
よた。
よた。
まだ脚に力が入りきらないらしい。
「歩くぞ」
「歩きますよ」
「セナ、見ろ」
「見てます」
一歩。
二歩。
そして、
ころん。
「転んだ!」
ルカリオが本気で焦った。
「赤ちゃんなんだから転ぶでしょ」
「大丈夫なのか?」
「起きてるから大丈夫」
幼獣は何事もなかったように頭を上げる。
また鼻が動いた。
「大事なん?」
こっちを見る。
いや、
匂いを探している。
「まさか」
よた。
よた。
また歩く。
今度はオレのほうへ。
「こっち来る」
ルカリオが言う。
「そうみたいですね」
「なぜだ」
「たぶん匂い」
何度か転びそうになりながら。
それでも幼獣はオレのところまで来た。
小さな身体が足へ触れる。
「お前もか」
指先で軽く撫でる。
幼獣が身体を寄せた。
「……」
ルカリオが無言で見ている。
「何です?」
「僕のところには来ない」
「オレの匂いがあるから」
「ずるい」
「オレに言われても」
「僕にもその匂いを分けろ」
「無理ですよ」
「なぜだ」
「どうやって分けるんです?」
ルカリオが考え込む。
本気だったらしい。
そこへカイルが来た。
「殿下」
「カイル、見ろ」
ルカリオが幼獣を指さした。
なぜか自慢げだ。
「生まれたぞ」
「殿下」
カイルが少しだけ笑う。
「私の方が先に見ております」
「……そうなのか」
「はい」
ルカリオが明らかに悔しそうな顔をした。
「僕は生まれる前から待っていた」
「私たちもです」
「……」
「張り合ってどうするんですか?」
オレが言うと、ルカリオがむっとした。
カイルは笑いを堪えている。
幼獣だけは何も知らず、オレの足元で小さく鳴いた。
◇
夕方。
ミアナの腹に寄り添って、幼獣は眠っていた。
小さな身体が呼吸のたびに上下している。
ルカリオも少し離れたところから、ずっと見ていた。
「殿下。そろそろお戻りを」
護衛に言われる。
「もう少し」
「お時間です」
「……」
嫌そうだ。
でも最後には立ち上がった。
「セナ」
「はい」
「明日も来ていいか?」
「母親が嫌がらなければ」
「分かった」
少し歩いて、
振り返る。
また歩いて、
また振り返る。
「完全に気に入りましたね」
カイルに言う。
「ああ」
「明日も来そう」
「間違いなく来るだろうな」
最後まで振り返りながら、ルカリオは帰っていった。
オレも親子を見る。
昔から動物には好かれてきた。
子犬も。
子猫も。
生まれたばかりの動物を見ることだって、まったくなかったわけじゃない。
でも、
この子は。
生まれる前から知っている。
ミアナの腹が大きくなるところを見て、
食べなくなったのを見て、
夜通しそばにいて、
生まれる瞬間まで見た。
「……元気に育てよ」
小さく呟く。
幼獣は眠ったままだった。
◇
夜。
ミアナも幼獣も落ち着いたのを確認して、ようやく森を出ることになった。
「疲れた……」
「ほとんど寝てないからな」
カイルと並んで歩く。
身体が重い。
眠い。
足元も少しふらつく。
気づけば、肩が触れそうなくらい近いところを歩いていた。
でも、
別に気にならなかった。
「隊長」
「何だ?」
「いい日でしたね」
「ああ」
それだけで、何となく笑った。
「こういう仕事なら」
森の出口が見えてくる。
「ずっとやっててもいいかも」
カイルがこちらを見た。
「……そうか」
「何ですか?」
「いや」
またそれ。
オレは前を見る。
別にこの国にずっと残ると決めたわけじゃない。
人工香が完成したら、オレは必要なくなるかもしれない。
そのときはそのときだ。
ただ、
今日みたいな仕事なら、
悪くない。
そう思っただけだ。
森の奥から、
小さな鳴き声が聞こえた。
思わず振り返る。
昨日まで七頭だったこの森に、
今日から、
八頭いる。




