幕間Ⅱ マリエル王妃
セナ・ロウ。
机の上に置かれた報告書の表紙には、そう記されていた。
私は一枚目をめくる。
十八歳。
平民。
国外の生まれ。
町外れの小さな家で一人暮らし。
身近な家族との強いつながりは確認できず、親しい友人もほとんどいない。
動物の世話を請け負い、その報酬で生活していた。
犯罪歴なし。
問題行動なし。
特定の思想団体や貴族家とのつながりもない。
「……思っていたより、何も持たない子ね」
侮蔑ではない。
本当に、
驚くほど何もないのだ。
家柄。
財産。
後ろ盾。
人脈。
将来を約束された地位。
そのどれも。
私が十八のころなら、喉から手が出るほど欲しかったものばかりだ。
「身分を得ようとした形跡は?」
「ございません」
側近が答える。
「貴族との縁を求めた様子も確認できませんでした」
「高額な報酬の仕事は受けていたのでしょう?」
「はい。ただし生活自体は非常に質素です。装飾品、高価な衣服、酒、賭博などへの浪費もございません」
「では、何のために金を?」
人間に欲がないはずはない。
金そのものを欲しがらない者でも、金で手に入れたい何かはある。
「調べましたところ、一つ」
「何?」
「長期間、購入を目標に貯蓄していた品がございます」
側近が別の紙を差し出す。
「自身の匂いを抑えるための魔道具です」
「……なるほど」
ようやく、
少し人間らしい欲が見えた。
「高価なの?」
「平民が日常的に使用できるものとしては、かなり」
報告書へ視線を戻す。
セナの体質。
人間には強い不快感を与える匂い。
近距離では鼻や目への刺激まで出ることがある。
それゆえ、彼は幼いころから人との距離を取って暮らしてきた。
「それが欲しくて、金を貯めていたのね」
「そのようです」
金ではなく。
人間のそばで、少し楽に生きられるもの。
それが彼の欲しいものだった。
ならば、
高価な魔道具を与える。
そうすれば恩を感じるか。
こちらの言うことを聞くか。
――いいえ。
そんなに単純ではないでしょう。
「現在も、その魔道具を欲しがっているの?」
「以前ほど口にはしていないようです」
「理由は?」
「ラグナの森では、人の多い場所ほど匂いを隠す必要がないためかと」
私は報告書から顔を上げた。
「必要がなくなりつつある?」
「少なくとも、以前ほど切迫してはいないようです」
面白い。
ずっと欲しかったものを買えるようになったのではない。
そのものがなくても困らない場所を手に入れ始めた。
ならば、
以前欲しかったものを与えるだけでは、この子は動かない。
「ルカリオとは?」
私が聞くと、側近が報告を替えた。
「その後も殿下は、護衛を伴って何度か国獣の森を訪れておられます」
「セナに会うため?」
「それもあるかと。ただ、現在は先日誕生した幼獣への関心が非常に強いようです」
思わず口元が緩みそうになる。
あの子は昔からラグナが好きだ。
まして生まれたばかりの幼獣なら、毎日でも見に行きたがるでしょう。
「セナ・ロウとの関係は?」
「良好です」
「具体的に」
「殿下だからと過度に畏まる様子はなく、危険なことをなされば止めます」
「例えば?」
側近が一瞬、言葉を選んだ。
「雌ラグナの出産が近づいた折、殿下が立ち会いたいと仰せになったそうです」
「ええ」
「セナ・ロウは即座に『駄目です』と」
「……即座に?」
「はい」
さすがに少し驚いた。
「理由は?」
「出産の邪魔になるから、と」
「ルカリオは?」
「『僕は王子だ』と」
私は次の言葉を予想できなかった。
「セナ・ロウは、『出産するラグナには関係ないです』と返したそうです」
「……」
しばらく黙ってしまった。
そんなことを。
ルカリオに言ったの。
「殿下は最終的に納得され、母獣と幼獣が落ち着くまで待たれました」
「怒らなかったのね」
「はい。それどころか、落ち着いたら一番に知らせるというセナ・ロウとの約束を楽しみにしておられたようです」
「約束は?」
「守られました。幼獣が落ち着いたのち、殿下は最初期に面会を許された一人です」
ルカリオへ取り入るつもりなら、
もっと別のやり方がある。
何でも肯定する。
望みを叶える。
自分は味方だと示す。
けれどセナは、
駄目なものは駄目と言う。
それでも、交わした約束は守る。
「噛まれた件については?」
「根に持っている様子はございません」
「ルカリオは?」
「今も傷を気にしておられたようですが、すでに治っていると聞いて安心なさったとのことです」
私は静かに息を吐いた。
ルカリオの周囲には、大勢の人間がいる。
教師。
従者。
護衛。
神官。
貴族。
皆があの子を大切に扱う。
けれどその多くが見ているのは、
王位継承権第一位、
未来の王だ。
セナは違う。
王子という肩書ではなく、
ルカリオ本人を見ている。
五歳なら五歳の子供として叱る。
母親として、
それを悪いことだとは思えなかった。
むしろ、
「……あの子にとって、悪い相手ではなさそうね」
「私もそう判断いたします」
ページをめくる。
「国獣院は?」
「正式な排除申し立てはございません」
「監察に入ったのでしょう」
「はい。ユリウス・エルフォード監察官が」
「結果は?」
「当面の継続勤務に異議なし、と」
今度ははっきり手が止まった。
「あのエルフォードが?」
「はい」
彼の慎重さは知っている。
確証もなく人を認める者ではない。
特に、
国外から突然連れてこられ、資格も正式な教育歴もない平民となれば、最も厳しく見る側の人間だ。
その彼が、
排除しなかった。
「理由は?」
「特殊な匂いだけではなく、国獣の状態を観察する能力も一定以上と判断されたようです。小さな異変を発見し、国獣医官による処置につなげた記録もございます」
匂いだけではない。
仕事もできる。
「読み書きが十分ではないそうね」
「現在は国獣医官ミレーヌ・ハースから学んでいます」
「自分から?」
「飼育記録を残す必要性を理解し、継続しているとのことです」
さらに報告を読み進める。
ラグナを無理に触らない。
嫌がる個体を追わない。
餌の量を守る。
体調の変化を見る。
教えられたことを覚える。
国獣院の監察にも反発するだけではなく、必要性を理解した。
思っていたより、
ずっと使える。
いいえ、
その言い方は正しくないかもしれない。
有用な人間だ。
◇
「護獣騎士団では?」
「馴染み始めております」
報告者の口調が、少しだけ柔らかくなる。
「当初は匂いの問題もあり、距離を置かれていましたが、現在は隊員たちと共に食事を取ることもあるそうです」
「食事を?」
「はい。冗談を言い合う程度には」
「そう」
故郷では、
人との距離を取って生きていた。
親しい相手もほとんどいない。
帰国を強く望む理由もない。
それなら、
こちらに留めること自体は難しくない。
そう考えることもできる。
けれど、
今、新しいつながりを作り始めている。
放っておけば、
この子がこの国で根を張る先は、
王宮ではない。
ラグナの森。
護獣騎士団。
そして、
「カイル・ヴァレンとは?」
「セナ・ロウを発見し、招聘を決めた人物です。現在も直属の責任者として行動を共にする機会が多くあります」
「関係は?」
「信頼しているように見受けられます」
「セナが?」
「はい」
「カイルのほうは?」
「飼育官として高く評価しているのは間違いありません」
そこまで、
報告者も余計な推測はしない。
「随分親しいようね」
「日常的に同じ現場におりますので」
「そう」
カイル・ヴァレン。
護獣騎士団長。
家柄も能力も申し分ない。
ルカリオへの忠誠にも疑うところはない。
敵視する理由などない。
むしろセナが信頼できる人間を得たことは好ましい。
ただ、
問題はそこではない。
人間は、
自分のいる場所を、理屈だけでは決めない。
仕事。
習慣。
人。
そういう小さなものが積み重なって、初めてそこへ根を張る。
今のセナにとって、
ラグナがまず一つ。
次に護獣騎士団、
ミレーヌ、
そして、カイル。
そこへ、
ルカリオとのつながりも確実に残しておかなければならない。
◇
「ヴィオラ王妃殿下のお身体も、極めて順調とのことです」
別の報告へ話が移る。
私は机の上に置かれた紙を見る。
出産予定日は近い。
「そう」
「医官からも、現時点で大きな懸念はないと」
「何よりです」
答えながら、
頭の中では別のことを考えている。
ヴィオラ。
名門の生まれ。
家柄。
財力。
政治的な後ろ盾。
彼女には、生まれたときから私が持っていなかったものがある。
さらに、
実家には、国獣の血が比較的濃く現れる者も多い。
生まれる子供がどうなるか。
それだけは誰にも分からない。
王族の子は、誕生後に血統を調べられる。
男か女かは関係ない。
王家に受け継がれた国獣の血。
その濃さが、王位継承順位を大きく左右する。
ルカリオが現在、継承権第一位なのは、
生まれた順番ではない。
あの子が、現世代の王族の中でも極めて濃い血を持って生まれたからだ。
それによって、
側妃だった私は第一王妃となった。
立場も、
見る景色も、
周囲の態度も、
すべて変わった。
もし、
ヴィオラの子が、ルカリオより薄ければ、
何も変わらないかもしれない。
同じほどなら、
争いになる。
そして、
上回れば、
ルカリオの立場は変わる。
一度落ちた者が、
どのように扱われるのか、
私は知っている。
だから、
何もせずに待つという選択肢はない。
◇
もう一度。
セナ・ロウの報告書へ目を落とす。
国獣を安定させる。
ルカリオの国獣の血にも作用する。
暴走しかけたルカリオを傷つけず落ち着かせた。
そして今では、
あの子自身がセナを好いている。
もし、
ヴィオラの子の誕生によって、ルカリオの環境が変われば、
あの子の心も揺れるでしょう。
血が濃いからこそ、
その揺れが力に影響する可能性だってある。
そのとき、
そばにいてほしい人間。
セナはもう、
ただの興味深い平民ではない。
「現在、彼は王国の雇用下にあるのね」
「はい」
「契約期間は?」
側近が答える。
私は聞きながら考える。
雇用、
それでは弱い。
契約なら辞められる。
国へ帰ることもできる。
国獣院の判断で配置が変わる可能性もある。
本人が別の仕事を望めば、そこへ移ることも。
「殿下付きにいたしましょうか」
側近が提案した。
「ルカリオ殿下専属の飼育官、あるいは近侍に準じた立場を与えれば」
「いいえ」
すぐに却下する。
「なぜでしょう」
「その子は、それを望むの?」
「地位が上がることになります」
「それは答えになっていないわ」
報告書を指先で押さえる。
「この子は地位を欲しがっていない」
専属にする。
王宮へ置く。
給金を上げる。
それだけで喜ぶ種類の人間ではない。
「何より、ラグナから引き離せば反発するでしょうね」
「では、命令で」
「力ずくで囲えば逃げるでしょうね」
命令すれば、人は動く。
でも、
動かしたい方向と、心まで同じ方向へ向くとは限らない。
人を長く手元に置くなら、
本人がそこにいたいと思う形を作るほうがいい。
セナが欲しがるもの。
金ではない。
地位でもない。
ラグナ。
森での仕事。
今でき始めている人間関係。
そして、
ルカリオ。
その全部を壊さずに、
ルカリオとの結びつきだけを、今より強くする。
「……」
方法はいくつかある。
けれど、
まだ決める必要はない。
まず、
状況を見極める。
◇
側近が退出したあと。
机の上には二つの報告書が残った。
一つ、
ヴィオラ王妃の出産が近づいているというもの。
もう一つ、
セナ・ロウ。
その横には、今朝届いたばかりの報告もある。
王都の森にて、
ラグナの幼獣一頭、無事誕生。
私はその文字へ視線を落とした。
「……よかった」
それだけは、
政治とは関係なく思う。
ルカリオも、さぞ喜んでいるでしょう。
昨日から何度も、
生まれたら一番に知らせろと言っていたという。
きっと今日も森から離れたがらなかったに違いない。
少しだけ笑ってから、
もう一度、
ヴィオラの報告へ視線を戻す。
生まれてくる子が、
どれほどの血を持つかは分からない。
誰にも、
まだ、
分からない。
けれど、
分からないからといって、
何もせず待つつもりはない。
私は隣に置かれたもう一冊の報告書を見る。
表紙に書かれた名前、
セナ・ロウ。
ラグナのそばにいて、
護獣騎士団に馴染み、
カイル・ヴァレンを信頼し、
そして、
ルカリオが心を許し始めている少年。
この子を、
ルカリオのそばから失うわけにはいかない。




