第7話
「……食べない」
朝の餌を前に、ミアナは伏せたままだった。
ドルガはいつも通り、自分の桶に顔を突っ込んでいる。
ルウも食べている。
他のラグナにも特に変わったところはない。
でも、ミアナだけが違う。
昨日までは量が少し減っていても、ちゃんと口をつけていた。
今日は鼻先を近づけるだけで、食べようとしない。
「ミアナ」
少し離れたところから呼ぶ。
耳が動いた。
反応はある。
立ち上がる。
数歩歩く。
また伏せる。
しばらくすると起き上がり、今度は寝床の周りの草を前脚で掻き始めた。
「体調悪いっていうより……落ち着かない感じですね」
近くにいた騎士団員が頷く。
「ミレーヌを呼ぶか?」
「お願いします」
ただ、何となく、
病気とは違う気がする。
呼吸は少し速い。
腹は大きい。
歩き方そのものがおかしいわけじゃない。
でも、一つの場所に落ち着かない。
寝床へ行って。
戻って。
また草を掻く。
「もしかして」
腹を見る。
「そろそろ?」
ほどなくミレーヌが来た。
「朝から食べてない?」
「はい。水は少し飲みました」
「排泄は?」
「朝、確認しました。変なところはなかったです」
「分かった」
ミレーヌがミアナへ近づく。
オレも少し後ろからついていった。
ミアナがこちらを見る。
鼻を動かす。
「オレ、ここにいます」
声をかけると、身体から少し力が抜けたように見えた。
ミレーヌがすぐに触ることはしない。
目。
耳。
尾。
呼吸。
身体の緊張を確かめている。
「今なら大丈夫そうです」
「そう?」
「たぶん」
オレがミアナの首筋を撫でる。
完全に力が抜けたのを見て、ミレーヌが腹部へ手を伸ばした。
ゆっくり。
嫌がらないことを確かめながら診ていく。
しばらくして。
「……近いわね」
「今日?」
「そこまで正確には分からないわよ」
ミレーヌが立ち上がる。
「でも、いつ始まってもおかしくない」
その言葉で、周りにいた騎士団員たちの空気が少し変わった。
いよいよ、
生まれるらしい。
◇
ラグナの出産場所は、人間が決めるわけではない。
森の何か所かに、騎士団が候補になる場所を整えていた。
雨風を避けられる。
人の出入りが少ない。
他のラグナから少し離れられる。
でも、何かあればミレーヌたちが近づける。
「ここで産ませるんです?」
候補の一つを見ながら聞く。
「産ませる、というより、選択肢を作っている」
カイルが答える。
「ミアナがここを選ぶとは限らない」
「ですよね」
いくら人間がいい場所だと思っても、本人が嫌なら意味がない。
「だから候補を複数作ってある」
「結構ちゃんとしてるんですね」
「結構とは何だ」
「いや」
口に出してから失礼だった気がした。
でも、この人たちは本当にラグナを大事にしている。
国獣だから、というだけじゃない。
どこで休むか。
何を食べるか。
体調はどうか。
出産のときに何を嫌がるか。
そこまで考えて準備している。
カイルが隊員たちへ次々に指示を出していく。
「この周辺への不要な立ち入りは禁止。夜間は交代で二人ずつ残れ。ミレーヌの器具もすぐ運べるようにしておけ」
「はい」
「他のラグナも放置するな。ミアナに気を取られて七頭全体の確認を忘れるなよ」
返事が重なる。
こういうときのカイルは迷わない。
普段ドルガにこっそり餌をやっている人と同じとは思えない。
……いや、
同じ人なんだけど。
◇
午後になる前、ミアナが森の奥へ移動した。
何度も立ち止まりながら進み、一か所の木陰で前脚を動かし始める。
草。
落ち葉。
細い枝。
邪魔なものをどけるように掻き、地面を整えている。
「ここにするのかな」
近づかずに見ている。
ミアナが振り返った。
オレを見る。
また地面を掻く。
少しして、もう一度こちらを見る。
「……オレも来いって?」
一歩近づく。
ミアナが伏せた。
離れてみる。
顔が上がる。
「分かりやすいな」
もう一度近づく。
今度は大きな鼻先をオレへ寄せた。
「どうやらアンタにもいてほしいみたいね」
後ろからミレーヌが言う。
「オレ、出産なんてしたことないですよ」
「でしょうね」
「何したらいいんです?」
「産むのはこの子。アンタじゃない」
「それは分かってます」
「そばにいればいいのよ」
ミレーヌがミアナを見る。
「この子が安心して産めるようにする。それで十分」
それなら、
オレにもできる。
出産そのものはミアナの仕事。
それを補助するのが、ミレーヌの仕事。
オレが無理に何かする必要はない。
「分かりました」
ミアナの頭を撫でる。
「そばにいるよ」
喉の奥から低い音が返ってきた。
◇
「今日生まれるのか?」
その日の午後。
護衛を連れて森へやって来たルカリオは、会うなりそう聞いた。
以前のことがあり、オレとルカリオの間には距離を取ることになっている。
今日はオレもいつもより一枚多く着込んでいた。
「分かりません」
「明日?」
「それも分かりません」
「では、いつなら分かる?」
「生まれたら分かります」
ルカリオが不満そうな顔をした。
五歳児に出産予定日を聞かれても困る。
「僕も見る」
「駄目です」
即答した。
後ろの護衛が固まった。
「なぜだ」
「邪魔になるから」
「僕は邪魔しない」
「そう言う子供が一番邪魔します」
「僕は王子だ」
「出産するラグナには関係ないです」
「……」
ルカリオがむっとする。
でも、こればかりは譲れない。
ミアナは今でも神経質になっている。
見知らぬ人間が増えるだけで負担になるかもしれない。
「セナの言う通りです、殿下」
助け舟を出したのはカイルだった。
ルカリオがカイルを見る。
「出産が始まれば、母獣の安全を最優先します」
「……僕より?」
一瞬、カイルが黙った。
でも、すぐ答えた。
「この場では」
言い切った。
護衛たちのほうが緊張した顔をしている。
でもルカリオはしばらく考えたあと。
「……分かった」
しぶしぶ頷いた。
聞き分けはいい。
「ただし、生まれたらすぐ教えろ」
「すぐは無理です」
「なぜだ」
「母親と子供が落ち着いてから」
「では」
ルカリオが少し考える。
「落ち着いたら、一番に僕に教えろ」
「一番?」
「一番だ」
そこまで楽しみなのか。
「分かりました。約束します」
「絶対だぞ」
「はい」
それでようやく満足したらしい。
帰りかけて、
ルカリオが足を止めた。
「セナ」
「何です?」
視線がオレの腕へ落ちる。
「腕は?」
一瞬、何のことか分からなかった。
自分の腕を見る。
前に噛まれたところだ。
「もう平気です」
「本当に?」
「本当に」
傷はほとんど塞がっている。
ルカリオの顔から少し力が抜けた。
「そうか」
「まだ気にしてたんです?」
「僕が怪我をさせたから当然だ」
そう言って今度こそ帰っていく。
小さな背中を見送った。
ちゃんと気にしてたんだな。
王位継承権第一位とか、
威圧とか、
そういうのはよく分からない。
でも、中身は普通に五歳の子供なのかもしれない。
◇
午後が過ぎても、出産は始まらなかった。
ミアナはほとんど食べない。
寝床を直す。
伏せる。
立つ。
また伏せる。
オレがそばにいると少し落ち着く。
でも、立ち上がろうとすると。
ミアナは顔を上げる。
「……まだ駄目?」
座り直す。
するとまた伏せた。
夕方になったころ、カイルがやって来た。
「セナ。少し食べてこい」
「でも」
「始まったら呼ぶ」
確かに腹は減っている。
ずっとここに座っていた。
「じゃあ少しだけ――」
立ち上がる。
ミアナも起き上がろうとした。
「……」
座る。
ミアナも伏せる。
「……駄目そうですね」
「そうだな」
カイルがため息をついた。
「待ってろ」
「?」
しばらくして戻ってきたカイルの手には、食事があった。
「ほら」
「わざわざ隊長が?」
「ついでだ」
何のついでなんだろう。
受け取る。
パン。
野菜。
豆。
チーズ。
「肉入ってない」
「食べないんだろ」
顔を上げた。
「覚えてたんですか?」
「部下の食べるものくらいはな」
「……そうですか」
それだけ。
本当にそれだけのことなのに、
何となく、返事が少し遅れた。
カイルはもうミアナの様子を見ている。
気にしたのはオレだけらしい。
考えるほどのことでもない。
そう思って、パンをかじった。
◇
日が傾く。
森の中が少しずつ暗くなっていった。
ミレーヌは夜に備えて器具を確認しに行った。
騎士団員も最低限の人数だけ残し、少し離れた場所で待機している。
気づけば、ミアナのそばにはオレとカイルだけになっていた。
ミアナは眠ったり、急に起きたりしている。
オレも近くに座ったまま。
カイルは少し離れた木の根元に腰を下ろしていた。
しばらくどちらも喋らなかった。
でも別に気まずくない。
「隊長って」
「ん?」
「ずっとラグナの仕事してるんですか?」
何となく聞いた。
カイル自身のことを聞くのは初めてかもしれない。
「長いな」
「貴族なのに?」
「貴族でも仕事はする」
「そういう意味じゃなくて」
もっと王宮に近いところで働くとか、
偉そうな机に座るとか、
そういう仕事もありそうなのに。
「何で護獣騎士団に?」
カイルは少し考えた。
「昔からラグナを見る機会が多かった」
「好きだったってこと?」
「ああ」
答えは早かった。
「守る価値があると思った。それだけだ」
「国獣だから?」
「それもある」
カイルは眠っているミアナへ視線を向けた。
「だが、国獣である前に生き物だ。自分たちで助けを求められるわけでもない。人が管理すると決めた以上、最後まで責任を持つべきだろう」
「……」
「俺はこの仕事を誇りに思っている」
さらっと言った。
格好つけている感じもない。
本当にそう思っているんだろう。
優しい。
仕事ができる。
少し変。
ドルガには甘い。
今までのカイルは、そんな感じだった。
そこに一つ加わる。
自分で選んだ仕事を、本当に大事にしている人。
何となく、
こういうところは、いいなと思った。
「セナはどうだ」
「何が?」
「ここへ来て」
今度はこっちに聞いてきた。
「……悪くないです」
「そうか」
「ラグナいるし。仕事もあるし。ミレーヌには字教えてもらってるし」
少し考える。
「騎士団の人たちも、思ったより普通だし」
「思ったより?」
「もっと貴族とか騎士って面倒なのかと思ってました」
「俺も貴族だが」
「隊長は変だから」
「……そうか」
少し複雑そうな顔をされた。
「褒めてますよ」
「そうは聞こえなかった」
笑う。
また少し沈黙。
そのあと、カイルが聞いた。
「故郷へ帰りたいとは思わないのか?」
「別に」
「寂しくないのか?」
少し考える。
でも答えは同じだ。
「向こうに帰って会いたい人もいないし」
重い話をしているつもりはない。
ただの事実だ。
「どこにいても、そんなに変わらないですよ」
カイルが何か言いかけた。
でも言わなかった。
「そうか」
それだけだった。
否定もしない。
可哀想だとも言わない。
少ししてから、
「ここが悪くないならよかった」
静かに言った。
「……」
何だろう。
胸の奥に、少しだけ引っかかった。
嫌な感じじゃない。
でも理由が分からない。
そのときミアナが起き上がった。
こちらへゆっくり近づき、大きな頭をオレの肩へ寄せてくる。
「どうした?」
撫でる。
喉が低く鳴った。
「隊長には寄らないんですね」
「……昔から世話しているんだがな」
少し不満そうだ。
「匂いの差じゃないです?」
「分かっている」
「拗ねてます?」
「拗ねてない」
笑ってしまった。
やっぱり、
こういうところも少し面白い。
◇
日が完全に落ちたころ、ミレーヌがもう一度ミアナを診た。
触れる前に、オレが様子を見る。
「今、大丈夫です」
「分かった」
ミレーヌが慎重に確認する。
しばらくして顔を上げた。
「今夜かもしれないわね」
周囲の空気が変わった。
灯りが用意される。
布。
水。
医療器具。
でも必要以上のものは近づけない。
人も増やさない。
カイルが低い声で指示を出し、夜間の体制が組まれていく。
オレはそのままミアナのそばに残った。
「少し横になれ」
カイルが言う。
「始まったら?」
「起こす」
「この子がオレいないと起きるんですけど」
ミアナを見る。
試しに少し身体を離すと、すぐ顔が上がった。
「ほら」
「……なら俺もここにいる」
「隊長まで?」
「責任者だからな」
「寝なくて平気なんです?」
「お前に言われたくない」
それもそうか。
結局、その場で夜を越すことになった。
静かな森。
虫の声。
時々聞こえるラグナの低い鳴き声。
ミアナの身体に背中を預ける。
大きくて温かい。
少し離れたところにはカイルがいる。
話さない。
それでも気まずくない。
誰かと黙っているのが、こんなに楽なのは初めてかもしれない。
いつの間にか眠気が強くなっていた。
身体が傾く。
「セナ」
「……ん」
「寝るならこっちへ寄れ。倒れるぞ」
半分眠ったまま、言われたほうへ少し身体をずらす。
カイルとの距離が近くなる。
でも下がろうとは思わなかった。
そのことにも気づかないまま、目を閉じた。
◇
どれくらい眠ったのか分からない。
ふいに目が覚めた。
「……?」
何かが違う。
ミアナの呼吸、
さっきより速い。
身体にも力が入っている。
一度伏せたかと思えば、すぐに起き上がろうとする。
「ミアナ?」
大きな頭がオレへ寄ってきた。
鼻先が服に押しつけられる。
「……ミレーヌ」
声を出す。
カイルもすぐに起きた。
「どうした?」
「呼吸が変です」
ミレーヌが駆け寄ってくる。
ミアナの様子を見る。
腹部。
呼吸。
身体の力。
さっきまでとは明らかに違う。
ミレーヌの表情が変わった。
「始まるわよ」
眠気が全部飛んだ。
ミアナがまた鼻先を寄せてくる。
オレはその大きな頭をゆっくり撫でた。
「大丈夫」
耳の後ろを撫でる。
「ここにいるから」
ミアナがオレの匂いを確かめるように、深く息を吸った。




