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第5話

 ルカリオに噛まれてから数日。


 腕にはまだ包帯が巻かれている。


 とはいえ、仕事ができないほどじゃない。


「そこは駄目」


 鼻先を押し返す。


 ルウが包帯の巻かれた腕をしつこく嗅ごうとしていた。


 血の匂いでも残っているのかもしれない。


「傷なんだから触るなって」


 ぐり、と鼻先を押しつけられる。


「聞いてないな、お前」


 反対側からも何かが寄ってきた。


 ドルガだ。


「お前まで?」


 ところがドルガが嗅いでいるのは傷じゃなかった。


 オレの服のポケットへ鼻を押しつけてくる。


「何も入ってないって」


 昨日、隊員の一人がここに餌を入れていたのを見たせいだろう。


 大きな鼻が何度もポケットを探る。


「だからない」


「朝から人気者だな」


 後ろから声がして振り返る。


 騎士団員が二人、面白そうにこちらを見ていた。


「代わってくださいよ」


「遠慮する」


「じゃあ笑わないでください」


「国獣だけじゃなく殿下にまで噛まれるとはな」


「笑い事じゃないですよ。普通に痛かったんですから」


 包帯を見せる。


 もう一人が吹き出した。


「殿下に噛まれた平民なんて、お前くらいだろ」


「名誉でも何でもない」


「王位継承権第一位だぞ?」


「噛まれた相手の身分が高かったら、傷が早く治るんですか?」


「治らんな」


「じゃあ同じです」


 最近、こういうやり取りが増えた。


 最初のころは、騎士団員たちもオレを遠巻きに見ていた。


 外国から突然連れてこられた。


 妙な匂いがする。


 そのうえ、国獣が異常なほど懐く。


 警戒されても仕方ないと思う。


 今も距離がなくなったわけじゃない。


「そういや昨日の――」


 話していた一人が、何か思い出したように近づいてきた。


 二歩。


 三歩。


 そこで顔をしかめる。


「……やっぱまだ近いときついな」


 鼻を押さえた。


「だから離れてればいいって」


「話してると忘れるんだよ」


「忘れるくらい離れとけばいいでしょ」


「お前、もう少し傷ついた顔とかしないのか?」


「何で?」


 本当に分からない。


 臭うものは臭う。


 近ければきつい。


 なら離れればいい。


 それで話せなくなるわけでもない。


「ほら。仕事しますよ」


「お前が仕切るな」


 そう言いながら、二人もついてくる。


 前よりは仕事がしやすくなった。


 たぶん、それで十分だ。



 ◇



 昼になると、騎士団員たちが休憩に入った。


 オレも持ってきた食事を手に取る。


 パン。


 茹でた野菜。


 豆と芋。


 それから果物。


 いつものように少し離れた場所へ行こうとすると、声をかけられた。


「セナ、どこ行くんだ?」


「食べに」


「見れば分かる。何で向こう行くんだよ」


「いや、臭うだろ」


 当たり前のことを言ったつもりだった。


 ところが隊員は、食事をしている場所を見回したあと、空いている端の席を指した。


「じゃあ風下に座れ」


「……それでいいんです?」


「何が?」


「何がって」


「離れすぎなきゃ普通に話せるし、風向きだけ気をつければいいだろ」


 ずいぶん実用的な答えだ。


「ほら。座れよ」


「……じゃあ」


 言われた場所へ腰を下ろす。


 端ではある。


 でも同じ場所だ。


 何となく落ち着かない。


 別に一人で食べるのが嫌だったわけじゃない。


 ずっとそうしてきたから、それが普通だっただけだ。


「それ、何食ってるんだ?」


 向かいの隊員がオレの皿を覗く。


「パンと野菜」


「それは見れば分かる。肉は?」


「ないです」


「魚は?」


「ない」


「卵」


「食べない」


 隊員が眉を寄せた。


「それで腹減らないのか?」


「減りますよ」


「じゃあ肉食えばいいだろ」


「無理です」


「何でだ?」


 オレは森の向こうを見る。


 木陰でルウが横になっている。


 その近くにはミアナ。


「……あいつら寄ってくるから」


「ラグナは食わねえだろ」


「そうじゃなくて」


「じゃあ何だよ」


「自分から寄ってくる動物見てると、肉食う気にならないんです」


 一瞬、沈黙。


「変な奴だな」


「よく言われます」


「でもミルクは飲むんだろ?」


「飲みます」


「基準が分からん」


「オレが分かってればいいでしょ」


 そんな話をしているところへ、カイルが来た。


「何の話だ?」


「セナが肉を食わない理由です」


「そうか」


 カイルはそれ以上追及せず、自分の食事を持って座った。


 その視線が一瞬だけオレのところで止まった気がした。


「何ですか?」


「いや」


 またそれだ。


 でも今日は、カイルが近くに座っても前ほど気にならなかった。


 もちろん、ある程度の距離はある。


 それでも最初に会ったころなら、もう少し離れていた気がする。


 食事をしながらどうでもいい話をする。


 誰かが昨日転びかけたとか、


 ドルガが餌の桶を倒したとか、


 そんな話。


 人と一緒に食べるって、こんな感じだったか、


 あまり覚えていない。


 思っていたより、普通だった。



 ◇



 食後、


 ドルガがまた騎士団員のところへ行っていた。


 巨大な頭をぐりぐり押しつける。


「分かった、分かった!」


 隊員が押し返す。


 ドルガは負けない。


 今度は鼻先を男のポケットへ突っ込もうとする。


「こら!」


 でも隊員の顔はもう負けかけていた。


「一つだけな」


 ポケットへ手を入れる。


 その瞬間。


「何をしている」


 声が落ちた。


 隊員が固まる。


 後ろにカイルが立っていた。


「……何も」


「手に持っているものは何だ」


「……餌です」


「なぜ持っている」


「ドルガが」


「ドルガが何だ」


「欲しそうだったので……」


 カイルがため息をつく。


「餌をやりすぎるな。規定量を守れ」


「はい」


「食欲があるからと好きなだけ与えていたら体調管理にならないだろう」


「はい……」


 しょんぼりする隊員。


 ドルガもしょんぼりしているように見える。


 さすが隊長。


 当たり前だけど、こういうところはきっちりしている。


 オレも気をつけよう。



 ◇



「最近アタシ、暇なのよね」


 午後、


 ラグナの身体を確認しながら、ミレーヌが言った。


「いいことじゃないですか」


「医者が暇なのはいいことよ。でも暇すぎるのもねえ」


「贅沢ですね」


「ほんとよ」


 オレが来てから、ラグナの大きな喧嘩は起きていない。


 自分で身体を木や岩にぶつける個体も減った。


 食欲も全体的に戻っている。


 ミレーヌが治療に追われることは、かなり少なくなったらしい。


「はい」


 確認を終えると、先生から分厚い記録帳を渡された。


「昨日の食事量、ここに書いといて」


「……」


 受け取る。


 開く。


「……」


「セナ?」


「はい」


「書かないの?」


「今から」


 文字を追う。


 読めないわけじゃない。


 簡単なものなら分かる。


 自分の名前も書ける。


 仕事で必要になった言葉も、その都度覚えてきた。


 でもここに並んでいる文章を読んで、同じように書けと言われると話は別だ。


「……読めない?」


 ミレーヌが聞いた。


「全然じゃないです」


「じゃあ?」


「必要な分は覚えてきたんですけど。こういうのはちょっと」


「なるほど」


 恥ずかしいとはあまり思わない。


 必要なかったから覚えなかった。


 今まで、それで生きてこられた。


 ただ、今は必要らしい。


「じゃあ覚えればいいじゃない。教えてあげる」


「う〜ん」


「アタシ今、暇だもの」


「それが理由ですか?」


「半分はね」


 ミレーヌが記録帳をオレから取り上げる。


「もう半分は、あなたが自分で見たものを、自分で記録できたほうがいいから」


「誰かに言えばいいんじゃ?」


「伝言は抜けるわ」


 机の上に紙を置いた。


「セナが見て、セナが書く。それが一番正確でしょう?」


 それはそうだ。


「じゃ、まずこれ」


 ミレーヌが紙に文字を書く。


「食欲」


「食欲」


「次、排泄」


「……難しくないですか?」


「文句言わない」


 隣に真似して書く。


「睡眠。傷。体重。妊娠」


「最初から多い」


「使うものから覚えたほうが早いわよ」


 確かに教本を頭から読むよりは、そのほうがいい。


「名前も書いてみて」


「誰の?」


「ドルガ」


 書く。


 少し歪んだ。


 その横に。


 食欲あり。


「……これ」


「何?」


「ドルガ、毎日これでいいんじゃないですか」


 ミレーヌが笑う。


「食欲だけならね」


 確かに。



 ◇



 過去の記録を使って文字を覚えていると、知らない言葉が出てきた。


「先生」


「何?」


「これ、なんて読むんです?」


 指で示す。


「人工香」


「ああ。隊長が言ってたやつ」


 薬草の香りを人工的に再現したもの。


「これ、効くんですよね?」


「効くわよ」


 ミレーヌははっきり答えた。


「短時間なら、ラグナが落ち着くのも確認されてる」


「じゃあ使えばいいんじゃないですか」


「使えるようになれば便利よ。だから研究してるの」


 ミレーヌは記録を一枚めくる。


「でも長期間使ったときのデータが、まだ足りない」


「危険なんです?」


「分からない」


 即答だった。


「分からない?」


「そう」


「危ないかもしれないってこと?」


「安全かもしれない」


 ミレーヌがオレを見る。


「分からないものを、安全とも危険とも決めつけるのは医者の仕事じゃないわ」


「じゃあどうするんです?」


「だから記録するの」


 ミレーヌが記録帳を指で叩いた。


「食欲、睡眠、便、体温、行動。何でもいいの。一日だけなら何でもない変化でも、十日、二十日、一か月って並べれば見えるものがある」


「……」


「昨日より少し食べない。今日は眠る時間が長い。でも一日だけなら偶然かもしれないでしょう?」


「はい」


「でも同じ変化が人工香を使った日に毎回起きていたら?」


「ああ」


 そこで意味が分かった。


「記録があれば分かる」


「そういうこと」


 ミレーヌが笑う。


 ただ書くだけじゃない。


 後から比べるために残す。


「じゃあ、ちゃんと書けたほうがいいですね」


「そういうこと」


 もう一度、紙を見る。


 食欲。


 排泄。


 睡眠。


 少し真面目に覚えることにした。



 ◇



「……何をしてるんだ?」


 後ろから声がして、手元を隠した。


「見ないでください」


 カイルだった。


「なぜだ?」


「字、下手だから」


「そうなのか?」


「今覚えてるんです」


 カイルが紙を見る。


 隠した意味がない。


「最初から上手い奴はいない」


「隊長って字うまいんですか?」


「普通だ」


「セナ」


 横からミレーヌが口を挟む。


「貴族の『普通』を信用しちゃ駄目よ」


「そうなんですか?」


「子供のころから教師つけて何年も書かされてる人間の普通だから」


 カイルが困ったような顔をした。


「時間は関係ないと思うが」


「ほら。その言い方も貴族」


「先生、貴族嫌いなんですか?」


「別に?」


「なら何で俺だけ言われるんだ」


 カイルが珍しく不満そうだ。


 少し面白い。


 仕事をしているときは何でもできそうに見えるのに。



 ◇



 その日の夕方。


 置き忘れた道具を取りに戻ったときだった。


 少し離れた木の陰に、人影が見えた。


 カイルだ。


 その前にはドルガ。


「?」


 何をしてるんだ。


 声をかけようとして止まった。


 カイルが左右を確認した。


 何だ、あの動き。


 妙に怪しい。


 次の瞬間、


 手に持っていた何かをドルガへ差し出した。


 ぱくり、


 ドルガが食べる。


「……は?」


 昼間の光景が頭に浮かぶ。


 餌をやりすぎるな。


 規定量を守れ。


 そう隊員を叱っていた本人が。


「……何してるんですか?」


 カイルの動きが止まった。


 顔がこちらを向く。


 目が合う。


 沈黙。


「何も」


「今あげましたよね」


「何をだ」


「餌」


「見間違いだ」


「いや、見ましたけど」


「見間違いだ」


 この人、しらばっくれるんだ。


 しかもドルガはもっとくれと言わんばかりにカイルの手を嗅いでいる。


 どう見ても初めてじゃない。


「ドルガ」


 カイルが低い声で呼ぶ。


 ドルガは気にしない。


「証拠残ってますよ」


「何のことだ」


 本当に認めないつもりらしい。


 頼れる隊長。


 厳しいけれど正しい人。


 さっきまでの印象が、少し崩れた。



 ◇



 翌日。


「カイル」


 嫌な響きの声だった。


 ドルガの体重測定を終えたミレーヌが、記録を見ている。


「何だ」


「またやったでしょ」


「何の話だ」


「ドルガが太った」


「……知らんな」


 昨日と同じ顔だ。


 ミレーヌの目が細くなる。


「前回より増えてるのよ」


「食欲が戻ったんだろう」


「規定量なら、ここまで増えないわ」


「運動量が減った可能性もある」


 真顔で言う。


 駄目だ、


 耐えられない。


「昨日見ましたけど」


 カイルがゆっくりオレを見る。


「セナ」


「餌あげてました」


「セナ」


「隊長も人のこと言えないじゃないですか」


「……」


「昼間あんなに格好つけて叱ってたのに」


「格好はつけていない」


「でも自分はやるんだ」


 思わず笑った。


「ははっ」


 カイルが黙る。


 何だ?


 まだ笑いが残ったまま顔を見る。


「……何ですか?」


「いや」


「またそれ?」


 少し間があった。


「そんなふうに笑うんだなと思って」


「オレだって笑いますよ」


 本当に何を言ってるんだ、この人。


「笑ってないで」


 ミレーヌの声が飛んできた。


「二人とも、ドルガに追加で餌は禁止」


「オレはあげてないです!」


「俺も――」


「カイル?」


「……分かった」


 ドルガだけが不満そうな声を出した。


 やっぱりこの国獣、絶対分かってる。



 ◇



 その日の昼。


 食事を持って歩き出してから気づいた。


 昨日と同じ場所に向かっている。


 騎士団員たちが先に座っていた。


「セナ、そこ空いてるぞ」


「はい」


 少しだけ席を詰めてくれる。


 オレはそのまま座った。


 今日は誰にも「ここで食えばいい」と言われていない。


 でも、わざわざ離れようとも思わなかった。


「今日も草ばっかりだな」


「野菜です」


「一緒だろ」


「違います」


 普通に会話が始まる。


 その途中でカイルが来た。


「午後は西側の寝床も確認するぞ」


「分かりました」


 言いながら、カイルがオレのすぐ横まで来る。


 一瞬、


 足が後ろへ動きかけた。


 でもそのまま止まった。


 カイルも何も言わない。


 仕事の話だけして離れていく。


 オレも特に何も言わない。


 ただ、前だったらすぐに一歩下がっていた気がした。



 ◇



 夜、


 机に向かって紙を見る。


 今日の宿題。


 食欲。


 睡眠。


 排泄。


 傷。


 体重。


 ドルガ。


「……ドルガ」


 何度書いても少し曲がる。


 外から声がした。


「だから勝手に持っていくな!」


 騎士団員の声。


 少し離れた場所からラグナの低い鳴き声もする。


 そのあと、今度はカイルの声。


「誰だ、道具を出したままにしたのは!」


「すみません!」


 騒がしい。


 前に住んでいた家では、夜になればほとんど音がしなかった。


 一人で飯を食って。


 一人で寝る。


 それが普通だった。


 今もたぶん、一人のほうが楽だと思う。


 誰かに合わせなくていい。


 距離だって気にしなくていい。


 でも、


 紙にもう一度、文字を書く。


 ドルガ、


 食欲あり。


「……まあ」


 外の声を聞きながら、少しだけ笑う。


「こういうのも悪くないか」


 もう一度、ドルガの名前の横に「食欲」と書いた。


 これ以上太ったら、


 原因はたぶん、隊長だ。




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