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幕間Ⅰ マリエル王妃

 ルカリオがいなくなった。


 その報せが届いたとき、私は執務室にいた。


 ヴィオラ王妃の懐妊に伴い、王宮では祝いの準備が続いている。


 国中に布告はすでに出され、王都のみならず地方でも祝賀が始まっているという。


 目を通さなければならない書類も増えていた。


 そんな中で告げられた、ルカリオ失踪の報。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、身体の奥が冷えた。


 けれど、それを顔に出すことはしなかった。


「どこで見失ったのです」


「王宮北側の庭園にてございます。殿下は護衛の隙をつき――」


「隙をつき、ではありません」


 報告に来た者が口を閉じる。


「五歳の子供一人を見失ったのでしょう」


「……申し訳ございません」


「謝罪はあとで聞きます。今は探しなさい」


 叱責している時間すら惜しい。


 ルカリオは聡い子だ。


 五歳にしては落ち着いている。


 自分が王位継承第一位であり、将来王となることを期待されていることも理解している。


 だからこそ、


 時折、五歳の子供であることを忘れられる。


 周囲も、


 そして、おそらく私も。


「護獣騎士団にも知らせなさい。国獣の森周辺まで範囲を広げて」


「しかし、殿下が森へ向かわれる理由が――」


「理由がないことを、探さない理由にするのですか?」


「い、いいえ」


「では行きなさい」


 人が出ていく。


 扉が閉じる。


 私はそこで初めて、強く握っていた指を開いた。


 掌に爪の跡が残っている。


「……ルカリオ」


 何事もなく戻ってきなさい。


 その言葉だけは、誰もいなくなった部屋でしか口にできなかった。



 ◇



 ルカリオ発見の報が届いたのは、それほど時間が経ってからではなかった。


 無事。


 その二文字を聞いた瞬間、胸の奥にあったものが少しだけほどけた。


 けれど、報告はそれで終わらなかった。


「国獣の森に?」


「はい」


 私の前に立つ側近が頭を下げる。


「殿下は護衛を振り切ったのち、王都北側の国獣保護区域へ入り込まれたものと見られます」


「森の警備は?」


「正規の入口を通った記録はございません。庭園側から森へ至る管理区域の一部を抜けたものと」


「あとで経路をすべて確認させなさい」


「承知いたしました」


 ルカリオが無事なら、それで終わり。


 そう言える立場なら、どれほど楽だったでしょう。


 ルカリオが護衛を振り切った。


 厳重に管理されている国獣の森へ入った。


 その事実だけでも、確認すべきことはいくつもある。


「それで?」


 側近が一瞬だけ言葉を選ぶ。


「森の中で、殿下は一人の少年と接触なさいました」


「少年?」


「はい。現在、護獣騎士団と共に国獣の飼育に従事している者でございます」


 聞き覚えのない話だった。


「そのような者が新しく?」


「数日前、国外から招かれた者と聞いております。特殊な体質を持ち、動物が非常によく懐くと」


 国外から、


 わざわざ、


 護獣騎士団が招いた。


 その時点で、ただの飼育係ではない。


「続けなさい」


「殿下はその者へ接近した際、突然、著しい興奮状態に陥られたとのことです」


 私は視線を上げた。


「興奮?」


「少年の持つ特殊な匂いが原因ではないかと、国獣医官は見ております」


「匂い」


「はい。その匂いには、ラグナを鎮静させる作用がある可能性があると」


 そこで一度、報告が途切れた。


「待ちなさい」


 私は聞き返した。


「今、ラグナを鎮静させると言いましたか?」


「はい」


「どの程度?」


「少年が森へ入って以降、それまで不安定だった複数のラグナが著しく落ち着いているとの報告がございます。少年の周囲で横になり、眠る個体もいると」


 私は机の上へ視線を落とした。


 最近、ラグナが不安定になっていることは知っている。


 鎮静に使用していた薬草が不足していることも。


 王立国獣院から何度も報告を受けている。


 だから国外から人間を連れてきた。


 そういうことなのでしょう。


「では、なぜルカリオは興奮したのです」


「国獣医官によれば、殿下は国獣の血を非常に濃く受け継いでおられます。そのため通常の人間とは違い、ラグナに近い反応を示された可能性があると。ただし――」


「ただし?」


「匂いが強すぎたため、鎮静ではなく、逆に本能を刺激したのではないかとのことです。まだ仮説の段階ではございますが」


 ラグナを落ち着かせる匂い。


 そして、国獣の血が濃いルカリオにも作用した。


 私は黙って続きを待った。


「殿下は少年へ飛びつかれ――その……腕を噛まれました」


「ルカリオが?」


「はい」


 思わず聞き返してしまった。


「少年ではなく、ルカリオが?」


「そのように報告されております」


「怪我は」


「少年の腕に噛み傷が。すでに国獣医官が処置しております。重傷ではございません」


「ルカリオは?」


「お怪我はありません」


 まずそこに安堵する。


 その次に考えたのは、相手の少年のことだった。


「その者は、ルカリオに何を?」


「何を、と申しますと」


「襲われたのでしょう」


 大人でも、突然人に噛みつかれれば反射的に振り払う。


 相手が五歳児なら、なおさら簡単に投げ飛ばせるはずだ。


「殿下を力ずくで引き離すことはせず、落ち着くまで刺激しないよう対処したそうです。布を間に挟んで匂いを弱め、声をかけながら徐々に距離を取ったと」


「誰の指示で?」


「少年自身の判断でございます」


 私は指先で机を一度だけ叩いた。


 特殊な匂いを持っている。


 それだけなら、生まれ持った体質。


 しかし、


 興奮して自分を噛んでいる相手を観察し、力で押さえつけずに落ち着かせた。


 それは体質ではない。


「その後、殿下はすぐに平静を取り戻されました。そして、ご自分から少年へ謝罪を」


 それには驚かなかった。


 ルカリオは、自分が間違ったと理解すれば謝れる子だ。


 そう育ててきたつもりだ。


「ほかには?」


「殿下を捜索していた従者の一人が、現場へ到着した際、少年を犯人と誤認いたしました」


 嫌な予感がする。


「何を言ったのです」


「殿下に何をした、と」


「……そう」


 状況だけ見れば無理もない。


 行方不明だったルカリオ。


 そのそばに見知らぬ平民。


 さらに血。


 護衛としては警戒するでしょう。


 けれど。


「殿下がその従者をお止めになりました」


「ルカリオが?」


「はい」


 側近の声が僅かに変わった。


「『口を慎め』と」


 私は目を細める。


「威圧を使ったのですか?」


「はい」


 五歳のルカリオには、すでに力が発現している。


 威圧。


 国獣の血を濃く受け継いだ者に現れることのある、特殊な力。


 幼いため、感情が大きく動けば制御が揺らぐこともある。


 だから日頃から、むやみに使わぬよう何度も教えている。


「何のために?」


「少年を庇うためです」


 私は返事をしなかった。


「殿下は『この者は僕を助けた』『僕が怪我をさせた』『無礼なのはお前だ』と仰せになったそうです」


 ルカリオが、


 会ったばかりの平民を庇って、


 威圧を使った。


「それだけですか?」


「その後、一度王宮へお戻りになるよう勧められましたが、少年の治療後に改めて謝罪へ出向くと仰せになりまして」


「……もう一度?」


「はい」


「なぜ」


「『怪我をした相手には、きちんと謝るべきだと教わっている』と」


 私はしばらく何も言わなかった。


 思わず笑いそうになったからだ。


 それは確かに、


 私が教えたことだった。


 間違えたなら謝ること。


 身分が下の者だからといって、自分の非までなくなるわけではないこと。


 王になる人間ほど、自分のしたことから目を逸らしてはならないこと。


 覚えていたのですね。


 けれど同時に、


 気になることがある。


「ルカリオは、その少年を怖がってはいないのですね」


「むしろ逆かと」


「逆?」


「少年に強い興味を示されております」


 それは、


 少し珍しい。


 ルカリオは礼儀正しい。


 必要とあれば誰とでも話す。


 けれど、自分から誰かに興味を示すことはそれほど多くない。


 幼いころから周囲には大人ばかり。


 しかも、その大人のほとんどが王位継承第一位としてルカリオを見る。


 五歳の子供として接する者は少ない。


「少年は、ルカリオを知っていたのですか?」


「いいえ。最初は存じ上げなかったようです」


「では、どのように接していたのです」


 側近が僅かに言いにくそうな顔をした。


「……叱ったそうです」


「叱った?」


「無断で森に入るな、と。危険だから、と」


 私は瞬きをした。


「ルカリオを?」


「はい」


「殿下だと知らずに」


「はい」


 なるほど。


 それなら、


 ルカリオが興味を持った理由も、少し分かる気がした。


 王位継承権第一位。


 濃い国獣の血。


 将来の王。


 そういうものを何一つ知らず、ただ森へ入り込んだ五歳の子供として叱った。


 ルカリオにとっては、珍しい人間でしょう。


 そして、私にとっても。


 ただの珍しい人間では済まないかもしれない。


 ラグナを鎮める。


 ルカリオにも強く作用する。


 興奮状態にあったルカリオを傷つけず落ち着かせた。


 その後、ルカリオ自身が庇い、再び会いに行った。


 一つなら偶然。


 二つなら様子を見る。


 けれど、これだけ重なれば。


 知らないままにしておく理由はない。


 私は、知らないものを放置することが嫌いだ。


 持たない者が自分を守るには、知るしかない。


 誰が何を望んでいるのか。


 誰と誰がつながっているのか。


 何を持ち、何を持たないのか。


 私はそうやって一つずつ知り、一つずつ手に入れてきた。


 側妃だったころから、


 ルカリオを産み、


 第一王妃となった今まで、


 それは変わらない。


「その者の名は?」


「セナ・ロウと」


 聞いたことのない名だった。


 セナ・ロウ。


 国外から来た十八歳の平民。


 国獣を鎮め、


 私の息子を噛みつくほど興奮させ、


 そして、その息子を落ち着かせた少年。


 私はその名を頭の中でもう一度繰り返した。


「……調べなさい」


「どこまででしょうか」


「すべて」


 出身。


 家族。


 これまで何をして生きてきたのか。


 なぜその体質を持っているのか。


 何を欲し、


 何を嫌い、


 誰とつながっているのか。


 そして、ルカリオのそばに置いても問題のない人間なのか。


「分かる限り、すべてです」


「承知いたしました」


 側近が頭を下げ、部屋を出ていく。


 扉が閉じた。


 机の上には、ヴィオラ王妃の懐妊に関する書類が残されている。


 私はその一枚へ視線を落とした。


 新しい王族の誕生は、国にとって喜ばしいこと。


 もちろん。


 私も王妃として、そう願っています。


 けれど私は何より先に、ルカリオの母だ。


 息子を守るために必要なものなら、知らないままにはしておかない。


 セナ・ロウ。


 その名を、私は忘れないことにした。




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