第4話
でかい猫にも、慣れるものらしい。
「ドルガ。それ以上食べたら駄目」
朝の餌を食べ終えたはずのドルガが、当然のように空になった桶を鼻先で押している。
もうない、と桶をひっくり返して見せる。
ドルガは一度オレを見て、それからまだ何か出てこないかと桶を覗き込んだ。
「ないって」
頭を押す。
相変わらず重い。
数週間前まで、こんな大きさの動物を素手で押している自分なんて想像もしなかった。
朝はまず七頭いるか確認する。
餌。
水。
食べ方。
寝床。
排泄物。
怪我をしていないか。
機嫌はどうか。
全部見て回る。
まだ一人で記録を書けるほど文字には慣れていないから、気づいたことは騎士団員やミレーヌ先生に伝えている。
「ミアナは?」
「さっき東側で見た」
隊員に教えられ、森の奥へ向かう。
しばらく歩くと、大きな木の根元にミアナが伏せていた。
腹は前に見たときより、少し大きくなっている気がする。
「おはよう」
少し離れた場所で止まる。
ミアナが顔を上げた。
鼻を動かす。
でも、こっちからは行かない。
「嫌ならいいから」
しばらく待つ。
やがてミアナのほうが立ち上がった。
ゆっくり近づいてきて、オレの肩へ鼻先を寄せる。
「今日は来るんだ」
首筋を撫でる。
腹には触らない。
そこは特に敏感になっているはずだ。
ミアナが気持ちよさそうに目を細めた。
そのとき、
耳が動いた。
「ん?」
ミアナだけじゃない。
少し離れたところにいた別のラグナも、同じ方向へ顔を向けている。
何かいる。
オレも耳を澄ました。
ぱきっ、
枝を踏む音。
人間だ。
でも足音が妙に軽い。
「誰かいる?」
返事はない。
木々の間を見る。
また音がする。
やがて、小さな人影が見えた。
「……子供?」
思わず呟く。
五歳くらいだろうか。
小さな男の子が、木々の間からこちらへ歩いてくる。
服は明らかに上等だ。
どこかの貴族の子供かもしれない。
ただ、森を走ってきたのか髪も服も少し乱れている。
呼吸も荒い。
何より、
様子がおかしい。
「おい」
声をかける。
少年は止まらない。
「聞こえてる?」
顔はこっちを向いている。
でも、オレを見ているというより。
探している。
鼻が微かに動いた。
「……まさか」
オレは一歩下がった。
普通の人間なら、この距離でもそろそろ嫌な顔をする。
子供ならなおさらだ。
なのに少年は眉一つしかめない。
逆だ。
一歩、
近づいてくる。
「そこで止まれ」
少年は止まらない。
「聞こえてるだろ」
もう一歩。
オレも一歩下がる。
何か、前にもこんなことがあった気がする。
隊長が初めて家へ来た日だ。
あのときは、近づいてくる隊長に合わせてオレが下がった。
でも、今回は笑えない。
少年の目が妙だ。
息も荒い。
ミレーヌ先生が言っていた言葉を思い出す。
オレの匂いに対するラグナの反応は、昔使っていた薬草より強いかもしれない。
「……お前」
風が吹いた。
森の中を抜けてきた風が、オレから少年のほうへ流れる。
今日は暑かったから、作業の途中で上着を一枚脱いでいる。
いつもより匂いが外へ出ているはずだ。
その瞬間、
少年の身体がびくっと震えた。
「え?」
目つきが変わる。
呼吸がさらに荒くなる。
肩が強張る。
さっきまで辛うじて残っていた何かが、一気に飛んだように見えた。
「……まずい」
後ろへ下がろうとする。
でも遅かった。
少年が地面を蹴る。
「ちょっ――」
五歳児とは思えない勢いだった。
身体へ飛びつかれ、そのまま地面へ倒される。
「痛っ!」
背中を打つ。
次の瞬間、腕に鋭い痛みが走った。
「っ!」
噛まれた。
服越しだけど、強い。
「おい、離れろ!」
反射的に腕を引こうとする。
でも少年はしがみついて離れない。
歯が食い込む。
袖に少しずつ赤いものが滲んでいく。
「痛いって!」
引き剥がそうとして、やめた。
相手は子供だ。
力任せに振り払えば怪我をさせる。
それに、
近づけば近づくほど、少年の呼吸が荒くなっている。
オレの匂いだ。
これ、
オレが原因なのか?
ラグナは落ち着いた。
でも、この子は逆だ。
「……大丈夫」
自分にも言い聞かせるように、声を落とす。
興奮した動物を相手にするときと同じだ。
大声を出さない。
急に動かない。
目。
呼吸。
身体の力。
どこに刺激が入っているのかを見る。
「大丈夫だから。離れろ」
少年の肩が震えている。
怒っているというより、何かに夢中になりすぎて周りが見えていない。
空いている手で脱いでいた上着を掴む。
オレと少年の顔の間に挟んだ。
少しでも匂いが弱くなればいい。
「ほら。ゆっくり」
何度も繰り返す。
「大丈夫だから」
少しずつ。
本当に少しずつ、少年の身体から力が抜けていった。
噛む力も弱くなる。
やがて、
腕から口が離れた。
「……はあ」
少年が荒い呼吸を繰り返す。
オレも息を吐いた。
「結構噛んだな」
袖をめくる。
歯形がついている。
血も出ていた。
でも大怪我ではなさそうだ。
少年がそれを見た。
「……」
顔が固まる。
さっきまでとは全然違う。
今度は普通の子供の顔だった。
怒られると思っているのかもしれない。
オレと傷を交互に見ている。
しばらくして、小さな声がした。
「……すまなかった」
「ん?」
「僕が悪かった」
少年がまっすぐオレを見る。
「怪我をさせた」
意外だった。
服装を見る限り、たぶんかなりいい家の子だ。
オレなんてどう見ても平民の労働者なのに。
誰かに言われる前に、自分から謝った。
「……ちゃんと謝れるんだな」
「?」
「いや」
オレは立ち上がる。
「謝ったならいいよ」
そこで終わらせようとして――やめた。
「でも」
少年が身構える。
「勝手に森に入ってきたら駄目だろ」
「……」
「ここ、危ないんだぞ」
ミアナを見る。
少し離れたところから、こちらの様子をずっと見ている。
「でかいのいるし」
少年もラグナを見る。
でも怖がる様子はない。
むしろ、さっきまでより表情が柔らかくなった。
ラグナの一頭がこちらへ近づいてくる。
オレの匂いを嗅いだあと、少年にも鼻先を寄せた。
「お前、こいつら怖くないんだな」
「怖くない」
即答だった。
「慣れてる?」
少年は答えない。
代わりにラグナの鼻先へ手を伸ばした。
ラグナも嫌がらない。
オレほどではないにしても、明らかにこの子にも反応している。
何だ?
この子もラグナが好きな匂いでもするのか?
「何歳? 名前は? ここまで誰と来たんだ?」
「五歳だ。僕はーー」
少年が答えかけた、そのとき。
「殿下!」
森の向こうから叫び声が聞こえた。
「殿下! どちらに!」
複数の足音が近づいてくる。
オレは少年を見る。
「……殿下?」
嫌な予感がした。
木々の間から何人もの大人が飛び出してきた。
護衛らしい騎士と、身なりのいい従者。
全員、少年を見つけた途端に顔を変えた。
「殿下!」
「ご無事で!」
やっぱり、この子か。
そのうち一人がオレを見た。
さらに、少年の乱れた服。
オレの血のついた袖。
顔色が変わる。
「貴様、殿下に何をした!」
「何もしてませんけど」
「その血は何だ!」
「オレが噛まれた側です」
「噛まっ……」
男が一瞬言葉を失う。
次に顔を真っ赤にした。
「だ、誰に向かってそのような口をきいているのだ!」
知らないんだから仕方ないだろ。
そう言おうとした瞬間。
「口を慎め」
小さな声だった。
なのに、
空気が変わった。
「……っ」
身体が勝手に強張る。
少年の視線を受けた従者が言葉を失った。
膝が揺れる。
まるで巨大な獣に正面から睨まれたみたいだ。
近くにいたラグナたちまで顔を上げた。
五歳の子供が立っているだけなのに。
それなのに、逆らってはいけないと思わせる何かがある。
「この者は僕を助けた」
少年が言う。
「僕が怪我をさせた」
「ですが、殿下――」
「無礼なのはお前だ」
従者が口を閉じた。
少年の呼吸がわずかに乱れる。
さっきの興奮とは違う。
今の何かを使うこと自体が、身体に負担をかけるのかもしれない。
「殿下!」
今度は聞き慣れた声だった。
カイルが駆けてくる。
何人かの護獣騎士団員も一緒だ。
少年を見るなり、カイルが礼を取った。
「ルカリオ殿下」
ルカリオ、
殿下。
「……殿下?」
カイルがオレを見る。
「王位継承権第一位、ルカリオ殿下だ」
数週間前、この国で王家に子供ができることがどれだけ大きなことなのか聞いたばかりだ。
その王家。
しかも、王位継承権第一位。
オレは少年を見る。
さっきオレの腕を噛んだ五歳児が、無表情で立っている。
「……五歳ですよね?」
「そうだ」
「王位継承権第一位?」
「そうだ」
もっと面倒な家の子だった。
「それより」
隊長の視線がオレの腕で止まった。
表情が変わる。
「見せろ」
「大したことないです」
「見せろ」
さっきより声が低い。
仕方なく袖を上げる。
歯形と血を見て眉間に皺が寄った。
「ミレーヌに見せるぞ」
「これくらいなら洗えば――」
「大したことがあるかどうかを俺が決めるわけじゃない。ミレーヌに見せる」
「いや、先生だって忙しいだろうし」
「行くぞ」
「……はい」
こういうとき、この人は意外と強引だ。
◇
「なるほどねえ」
処置をしながら、ミレーヌが腕を眺める。
「噛み傷自体はひどくないわ。でもきちんと消毒はしておきましょう」
「だから大したことないって言ったのに」
「噛み傷は見た目だけで判断しない」
「はい」
包帯を巻かれる。
その間に、何があったのか説明した。
「ラグナは落ち着くのに、あの子は逆だったんです」
「殿下ね」
「殿下」
まだ慣れない。
ミレーヌが少し考える。
「前に話したでしょう。あなたの匂いは、ラグナに対して昔の薬草より強く作用しているかもしれないって」
「はい」
「たぶん、強ければ強いほどいいってわけじゃないのよ」
「どういうことです?」
「一定量なら落ち着く。でも一定以上になると、逆に本能を刺激する可能性がある」
腕の包帯を見る。
「……つまり、効きすぎた?」
「まだ仮説だけどね」
カイルが壁際で腕を組んでいる。
「でも、殿下? は人間なのに」
「ルカリオ殿下は普通の人間とは違う」
「普通じゃないって……さっきも何かやってましたね」
「あれは殿下の『威圧』だ」
「威圧?」
「王家に受け継がれる力の一つだ」
ミレーヌが続ける。
「ルヴェリア王家には、ラグナの血が受け継がれているの」
「……血?」
「文字どおりよ。中でもルカリオ殿下は、その血を非常に濃く受け継いでいる」
オレは黙った。
王家とラグナには深い関係があるとは聞いていた。
そういう意味だったのか。
「だからラグナに近い性質が表れることもある」
「じゃあ」
さっきの少年を思い出す。
「オレの匂いに、猫みたいな反応したってこと?」
「その言い方はやめろ」
カイルが即座に言った。
「だって実際、ラグナと似てたし」
「ルカリオ殿下だ」
「分かってますけど」
「本当に分かっているのか?」
「王位継承権第一位の五歳児」
「余計なものを付けるな」
ミレーヌが笑いを堪えている。
「とにかく」
咳払いをして、ミレーヌが話を戻した。
「今後、殿下と接触するときは距離を取ること。閉め切った部屋で長時間一緒にいない。なるべく匂いを抑える服も着る」
「分かりました」
人間相手に、いつもやってきたことだ。
ただ、
理由は正反対だけど。
臭いから離れる。
今度は、好かれすぎるから離れる。
変な話だ。
◇
処置が終わってしばらくすると、扉が叩かれた。
入ってきたのはルカリオだった。
今度はちゃんと護衛がいる。
しかも、オレからかなり離れたところで止まった。
ミレーヌから聞いたんだろう。
「どうしました?」
聞く。
ルカリオは背筋を伸ばした。
「先ほどは、すまなかった」
「もう謝っただろ」
「怪我をした相手には、きちんと謝るべきだと教わっている」
真面目な顔だ。
五歳なのに。
「僕のせいで怪我をさせた。すまなかった」
深くではないけど、きちんと頭まで下げた。
後ろの従者たちが緊張した顔をしている。
たぶん殿下が平民に頭を下げるなんて、あまり見たい光景じゃないんだろう。
「分かった」
少し笑ってしまう。
「じゃあ、もういいです」
ルカリオが顔を上げる。
「あと、次から勝手に森に入ったら駄目ですよ」
後ろの従者が青ざめた。
でも本人は素直に頷いた。
「分かった」
「ならいい」
一瞬迷う。
「ええと……殿下」
言い慣れない。
ルカリオが首を傾げた。
「ルカリオでいい」
「え……いいの?」
「僕が許す」
後ろで誰かが息を呑んだ。
やっぱり駄目なんじゃないか?
「じゃあ……ルカリオ」
「うん」
満足そうだ。
偉そうなのか素直なのか、よく分からない。
でも、
悪い子じゃない。
少なくとも、自分が悪いことをしたら謝れる。
それは分かった。
ルカリオが護衛たちと帰っていく。
オレは包帯の巻かれた腕を見る。
数週間前、
外国へ来た。
巨大な国獣に攫われた。
そして今日は、王位継承権第一位の五歳児に噛まれた。
「……」
この国へ来る前、危険なのは大型動物だと思っていた。
でも。
「この国、動物より人間のほうが危ないんじゃないか?」




