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第3話

「……これ、どうやって出ればいいんですか?」


 右を見る、


 ラグナ。


 左を見る、


 ラグナ。


 後ろにもラグナ。


 森へ到着してからずっとこの状態だ。


 さすがに一晩中ここにいたわけじゃないけど、オレが少し動くたびに巨大な身体がついてくる。


「ちょっとどいて」


 目の前に寝そべる一頭の肩を押す。


 動かない。


「重いって」


 もう少し力を入れる。


 ぴくりともしない。


 それどころか大きな頭をこちらへ向け、そのままオレの腹へ押しつけてきた。


「そうじゃない」


 ぐるる、と低い音が響く。


 機嫌は良さそうだ。


「ルウ。そこをどいてくれ」


 カイルが呼ぶ。


 ルウというらしいラグナは、耳だけカイルのほうへ向けた。


 身体は動かない。


「聞いてないですね」


「そのようだな」


 カイルの後ろで騎士たちが困った顔をしている。


「餌を持ってこい」


「はい」


 一人が桶を持ってくる。


 途端に別の一頭が顔を上げた。


「そっちは反応するんだ」


「あれはドルガだ」


 ドルガは餌の桶を見つめたまま立ち上がる。


 オレには目もくれない。


「お前、あんなに寄ってきたのに」


「食べ物があるときのドルガは大体ああだ」


 国で一番大事な獣らしいのに、ずいぶん分かりやすい。


 結局、餌で何頭かを誘導してもらい、ようやくオレが抜け出せる隙間ができた。


 立ち上がって服についた毛を払う。


「国獣って、もっと近寄りがたいものだと思ってました」


「この姿を見て、まだそう思えるなら大したものだ」


 カイルが言う。


「昨日までは国獣って言葉自体、よく知りませんでしたから」


 森の外へ向かいながら、改めて説明を受けた。


 ラグナはただ珍しい動物というだけではない。


 この土地には、ルヴェリアという国ができるより前から生きていたとされている。


 建国そのものにも深く関わり、王家にとっても国民にとっても特別な存在。


 だから国獣。


 街中の旗や門にあった大きな猫の模様も、ラグナだったらしい。


「……そんな動物を、オレに世話させるんですか?」


「だから連れてきた」


「なるほど」


 報酬が高い理由が、少し分かった。


 ただの大型動物の世話をさせるためだけに、外国まで騎士団の団長が迎えに来るわけがない。



 ◇



 翌朝、


 オレの本格的な仕事が始まった。


 森の入口へ着くと、カイルから小さな許可証を渡された。


「これを持っていろ」


「毎回必要なんですか?」


「必要だ」


 入口には大きな門がある。


 昨日も見たけど、改めて見ると物々しい。


 騎士が立ち入る人間の確認をしている。


 その脇には分厚い記録簿まで置かれていた。


 誰が、いつ入ったのか、


 出たのはいつか、


 全部記録するらしい。


「ここへ自由に入れる人間は限られている」


「国の宝だから?」


「ああ。護獣騎士団、国獣医官、それから正式な許可を受けた者だ。王族であっても無断で立ち入ることはできない」


「そこまでなんですね」


 だったら、この警備も当然か。


 許可証を見せ、名前を書いてもらって森へ入る。


「まず何するんです?」


「数える」


「……何を?」


「ラグナを」


 餌でもやるのかと思っていた。


「全部で七頭いる。まず全頭の所在を確認する」


「逃げるんですか?」


「森から出ることはまずない。ただ、普段見える個体が姿を見せないなら、それ自体が異常の可能性になる」


 怪我をしている。


 具合が悪くて隠れている。


 動けなくなっている。


 あるいは個体同士で何か問題が起きている。


「なるほど」


 飼うといっても、餌をやって撫でていればいいわけじゃないらしい。


 それならオレが町でやっていた仕事と同じだ。


 まず見る。


 いつもと違わない。


 そこからだ。



 ◇



 七頭のラグナには、それぞれ名前があった。


 最初に覚えたのは、ドルガ。


 理由は簡単だ。


「ドルガ! それはお前のじゃない!」


 隊員の声が響く。


 自分の分を食べ終えたドルガが、隣の餌へ首を伸ばしている。


 オレはその大きな顔を押した。


「お前、さっき食っただろ」


 押しても強い。


 というか、びくともしない。


「食いすぎ」


 ドルガが不満そうにこちらを見る。


「そんな顔しても駄目」


 国獣だろうが何だろうが、食いしん坊は食いしん坊らしい。


 次に気になったのはミアナ。


 雌で、腹が大きい。


「妊娠してるんですか?」


「ああ」


 カイルが答える。


 他の個体より少し神経質になっているらしい。


 オレが近づくと鼻を動かしたけど、すぐには寄ってこなかった。


 だから待つ。


 手も出さない。


 しばらくするとミアナのほうから数歩近づき、オレの腕の匂いを嗅いだ。


「そう。そっちから来るならいいよ」


 軽く首筋を撫でる。


 腹には触らない。


 その向こうでは、一頭が離れた場所からこちらを見ていた。


「あいつまで反応してる」


 近くにいた隊員が驚いた声を出す。


「誰?」


「ネーヴェ。かなり警戒心が強い。俺たちでも、機嫌が悪いと近づかせない」


 ネーヴェは鼻を動かしながら、こちらを見ている。


 確かに匂いには気づいている。


 でも来ない。


「行かないのか?」


 カイルに聞かれた。


「行かないです」


「君なら近づけるかもしれない」


「来たくなったら来るでしょ」


 ネーヴェを見る。


「匂いが気になるのと、触られたいのは別だし」


 動物が逃げるなら追わない。


 嫌がるなら触らない。


 当たり前のことだ。


 オレは別の個体の様子を見るため歩き出した。


 少しして視線を感じ、振り返る。


 カイルがこちらを見ていた。


「何ですか?」


「いや」


 またそれ。


 この人はたまに、何か言いたそうな顔をして何も言わない。



 ◇



 餌の時間も、ただ食べさせればいいわけではなかった。


 ラグナはとにかく大きい。


 当然、食べる量も多い。


 しかも全頭同じ量ではない。


 身体の大きさ。


 年齢。


 体調。


 妊娠しているミアナは特に調整されている。


 オレは食べているところを少し離れて眺めた。


「この子、いつもこんなに遅いんですか?」


 一頭を指す。


「エナか?」


「はい」


「老齢だからな。最近は少し時間がかかる」


「噛みづらそうにしてませんか?」


 隊員も見る。


「昨日はそこまでじゃなかったと思うが」


「獣医に見てもらったほうがいいかも」


「アタシのことなら、ちょうど来たわよ」


 後ろから女の声がした。


 振り返る。


 三十歳くらいの女が立っていた。


 動きやすそうな服装で、大きな鞄を持っている。


「ミレーヌだ」


 カイルが紹介する。


「王立国獣院の国獣医官。普段はここに常駐している」


「ミレーヌ・ハース。あなたがセナね」


「はい」


「噂以上ね」


「何がですか?」


 ミレーヌはオレではなく、その周囲を見る。


 ルウがもう横にいる。


 少し離れたところではミアナまでこちらを気にしていた。


「昨日まであれだけぴりぴりしてた連中が、今じゃこれだもの」


 ミレーヌが近づいてくる。


「ちょっと匂いを確認してもいい?」


「人間には臭いですよ」


「知ってる」


 言いながら遠慮なく近づいてきた。


 一瞬、鼻をしかめる。


「確かに強いわね」


「でしょ」


「でも興味深い」


 何か嫌な言い方だ。


「どのくらいの距離まで効くのか。個体差はあるのか。長時間そばにいた場合に変化はないのか――調べたいことが山ほどあるわ」


「オレ、実験動物みたいになってません?」


「安心して」


 ミレーヌが笑う。


「実験動物より高待遇よ」


「安心できないです」


 でも嫌な感じはなくなった。


 少なくとも、オレの匂いを面白がっているだけではない。


 ラグナに何が起きているのか、本気で知ろうとしている。



 ◇



 ミレーヌの健康確認について回る。


 そこで、ヴァルという大きな雄の身体に傷跡を見つけた。


「これ、どうしたんですか?」


 毛の間に古い痕が残っている。


 ミレーヌが確認する。


「少し前の傷。荒れてた時期に、自分で木に身体をぶつけたのよ」


「自分で?」


「興奮してね。岩にぶつかったこともある」


 オレは傷を見る。


「誰かにやられた可能性は?」


 カイルの表情が変わった。


「その可能性があれば必ず調べる」


「そんなに?」


「ラグナを故意に傷つけることは重罪だ」


 声が少し硬い。


「場合によっては極めて重い刑になる」


「……国獣ですもんね」


「それだけではないわ」


 ミレーヌがヴァルの毛をかき分けながら言う。


「傷には原因がある。転んだのか、自分でぶつけたのか、他の個体にやられたのか。それとも人間が関わったのか。治すだけが仕事じゃないの」


「なるほど」


 傷を見る。


 原因を見る。


 そこまで含めて健康管理なんだ。



 ◇



「それにしても」


 健康確認が一段落してから聞いた。


「何で急にそんなに荒れたんですか?」


 ミレーヌがカイルと顔を見合わせた。


「急に、というより少しずつね」


 以前、この地域にはある薬草が生えていたらしい。


 ラグナが好む独特の香りを持ち、その匂いを嗅ぐと気持ちが穏やかになる。


「昔は国内でも普通に採れたんだけど、気候が変わって育ちにくくなったの」


「じゃあ、別のところから持ってくれば」


「そうしてたわ。他国から輸入して」


 でも今は、それも安定していない。


 国同士の関係や流通の問題が重なり、必要な量が入ってこなくなった。


 薬草が減る。


 ラグナが落ち着かなくなる。


 喧嘩が増える。


 食欲が落ちる。


 自分を傷つける個体まで出た。


「じゃあ、その草をどうにかすればオレいらないんじゃ?」


 そう言うと、ミレーヌが瞬きをした。


「普通、自分から言う?」


「だってそうでしょ」


 原因が薬草不足なら、薬草を用意すればいい。


「それについては研究が進んでいる」


 カイルが言った。


「薬草の香りを人工的に再現する試みだ」


「あるんじゃないですか」


「まだ試験段階に近い。製造にも金がかかる」


 ミレーヌも頷く。


「短時間なら、ある程度は効果が出てる。でも常用したときにどうなるのか、まだデータが足りないのよ」


「じゃあ完成したら楽ですね」


 それならオレがずっとここにいる必要もない。


 薬草が入るようになるか、人工香が完成するまで手伝えばいい。


 分かりやすい。


「ただね」


 ミレーヌがルウを見る。


 オレの足元で、でかい身体を横たえている。


「あなたの匂いには、あの薬草と似た何かがあるのかもしれない」


「似た匂い?」


「匂いそのものが同じという意味じゃないわ。ラグナに与える作用が、という話」


「じゃあ、やっぱり代わりになるんですね」


「可能性はある」


 ミレーヌは少し考えてから続けた。


「でも、反応が強すぎる気もするのよね」


「強い?」


「昔使っていた薬草より、明らかにあなたへの反応が強い」


 オレは足元を見る。


 ルウは完全に眠っている。


「強いなら、よく効くってことじゃないんですか?」


「そうならいいんだけど」


「違うんです?」


「分からない」


 あっさり言われた。


「だから調べるの」


 医官というのは、分からないことを分からないと言えるらしい。


 そのほうが信用できる気がした。



 ◇



 午後になっても仕事は続いた。


 寝床。


 水場。


 食べ残し。


 落ちている毛。


 爪の状態。


 それから。


「……これも見るんですか」


「見る」


 目の前には、巨大な糞。


 当然といえば当然だ。


 あれだけ食べるんだから、出るものも大きい。


「国の宝でもウンコはするんですね」


 隣にいた騎士が微妙な顔をした。


「お前……」


「何です?」


「いや。間違ってはいない」


「でしょ」


 神聖だろうが国獣だろうが、生き物だ。


 食べる。


 寝る。


 排泄する。


 具合も悪くなる。


 怪我もする。


 そっちのほうがオレには分かりやすい。


「さっきネーヴェに触らなかっただろ」


 作業中、別の隊員に聞かれた。


「うん」


「何で嫌がってるって分かった?」


「尻尾」


「尻尾?」


「あと耳。身体も少し逃げる向きになってた」


 説明すると、隊員が感心したようにネーヴェを見る。


「俺には分からなかった」


「見てればそのうち分かりますよ」


 朝より話しかけられることが増えた。


 距離そのものはまだ遠い。


 オレの匂いに慣れていないから、それは当然だ。


 別に気にならない。


 ただ、昨日までは遠巻きに見ていた連中が、仕事のことを聞いてくるようになった。


 少しだけ、扱いが変わった気がする。



 ◇



 夕方。


 一日の仕事が終わるころには、身体がかなり重かった。


「思ったより疲れるな」


 森の中を歩き回る。


 餌を運ぶ。


 身体を見る。


 寝床を見る。


 七頭全部に目を配る。


 楽な仕事ではない。


 しかも暑い。


「……もういいか」


 オレは上着を一枚脱いだ。


 いつもなら我慢する。


 服を重ねておけば、匂いが少し抑えられるから。


 でもここでは。


 脱いだ途端、ルウが顔を上げた。


 鼻を動かす。


 それから嬉しそうに近づいてくる。


「お前、本当に分かりやすいな」


 額を撫でる。


 少し離れた騎士が鼻をこすった。


 それを見て、オレは二歩ほど離れる。


 それでいい。


 人間とは距離を取ればいい。


 でも森の中でまで、何枚も着込む必要はない。


「……ここなら、別に着込まなくていいのか」


 口に出してから、自分で少し変な感じがした。


 いつも当たり前にやっていたことを、やらなくていい。


 それだけなのに。


「セナ」


 声をかけられる。


 カイルが近づいてきた。


 人間としては少し近い。


 反射的に足が下がる。


 一歩だけ。


 カイルは何も言わなかった。


「初日はどうだった?」


「思ってたより大変でした」


「そうか」


「餌やって撫でてればいいのかと思ってたんで」


「それだけなら、俺たちももう少し楽なんだがな」


 少しだけ笑う。


 オレも森を見る。


 ルウ。


 ドルガ。


 ミアナ。


 離れたところにはネーヴェもいる。


「でも」


 少し考えてから言った。


「悪くないです」


 カイルがこちらを見る。


「そうか」


「今後も今日みたいな感じで?」


「ああ。ラグナの状態を見ながら、護獣騎士団と一緒に飼育に入ってもらう」


 そこで少し間を置いた。


「正式には、特別飼育官として扱う予定だ」


「官って、オレに?」


 思わず聞き返す。


 外国人。


 平民。


 しかも文字だって十分には読めない。


「無理じゃないですか?」


「ラグナが君を必要としている」


「大げさですね」


「俺はそうは思わない」


 さらっと言われた。


 でも、オレ自身にはまだよく分からない。


 ただ匂いが好かれているだけだ。


 今のところは。



 ◇



 森の近くには、オレ用の住居が用意されていた。


 前に住んでいた家と同じくらいの、小さな家。


 一人なら十分だ。


 窓を開ける。


 遠くからラグナの低い鳴き声が聞こえた。


 周りに人家はほとんどない。


 誰かが頻繁に家の前を通ることもない。


 何枚も服を重ねなくてもいい。


 仕事は大変だ。


 でも、動物を見ることなら慣れている。


 少なくとも、何をすればいいのか分からない仕事ではない。


 ベッドへ腰を下ろす。


「……ここ」


 今日一日を思い返す。


 朝からずっと歩き回った。


 でかい猫に押しつぶされそうになった。


 糞まで見た。


 疲れている。


 なのに。


「結構、楽しいかも」


 何となく、そう思った。





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