幕間Ⅴ ヴィオラ王妃
何をしても、
リリアナは泣き止まなかった。
「リリアナ」
抱き直す。
小さな身体が、私の腕の中で震えている。
顔を真っ赤にして、
息が切れるほど、
泣き続けている。
「どこか痛いの?」
答えられるはずもない。
熱はない。
外傷もない。
乳も飲ませた。
衣類にも、
寝具にも、
問題はない。
医官が何度確認しても、
原因は見つからなかった。
今は、
王位も、
血の濃さも、
継承順位も、
どうでもよかった。
この子が、
どうして泣いているのか、
どこが苦しいのか、
それだけが知りたかった。
◇
「人工香を」
医官へ言う。
「はい」
これまでも、
リリアナがひどくぐずるとき、
医官の管理のもとで使ってきた。
規定された濃度。
以前なら、
少しずつ、
泣き声が弱くなった。
だから、
今回も、
そうなると思っていた。
「……」
僅かに、
泣き声が弱まる。
けれど、
止まらない。
また、
大きな声を上げる。
「量は?」
「規定内です」
「調整できますか?」
「少しでしたら」
「お願いします」
濃度を上げる。
それでも、
リリアナは苦しそうに泣き続けた。
「……今まで、効いていたでしょう」
「はい」
医官も、
困惑している。
「作用していないわけではないと思われます。ただ、今回は……」
その先が続かない、
理由が分からないから。
「これ以上は?」
「推奨量を超えます」
「……なら、やめなさい」
効かないからと、
闇雲に増やせばいいわけではない。
この子を助けたいからこそ、
危険なことはできない。
◇
泣き方が、
おかしい。
ただ、
不快で泣いているのではない。
何かを、
怖がっているような、
怒っているような。
まだ、
生まれたばかりの赤ん坊が、
どうして、
これほど強い感情を。
「何を怖がっているの……?」
部屋には、
何もない。
私の腕の中にいる。
それなのに、
呼吸まで乱れていく。
「王妃殿下!」
扉が開いた。
「何です?」
「ラグナの森より、緊急の報告が」
胸が、
嫌な音を立てた。
「国獣の幼獣が負傷」
「……何ですって?」
「母獣をはじめ、群れ全体が極度の興奮状態にあるとのことです」
「幼獣の容体は?」
「国獣医官が治療を試みておりますが、群れが近づけさせない状態だと」
リリアナが、
腕の中で、
さらに強く泣いた。
「……」
以前にも、
ラグナの異変と、
この子の不調が、
近いころに起きたと聞いている。
二度。
それでも、
偶然かもしれない、
そう思う余地はあった。
でも、
今は、
森で、
群れ全体が激昂している。
そして、
私の腕の中で、
この子が、
今までにないほど苦しんでいる。
「王妃殿下」
医官が、
慎重に口を開く。
「これまでの記録も考えますと、王女殿下と国獣の状態に、何らかの関係がある可能性は――」
「否定できない?」
「……はい」
リリアナは、
ルカリオ殿下と同じほど、
濃い国獣の血を持っている。
ルカリオ殿下には、
すでに、
威圧という力が現れている。
なら、
この子にも。
「……あちらのものを、感じているの?」
答えはない。
それでも、
初めて、
その可能性が、
現実のものとして、
恐ろしくなった。
◇
「ラグナを止める方法は?」
「護獣騎士団が人工香による鎮静を試みております」
「それだけ?」
側近が、
僅かに迷う。
「セナ・ロウの体質も利用するとのことです」
「……」
その名前。
人工香があるなら、
一人の特殊な人間へ、
国が依存する必要はない。
そう考えていた。
今でも、
その考えすべてが、
間違いだったとは思わない。
人工香は、
これまで、
実際にリリアナを落ち着かせてきた。
今も、
全く作用していないわけではない。
けれど、
足りない。
娘は、
まだ泣いている。
「セナ・ロウをこちらへーー」
側近が言いかけた。
「いいえ」
遮る。
「森から動かしてはなりません」
「ですが、王女殿下が」
「だからこそです」
リリアナを抱きしめる。
「ラグナの状態がこの子に影響しているのなら、先にあちらを鎮めるべきでしょう」
セナを、
娘のそばへ連れてくればいい。
そんな単純な話ではない。
「森を優先して」
「……承知いたしました」
◇
私には、
何もできない。
森へ行くことも。
ラグナを鎮めることも。
ただ、
娘を抱く。
背中を撫でる。
小さな手を握る。
「大丈夫よ」
自分でも思う。
何が、
大丈夫なの。
それでも。
「大丈夫」
もう一度、
言った。
◇
「続報です」
「何です?」
「第一王子殿下も森に滞在されていたとのことです」
「ルカリオ殿下は?」
考えるより、
先に聞いていた。
「すでに退避されております。ご無事です」
「……そう」
息を吐く。
よかった。
王位を争う、
相手。
政治の上では、
そうなるのでしょう。
でも、
五歳の子供が、
激昂した国獣の中にいたと聞いて、
無事でよかった以外の、
何を思えというの。
「殿下は」
報告が続く。
「セナ・ロウが国獣を鎮めるため、ご自身から退避に応じられたそうです」
「……」
「そして、王女殿下を助けるよう、セナ・ロウへ」
「リリアナを?」
「はい」
五歳。
あの子は、
知っている。
リリアナが、
自分の王位を脅かすかもしれないことを。
それでも、
妹を助けろと。
「……そう」
それしか、
言葉が出なかった。
◇
リリアナが、
身体を反らせた。
「リリアナ!」
泣く、
さっきより、
さらに激しく。
「森は?」
「母獣と群れの興奮が、再び強まっているとのことです」
「……」
もう、
偶然だと考えることは、
できなかった。
「お願い」
誰に向けた言葉か、
分からない。
森にいる人たちへ。
ラグナへ。
セナ・ロウへ。
「早く……」
◇
どれくらい、
そうしていたのか。
突然、
リリアナの声が、
弱くなった。
「……?」
大きな泣き声が、
しゃくり上げる音へ変わる。
「リリアナ?」
乱れていた呼吸が、
ゆっくり、
戻っていく。
瞼が下りる。
そのまま、
私の胸で眠り始めた。
「……リリアナ?」
あまりに、
急だった。
「王妃殿下!」
使者が入ってくる。
「ラグナの森より、群れが鎮静し始めたとの報告です」
「……」
娘を見る。
もう、
泣いていない。
森が、
静かになった。
この子も、
静かになった。
それだけで、
十分だった。
◇
卓上の、
人工香へ目を向ける。
効かなかった。
そうではない。
今まで、
何度も、
この子を落ち着かせた。
今日だって、
全く作用していなかったわけではないのでしょう。
でも、
それだけでは、
届かなかった。
「森では?」
詳しい報告を求める。
「セナ・ロウが抑香魔道具を外し、国獣の反応を見ながら距離を調整。人工香も併用しております。護獣騎士団が周囲を制御し、その間に国獣医官が幼獣の治療を」
「幼獣は?」
「止血に成功。現在は母獣のそばにおります」
「……そう」
よかった。
心から、
そう思った。
◇
「セナ・ロウ……」
名前を口にする。
私は、
あの少年を、
ルカリオ殿下の側へ、
マリエル王妃が囲い込んだ。
そう見ていた。
人工香があるのなら、
一人の人間を、
奪い合う必要などないと。
今も、
人工香の研究は、
必要だと思う。
むしろ、
続けなくてはならない。
けれど。
「必要だわ」
認めるしかない。
今のリリアナには、
ラグナを安定させられる人間が、
必要。
「ならば、セナ・ロウを王女殿下側へ――」
「違います」
側近を見る。
「あの少年をこちらへ奪って、ラグナから離してどうするのです」
「ですが」
「今日、娘を助けたのは、セナ・ロウ一人ではありません」
人工香。
護獣騎士団。
国獣医官。
そして、
セナ。
「必要なのは所有ではないわ」
この子を守れる形を、
作ること。
「あの少年は、森にいるべきでしょう」
そのうえで、
必要なときに、
リリアナも、
助けてもらう。
今は、
それが、
一番正しい。
◇
「王妃殿下」
次の報告を聞いた瞬間。
別の寒気がした。
「幼獣の負傷について、国獣医官が事故ではないと断定いたしました」
「……何ですって?」
「人工的な罠です」
故意。
誰かが、
幼い国獣を、
わざと傷つけた。
「誰が?」
「現在、護獣騎士団と国獣院が調査しております。正規の許可が悪用された可能性も」
「……」
罠が置かれていた場所。
幼獣が日常的に通る場所。
そして、
今日、
ルカリオ殿下が森へ行くことは、
事前に決まっていた。
「まさか」
嫌な考えが、
浮かぶ。
幼獣が傷つく。
母獣が怒る。
群れも怒る。
その場には、
極めて濃い国獣の血を持つ、
ルカリオ殿下。
今日も、
威圧が、
漏れかけたと聞いた。
「ルカリオ殿下を暴走させるため……?」
ルカリオ殿下は、
力を制御できない。
国獣すら乱す。
王にはふさわしくない。
そう見せられれば、
得をするのは、
誰。
◇
「……私を支持する者の中で」
声が、
自分でも分かるほど、
冷たくなる。
「殿下の継承権を早くから問題にしていた者を調べなさい」
「現在確認しております」
「すべてです」
「はい」
証拠は、
まだない。
それでも、
もし、
本当に、
私の娘のためという名で、
誰かが、
こんなことをしたのなら。
『リリアナのためという言葉を、勝手な行動の免罪符にすることは許しません』
私は、
確かに、
言った。
それなのに、
国獣の幼獣を傷つけ、
ルカリオ殿下を、
危険にさらし、
結果として、
リリアナまで、
苦しめた。
「誰が」
静かな声が出た。
「娘のために、こんなことをしろと言ったのです」
誰も、
答えない。
「国獣の幼獣を傷つけ」
一つ。
「ルカリオ殿下を危険に晒し」
もう一つ。
眠っているリリアナを見る。
「その結果、この子まで苦しめた」
胸の奥が、
煮える。
「それのどこが」
声が震えた。
「この子のためなのです?」
「ですが」
側近の一人が、
慎重に口を開く。
「王女殿下の継承のためには――」
「王位が」
見る。
「この子の命より大切だとでも?」
相手が黙った。
私は、
リリアナの権利を、
守る。
その気持ちは、
変わらない。
この子が、
選べる年齢になるまで、
可能性を、
誰かの都合で奪わせたくない。
でも、
王冠を得るために、
リリアナ自身を、
犠牲にするつもりなどない。
「それに」
続ける。
「ルカリオ殿下は五歳です」
政治的には、
競争相手。
だから何。
「あの方は今日、リリアナを助けるようセナ・ロウへ言ったのでしょう?」
「はい」
その子を、
娘のために、
傷つける。
そんなことを、
許せるはずがない。
◇
「調査には、すべて協力しなさい」
「王妃殿下」
「私の名を使った者がいるなら」
誰であろうと。
「庇いません」
実家に近い者でも。
有力な貴族でも。
長く私を支持してきた者でも。
「出入りの記録。使用人と従者の行動。森への許可申請。資金の動き。国獣院関係者との接触」
「すべて確認いたします」
「こちらだけで調べてはいけません」
「……」
「国獣院にも同じ記録を渡しなさい」
こちらに都合の悪いものを、
隠した。
そう思われる余地まで、
残したくない。
自分の派閥に、
傷がつく?
構わない。
リリアナ本人を、
危険にした者たちなど、
味方ではない。
◇
人が部屋を出たあと、
ようやく、
静かになった。
リリアナは眠っている。
泣き腫らした、
小さな目。
頬へ、
指を触れる。
「……あなたは何も知らないのね」
自分を、
王にしようとして、
誰かが、
国獣を傷つけたかもしれないことも。
そのせいで、
自分が、
苦しんだことも。
この子は、
誰かの旗ではない。
高い血を持つ王女。
王位継承候補。
それだけではない。
リリアナ、
私の娘。
それを見ずに、
「この子のため」と、
言う人間がいる。
◇
マリエル王妃を思う。
あの方は、
ルカリオ殿下を守ろうとしている。
私は、
リリアナを守ろうとしている。
これからも、
意見はぶつかるでしょう。
それでも、
今日のことを、
あの方が許すとは思えない。
政治のために、
子供を傷つける。
そこだけは、
きっと、
同じ。
そして、
セナ・ロウ。
ルカリオ殿下の婚約者。
ラグナの世話をする少年。
今日、
結果として、
リリアナまで助けた人間。
必要、
それは、
もう否定できない。
でも、
必要だから、
こちらのものにする、
そんな考え方では、
また、
同じことになる。
「ならば」
側近が控えめに言う。
「セナ・ロウ本人に、ルカリオ殿下とリリアナ王女、どちらを優先するのか選ばせてはいかがでしょう」
「……」
答えなかった。
ルカリオか。
リリアナか。
本当に、
そういう話なのだろうか。
◇
眠っている、
リリアナの手へ、
指を近づける。
きゅ、
弱い力で、
握られた。
私は、
この子の権利を、
守ると決めた。
でも、
今は、
それより、
もっと、
はっきり分かる。
王位も、
血も、
権利も、
この子が、
生きていてこそのもの。
小さな手を、
握り返す。
「あなたを傷つける者を、私は決して許さない」




