第19話
昨日、
オレは、自分の手で書いた。
『幼獣 食欲あり』
『活動良好』
『外傷なし』
朝、
その文字を見て、帳面を閉じる。
今日も同じように書くつもりだった。
今日は、ルカリオが短時間だけ森へ来る。
半日の休みじゃない。
護衛付き、
滞在時間も、動ける場所も決まっている。
それでも、
ちびに会えるなら、あいつは喜ぶだろう。
◇
警備は、昨日よりさらに厳しくなっていた。
本人確認。
許可証。
荷物。
搬入物。
巡回。
ルカリオが通る予定の場所まで、騎士団員たちが何度も確認している。
「ここまでやれば大丈夫ですよね」
近くにいたカイルへ言う。
「そう願いたい」
大丈夫だ、
とは言わなかった。
少しだけ、胸に引っかかった。
◇
「ちびは?」
森へ来たルカリオが、最初に聞いた。
「元気ですよ」
「よかった」
あからさまに、ほっとする。
今日はオレも、高性能の抑香魔道具を身につけている。
ルカリオがいるから、
オレの匂いを必要以上に届かせないため。
「護衛が前より多い」
「最近ちょっと物騒なんで」
「殿下」
カイルが公の声で言う。
「本日は決められた範囲から出られませんようお願いいたします」
「分かっている」
不満そうだけど、
ちゃんと従う。
◇
ちびは、ルカリオを見るなり走ってきた。
「来た!」
「走ると転ばされますよ」
「今日は転ばない」
「前もそう言って――」
ちびが飛びつく。
「うわっ」
よろける。
でも、今回は踏ん張った。
「ほら」
「上手くなりましたね」
「僕だって学ぶ」
得意そう。
ちびが、その周りを走る。
オレも、
カイルも、
少しだけ笑った。
昨日までと同じだった。
◇
ちびが遊びながら、少し離れた茂みへ向かう。
いつも使っている場所。
危険な区域じゃない。
ミアナも見ている。
「あんまり遠く行くなよ」
オレも、それだけ言った。
次の瞬間、
聞いたことのない声がした。
「――っ!」
短い、
鋭い悲鳴。
「……ちび?」
思考が止まる。
次いで、
森全体を震わせるような咆哮。
ミアナ。
「全員止まれ!」
カイルの声が響く。
「殿下を下げろ!」
一瞬で空気が変わった。
ミアナが走る。
ヴァル、
ルウ、
ネーヴェ、
他のラグナたちも一斉に立ち上がる。
「ちび!」
茂みの向こう、
倒れている。
脚、
腹の横、
血。
「……何だよ、これ」
細い鋼線みたいなものが、身体へ食い込んでいる。
動くたび、
さらに絡む、
食い込む。
血が増える。
「動くな!」
誰に言ったのか分からない。
ちびは痛くて動く、
そのたび、傷が深くなる。
昨日。
『外傷なし』
そう書いた。
昨日まで、
元気だった。
◇
「ミアナ!」
ミレーヌが治療道具を持って近づこうとする。
「グァアアッ!」
無理だった。
ミアナが牙を見せる。
ちびの前へ、完全に身体を入れる。
「近づけない!」
さらに、
ほかのラグナたちも集まってくる。
『幼獣は群れ全体で守る』
カイルが言った言葉を思い出す。
あのときは、
穏やかだった。
今は違う。
傷ついた群れの子を、
全部のラグナが守ろうとしている。
人間を、
敵として。
◇
一人の騎士が反射的に剣へ手をかけた。
「抜くな!」
カイルが怒鳴る。
「誰も武器を見せるな! 刺激するだけだ!」
手が止まる。
そうだ、
この子たちは敵じゃない。
守る対象。
でも今は、
近づけば、人間のほうが簡単に殺される。
◇
「殿下を森の外へ!」
護衛がルカリオへ近づく。
でも、
動かない。
「ちびが……」
血まみれのちびを見ている。
「ルカリオ」
「セナ」
「行って」
「でも」
「邪魔になる!」
強く言った。
ルカリオの顔が止まる。
そのとき、
空気が重くなった。
「……っ」
近くにいた騎士が息を詰める。
ルカリオの感情が揺れている。
恐怖、
怒り、
ちびの悲鳴、
ラグナたちの咆哮。
威圧が漏れている。
「ルカリオ!」
「……」
「目閉じて。息して」
「でも――」
「ゆっくり」
五歳。
王子じゃない。
今はただ、
怖がってる子供。
ルカリオが目を閉じる。
息を吸う、
吐く。
もう一度。
身体は震えている。
それでも、
威圧が少しずつ引いた。
「そう」
自分で、
抑えてる。
◇
「このままじゃ治療できない!」
ミレーヌが叫ぶ。
ちびから、まだ血が流れている。
ミアナを、
群れを、
どうにか落ち着かせなきゃいけない。
カイルと目が合った。
考えていることは、多分同じ。
「魔道具外します」
「待て」
「でも」
「殿下が近すぎる」
「……」
オレの匂いは、
濃すぎれば、
ルカリオにも、ラグナにも危険。
「殿下を十分離してからだ」
「でもちびが」
「分かってる!」
カイルも焦ってる。
それでも、
順番を間違えない。
◇
先に人工香が使われた。
規定量。
複数箇所。
ルウの動きが少し鈍る。
ヴァルも一度は頭を下げた。
「効いてる?」
そう思った直後、
ちびが弱く鳴く。
ミアナが吠えた。
それにつられるように、群れが再び騒ぐ。
「前はもっと落ち着いたのに!」
「効いてはいる!」
ミレーヌが叫ぶ。
「でも今は、それだけじゃ足りない!」
傷ついた子供がいる。
母親が怒っている。
群れ全部が守ろうとしている。
人工香が、
効かなくなったわけじゃない。
今の怒りが、
強すぎる。
◇
「王宮より急報!」
誰かが走ってくる。
「リリアナ王女殿下が突然激しくお泣きになり、人工香を使用してもほとんど変化がないとのことです!」
「……」
背中が冷える。
また、
森が乱れたときに。
「いつから?」
ミレーヌが聞いた。
使者が答える。
細かな時刻まで確認する必要はなかった。
今、
この森がこうなったのと、
ほとんど同じころ。
「……先生」
「分かってる」
ミレーヌの顔も険しい。
前に、
二度、
記録へ残した。
そして、
今、
これまでで一番大きな異変が、
両方に起きている。
偶然だと、
切り捨てるには、
もう、
気持ちが悪すぎた。
◇
「リリアナが?」
ルカリオが聞いた。
まだ完全には退避していない。
「王宮には医者いるから」
「……」
ラグナを見る。
使者を見る。
「ラグナが静かになれば」
息を整えながら聞く。
「リリアナも、静かになるかもしれないのか?」
「……分かんない」
でも、
否定もできない。
「ルカリオは先に出て」
「僕がいたら」
ルカリオのほうが言った。
「セナは匂いを使えないんだな」
「……うん」
少しだけ、
目が揺れる。
怖いんだ。
当然。
それでも。
「行く」
護衛を見る。
「殿下」
「僕は大丈夫だ」
そう言ってから。
オレを見る。
「リリアナを助けろ」
「……」
「ちびも」
声が少し震えた。
「妹も助けろ」
「……分かった」
それしか、
言えなかった。
◇
ルカリオが護衛に連れられ、安全圏まで下がる。
何度も、
ちびを振り返る。
でも戻らない。
「十分離れた!」
声が届く。
「セナ」
カイルを見る。
「外していい」
抑香魔道具へ手をかける。
外した。
◇
一気に、
空気が変わった。
周りの人間が、
僅かに顔をしかめる。
鼻。
喉。
目。
いつもの反応。
同時に、
ラグナたちの耳が動いた。
何頭も、
こっちを見る。
「……」
怖い。
今、
オレの匂いは、
ただの鎮静剤じゃない。
強すぎれば、
逆に興奮させる。
「行きます」
一歩。
「止まれ」
カイル。
「そこでいい。反応を見ろ」
耳。
尾。
瞳。
呼吸。
いつも、
やってきたこと。
匂いだけじゃない。
正面に立たない。
見つめすぎない。
急に手を出さない。
ミアナが、
オレを確認するまで、
待つ。
「いるから」
声を落とす。
「大丈夫」
ミアナが唸る。
「いるから」
ちびが生まれた夜も、
オレはここにいた。
「大丈夫」
言葉が分かるわけじゃない。
でも、
待つ。
◇
緊張で汗が出る。
匂いが、
強くなったのかもしれない。
「グルァッ!」
一頭が急にこちらへ動いた。
「――!」
「動くな!」
カイルが前へ出る。
「隊長!」
騎士団員たちも動く。
剣じゃない。
盾と身体で進路をずらす。
「セナ、少し下がって!」
ミレーヌ。
「強すぎる!」
一歩、
下がる。
呼吸、
落ち着け。
オレが焦ったら、
もっと悪くなる。
「大丈夫」
自分にも言う。
「大丈夫」
◇
少しずつ、
変わっていく。
人工香。
オレの匂い。
騎士団の動き。
不用意に近づかない。
声を荒らげない。
距離を保つ。
ヴァルが伏せる、
ルウが一歩下がる、
ネーヴェの尾も、ゆっくりになる。
一頭ずつ、
怒りの波が弱くなっていく。
最後は、
ミアナ。
ちびの前から動かない。
「触らない」
しゃがむ。
「オレは触らない」
ミアナの鼻が動く。
「ちびを助けたいだけ」
待つ。
長い、
ほんの少ししか経っていないのかもしれない。
やがて、
唸りが低くなる。
ミアナの身体が、
僅かに横へ動いた。
「先生!」
ミレーヌが治療へ入る。
◇
騎士団員が補助に入る。
ミレーヌが鋼線を見る。
血。
傷。
オレは、
ミアナから目を外さない。
「先生」
「集中しなさい!」
「……はい」
手が震える。
ミアナの呼吸を見る。
「大丈夫」
オレにできることは。
今はこれだけ。
「……これ」
ミレーヌの声が変わった。
「何だ?」
カイルがすぐ反応する。
「これ、事故じゃない」
空気が変わった。
「断定できるか」
「できる」
ミレーヌが低く言う。
「返しがついてる。高さも位置も、幼獣が通るところに合わせてある」
鋼線。
傷。
罠。
「こんなもの、森に自然にできるわけないでしょ」
「……」
誰かが、
やった。
ちびを、
わざと、
傷つけた。
◇
「森を封鎖する」
カイルがすぐ動く。
「誰も出すな。物資搬入口も閉めろ。勤務中の全員を確認。許可証、出入り記録、全部回収」
「了解!」
「現場には必要な者以外近づけるな」
その横で、
ユリウスさんも動いている。
「鋼線に触れた者をすべて記録してください」
「今やるんです?」
「今だからです。後では消えます」
設置位置。
踏み跡。
触った人間。
細かい。
今は、
その細かさが頼もしい。
◇
「王宮から続報!」
また使者。
「王女殿下の状態がさらに悪化。人工香を調整しても泣き止まず、呼吸も乱れていると!」
「……」
その声に重なるように、
ちびが鳴く。
ミアナが吠える。
群れがざわめく。
森と、
王宮。
離れているはずなのに、
まるで、
同じ何かに揺さぶられているみたいだった。
「だったら」
ラグナを見る。
「こっちを落ち着かせる」
「セナ」
「それで王女殿下まで楽になるかは分からない」
でも。
「今は、こっちでできることをやるしかない」
ちびも、
リリアナも、
待ってくれない。
◇
身体が重い。
ずっと気を張っている。
大型のラグナが何頭もすぐ近くにいる。
匂いも、
強すぎないよう、
離れすぎないよう、
意識し続ける。
人間たちも、
オレの匂いで目や喉をやられている。
それでも、
誰も離れない。
「セナ」
カイル。
「もう下がれ」
「まだミアナが」
「倒れたら意味がない」
「でも」
「下がれ」
団長の声。
命令。
「……分かりました」
一歩、
距離を取る。
悔しい。
でも、
倒れたら本当に邪魔になる。
◇
「終わった!」
ミレーヌの声。
「……!」
「セナ、そのまま!」
「はい!」
「止血した! 傷も処置した!」
「ちびは?」
一拍。
「今すぐ死ぬ状態じゃない!」
身体から、
力が抜けかける。
今すぐ死なない。
それだけ。
でも、
今は、それでいい。
◇
ミレーヌたちが下がる。
ミアナがちびへ近づく。
匂いを嗅ぐ。
ちびが、
「……みぃ」
弱く鳴いた。
「……」
生きてる。
「……よかった」
声が勝手に出た。
ミアナが、ちびのそばへ伏せる。
それを見たほかのラグナたちも、
一頭、
また一頭、
伏せていく。
さっきまで森中に響いていた咆哮が。
消える。
「……」
静か。
その静けさが、
怖いくらいだった。
◇
「王宮より!」
息を切らした使者。
全員が身構える。
「王女殿下が、突然泣き止まれました」
「……」
「呼吸も安定。そのままお眠りになったとのことです」
誰も、
すぐには声を出さなかった。
ラグナたちが、
静かになった。
そして、
王宮のリリアナも、
ほとんど同じころに、
静かになった。
「……先生」
「ええ」
ミレーヌが答える。
それだけ。
もう、
偶然で片づけていいとは、
思えなかった。
何が起きているのかは、
まだ分からない。
でも、
リリアナとラグナの間には、
何かがある。
そのことだけは、
もう無視できなかった。
◇
安全確認が終わったあと、
ルカリオが戻ってきた。
「ちびは?」
最初にそれ。
「生きてる」
「……」
大きく息を吐く。
「リリアナは?」
「落ち着いたって」
今度は。
肩から力が抜けた。
◇
包帯。
残った血。
この前まで、
一緒に転がって遊んでいたちび。
今は動かない。
「僕」
ルカリオが小さく言う。
「守るって言ったのに」
「ルカリオのせいじゃない」
「でも」
「これは」
はっきり言う。
「やったやつのせい」
「……誰がやった」
空気が重くなりかける。
「ルカリオ」
「……」
名前を呼ぶ。
ルカリオが目を閉じる。
息をする。
一度、
二度。
自分で抑えた。
もう、
何も分からず、
感情に振り回されるだけの子じゃない。
「リリアナも」
伝える。
「ラグナが荒れてた間、ずっと苦しそうだったみたいです」
ルカリオが、ちびを見る。
「じゃあ」
少しずつ理解する。
「これをやったやつは」
声が低くなる。
「リリアナまで」
「……うん」
誰が、
何のために、
まだ分からない。
でも、
ちびが血を流した。
ミアナが怒った。
群れ全部が荒れた。
ルカリオが威圧を暴発しかけた。
リリアナが王宮で苦しんだ。
それだけは、
事実。
「何で」
声が出た。
「王様決めるだけで」
ちびを見る。
ルカリオを見る。
遠く、
王宮のほうを思う。
「何で、子供まで傷つくんだよ」
◇
「セナ」
カイル。
「座れ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
腕を掴まれる。
「でも」
「座れ」
「……はい」
今は、
触れられて心臓がどうとか。
そんなことを考える余裕もない。
それでも、
カイルの手は離れない。
◇
ちびが死なない。
ラグナが落ち着いた。
リリアナも静まった。
ルカリオも無事。
全部を確認したら。
急に脚から力が抜けた。
「……あ」
「セナ!」
身体が傾く。
カイルが受け止める。
「だから言っただろ」
「……すみません」
「謝るな」
抱えるみたいに支えられる。
「少し休め」
「……はい」
◇
少しして、
ミレーヌへ聞く。
「先生、本当に大丈夫?」
「今夜が山場ってほどじゃない。でも絶対安静」
出血。
傷。
感染。
まだ安心はできない。
「腱にも傷があるかもしれない。しばらく動かさない」
「……分かった」
「母獣と幼獣の区域は閉じる」
「オレ、残ります」
「休め」
カイル。
「でも」
「交代で入れる。お前が倒れたらミアナまで不安定になる」
「……はい」
分かる。
でも、
そばにいたい。
◇
その間にも、
ユリウスさんたちは罠を調べていた。
人工的な鋼線。
返し。
隠した跡。
ちびがよく通る場所。
「内部を知らなければ」
ユリウスさんが言う。
「この位置へ、これほど正確には設置しにくい」
正規の許可証。
記録のずれ。
内部の人間。
少しずつ、
つながり始める。
でも、
誰が、
何のためにやったのか。
まだ、
分からない。
◇
夕方、
ちびは眠っていた。
ミアナがすぐそば。
その周りには、
ヴァル、
ルウ、
ネーヴェ、
ほかのラグナたちもいる。
誰の子かなんて、
関係ない。
傷ついた、
群れの子。
だから、
全体で守る。
『自分の子じゃなくても?』
『関係ない』
カイルの言葉を思い出す。
少し離れたところには、
ルカリオもいる。
ずっと、
ちびを見ている。
ラグナは、
誰の子だからなんて考えない。
傷ついた子がいれば、
群れ全体で守る。
なのに、
人間は、
ルカリオか、
リリアナか、
どっちが王になるか、
そんなことで、
子供まで、
国獣まで、
傷つける。
「……」
ちびは生きている。
リリアナも落ち着いた。
ルカリオもここにいる。
それなのに、
誰かが、
その全部を壊そうとした。
オレは初めて、
この国の王位争いを、
面倒じゃなく、
許せないと、
思った。




