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幕間Ⅳ マリエル王妃

『朝からラグナもちょっと変だったんです』


 セナ・ロウの言葉が、


 夜になっても、


 頭から離れなかった。


「……ラグナも」


 机の上には、


 リリアナ王女について、王宮医官から上がってきた報告書。


 原因の分からない激しい泣き方。


 身体的な異常はなし。


 人工香を使用。


 その後、沈静。


 それだけを見れば、


 説明はできる。


 人工香は、


 これまでもリリアナ王女を落ち着かせている。


 けれど、


『朝からラグナもちょっと変だったんです』


 同じ日の、


 近い時間。


 偶然、


 そう言ってしまえば、


 それまで。


 でも、


 私は、


 偶然という言葉で片づけるのが、


 あまり好きではない。


「ラグナ側の記録を取り寄せて」


 側近へ言う。


「本日の分でございますか?」


「今日だけではなく、直近のものも」


「王女殿下のご不調と、何か関係があると?」


「分からないわ」


 だから、


 調べる。


「関係がないなら、それでいいのです」


「承知いたしました」


 無関係だった。


 それなら、


 何も失わない。


 見過ごしたあとで、


 意味があったと知るほうが、


 ずっと困る。



 ◇



 その日のうちに、


 護獣騎士団と国獣医官側から、


 記録の写しが届いた。


「……」


 一枚、


 目が止まる。


「随分、字が増えたわね」


「セナ・ロウの記録でございます」


 最初に調べさせたころ、


 あの子は、


 十分に文字を書けなかった。


 今もまだ、


 美しい字とは言えない。


 それでも、


 誰が読んでも、


 意味の取れる記録になっている。


 国獣医官から、


 飼育記録を使って読み書きを教わっているとは聞いていた。


 その積み重ねが、


 今、


 私の机の上にある。


「王女殿下側の記録はこちらです」


 二つを、


 並べる。


 細かな経過は、


 すでに報告を受けている。


 目を引いたのは、


 異変が始まった時刻。


「近いわね」


「はい」


 ラグナが落ち着きを失ったあと、


 リリアナ王女も激しく泣いている。


 双方とも、


 その後に人工香が使われ、


 落ち着いた。


「沈静については、人工香の作用とも考えられます」


「ええ」


 それは否定しない。


 人工香は、


 実際に効果を示している。


「けれど」


 私は、


 最初の時刻へ指を戻す。


「人工香を使う前から、双方に異変が起きている」


「……はい」


 それだけ。


 今は、


 それだけだった。



 ◇



 数日後、


 追加の報告が届いた。


「また?」


「はい」


 今度は、


 短い異変。


 ラグナ一頭が、


 一時的に落ち着きを失った。


 ほぼ同じころ、


 リリアナ王女も、


 理由なくひどくぐずった。


 二度目。


「……」


 一度なら、


 偶然。


 二度でも、


 まだ証拠にはならない。


 けれど、


「捨てるには惜しいわね」


「同じ現象とお考えですか?」


「まだ、何とも」


 私は、


 リリアナ王女の名を見る。


 ルカリオと、


 現在の測定では優劣をつけられないほど、


 濃い国獣の血。


 ルカリオには、


 すでに威圧という力が現れている。


 なら、


 リリアナ王女にも、


 何かが現れても、


 おかしくはない。


「国獣と」


 口にする。


「何らかの形で、つながっている?」


 感じ取っているのか、


 影響を与えているのか、


 逆なのか。


 まだ、


 何も分からない。


 だから、


 今は、


 名前をつける段階ではない。



 ◇



 ラグナ、


 ルカリオ、


 リリアナ王女、


 そして、


 セナ・ロウ。


 四つを、


 頭の中で並べる。


 セナの匂いは、


 ラグナを安定させる。


 濃すぎれば危険だが、


 適切なら、


 明確な作用がある。


 ルカリオにも、


 同じように強く働く。


 そして、


 もし、


 リリアナ王女とラグナの間に、


 本当に何かあるのなら。


「……」


 あの子の価値は、


 さらに変わる。


 セナ本人が、


 リリアナ王女へ、


 直接作用するとは限らない。


 でも、


 ラグナの安定が、


 王女の状態にまで関わるのなら、


 森で、


 ラグナを安定させられる人間は、


 無視できない。


 まだ、


 仮説。


 それでも、


 政治は、


 証明されてから動けばいいものばかりではない。


 そして、


 最初に浮かんだのは、


 ひどく、


 私らしい考えだった。


「婚約を」


 息を吐く。


「先に済ませておいてよかったわ」


 リリアナ王女の血の結果が出る前、


 私は、


 セナを、


 ルカリオの婚約者にした。


 もし、


 今から、


 あの子をルカリオへ結びつけようとしていたなら、


 ヴィオラ王妃側も、


 簡単には見過ごさなかったでしょう。


 判断は、


 間違っていなかった、


 そう思う。


 でも、


「婚約が成立している以上、セナ・ロウはルカリオ王子殿下側の人物です」


 側近が言った。


「そう単純なら楽なのだけれど」


「……と申しますと?」


「あの子は」


 セナの記録を見る。


「立場を与えれば従う人間ではないわ」


 婚約を持ちかけたときも、


 条件を出した。


 ラグナの世話を続ける。


 自分の人生を、


 王宮の都合だけで決めさせない。


 何より、


 ルカリオ本人へ、


 自分との婚約を望むのか、


 確かめた。


「あの子は囲われることを嫌う」


「でしたら、なおさら早めに――」


「無理に縛れば」


 首を振る。


「離れるわ」


 金を与えれば、


 こちらを選ぶ。


 身分を与えれば、


 従う。


 そんな人間なら、


 もっと簡単だった。



 ◇



「ヴィオラ王妃は、この一致を?」


「王女殿下側では、人工香によって沈静したとの認識が強いようです」


「そう」


 今は、


 人工香が効いた。


 それで説明できている。


 ヴィオラ王妃も、


 人工香の研究を、


 重視している。


 だから、


 セナを、


 リリアナ王女に必要な人間とは、


 まだ見ていない。


「でも」


 記録を閉じる。


「気づかない方ではないでしょうね」


 ヴィオラ王妃は。


 愚かではない。


 記録が増えれば、


 いずれ、


 同じ疑問へ、


 たどり着く。


「では」


 側近が言う。


「セナ・ロウを王宮近くへ移し、ルカリオ王子殿下専属とされてはいかがでしょう」


「駄目よ」


 即答した。


「ですが」


「あの子が一番大切にしているのは、ラグナの世話です」


 それを奪えば、


 必ず、


 反発する。


 それだけではない。


「もし、リリアナ王女とラグナの間に本当に何かがあるなら」


 机の記録へ視線を落とす。


「セナをラグナから離すことが、正しいとも限らない」


「……」


 ルカリオも、


 あの森では、


 よく笑う。


 ラグナも、


 セナがいることで安定している。


「森に置きなさい」


「殿下のためにも?」


「だからこそよ」


 ルカリオに必要なのは、


 婚約者という肩書だけではない。


 あの子自身だ。



 ◇



「殿下の近況についても、ご報告がございます」


「聞かせて」


 血統の儀のあと、


 ルカリオは、


 かなり疲れていた。


 教育。


 面会。


 公務。


 王位継承第一位として、


 ふさわしい姿を求められる日々。


「先日は、半日の休みを森で過ごされました」


「ええ」


 それは、


 私も許可した。


「幼獣と遊ばれ、随分楽しそうだったとのことです」


「そう」


 少しだけ、


 肩の力が抜ける。


「リリアナ王女殿下も、いずれ森へ連れていきたいと仰っていたそうです」


「……あの子が?」


「はい。王女殿下を嫌っておられるご様子はありません」


「そう」


 今度は、


 はっきり、


 安心した。


 リリアナ王女が。


 ルカリオの地位を脅かす存在になったとしても。


 あの赤ん坊自身に、


 罪などない。


 ルカリオが、


 妹を嫌っていない。


 それが、


 嬉しい。


 なのに、


 次には、


 考えてしまう。


 その優しさを、


 誰かに利用されないか。


「……」


 嫌になる。


 五歳の息子が、


 妹を大切にしている。


 ただ、


 それだけのことまで、


 政治として、


 見てしまう。


「もう一つ」


「何?」


「殿下は先日、ご自身が王でなくなった場合について、不安を口にされたそうです」


「……」


 胸が、


 痛む。


「セナ・ロウと話され、その後は落ち着かれたとのことですが」


「そう」


 私は、


 ずっと、


 言ってきた。


 あなたは王になる。


 正しく、


 強く、


 王になるために育ちなさい。


 守るためだった。


 力を失えば、


 どうなるか、


 私は知っていたから。


 けれど、


 その結果、


 王でなくなったとき、


 自分が何なのか分からないほど、


 追い詰めていたのなら。


「……セナがそばにいて、よかったわ」


 政治的な価値とは、


 別に。


 本当に、


 そう思う。


 私が、


 与えられなかった言葉を。


 あの子は、


 息子へ与えてくれた。


 だからこそ。


「……失えないわね」


 感謝するなら、


 自由にしてやるべき。


 そう考えられれば、


 もっと、


 正しい母親なのかもしれない。


 けれど、


 私の答えは、


 逆だった。



 ◇



「ヴィオラ王妃側についても、ご報告が」


「何?」


「一部の支持貴族が、独自に動いております」


「内容は?」


「国獣院関係者への接触。ルカリオ殿下の威圧について、制御できなければ王に不適格ではないかとの噂も」


「……」


「セナ・ロウとの婚約について、疑義を広げようとする者もおります」


「他には?」


 側近が、


 僅かに間を置いた。


「ラグナの森の警備体制について、情報を集めている者が」


「……警備を?」


「国獣と王位継承について調べているだけとも考えられます」


 それだけなら、


 不自然とまでは言えない。


 ラグナは、


 王家と、


 切り離せない存在。


 でも。


「誰が調べているの?」


「確認いたします」


「具体的に」


「はい」


 胸に。


 小さな引っかかりが残る。


「念のため」


 言う。


「カイル・ヴァレンにも伝えなさい」


「警備を強化するよう?」


「ええ。森への出入りと許可記録を、もう一度確認させて」


「承知いたしました」



 ◇



「ヴィオラ王妃が、何かお考えなのでは」


 側近が、


 慎重に言った。


「それはないでしょう」


 即座に答える。


「よろしいのですか?」


「あの方が、そんな粗雑な手を使うとは思えない」


 ヴィオラ王妃は、


 敵。


 だからこそ、


 ある程度は、


 分かる。


「怖いのは」


 机へ指を置く。


「本人ではなく」


 少し、


 言葉を切る。


「本人のために動く人間よ」


 王女のため、


 王家のため、


 国のため。


 正しい言葉を掲げて、


 本人すら望んでいないところまで、


 行く人間。


「セナ・ロウへの接触も増えております」


「そう」


「茶会、贈答、面会の申し出」


「本人は?」


「ほぼすべて断っております」


「そう」


 思わず、


 少し笑った。


 あの子らしい。


「それから」


 側近が、


 僅かに迷う。


「カイル・ヴァレンとの関係について」


「何か?」


「婚約成立後、ヴァレン団長は意識的に距離を取っているようです」


「……」


「仕事上の信頼関係は変わっておりません」


 祭りの日、


 二人で出かけたことは、


 知っている。


 カイル・ヴァレンは、


 セナにとって、


 信頼できる上司。


 その程度だと、


 思っていた。


「……思っていたより」


 大きいのかもしれない。


 セナにとって、


 あの男の存在が。


 でも、


 今は、


 そこまで。


 政治的な婚約は、


 セナの立場を、


 ルカリオへ結びつけた。


 心まで、


 縛れるわけではない。


 最初から、


 分かっていたこと。



 ◇



 もし、


 リリアナ王女とラグナの間に、


 本当に何かがあるなら。


 ヴィオラ王妃も、


 いずれ、


 セナを必要とするかもしれない。


 そのとき、


 セナは、


 どうする?


 ルカリオ。


 リリアナ王女。


 身分。


 金。


 安全。


 そんなもので、


 選ぶ子ではない。


 なら、


 より大切なほうを、


 選ぶ。


「……」


 ルカリオは、


 セナを慕っている。


 セナも、


 ルカリオを、


 大切には思っている。


 リリアナ王女は、


 まだ、


 ほとんど関わりのない赤ん坊。


 なら、


 ルカリオを選ぶだろう。


 そう、


 考えた。


 その考えが、


 間違っている可能性など、


 このときの私は、


 まだ、


 思っていなかった。



 ◇



「記録を続けさせて」


「王女殿下についてでしょうか」


「両方よ」


 リリアナ王女。


 ラグナ。


「特に異変があった時刻は残させなさい。今後、照合できるように」


「正式に通達を?」


「必要な範囲だけ」


 まだ、


 噂にしてはいけない。


「王女殿下の能力である可能性についても?」


「決まってもいないものに名前をつければ」


 紙を閉じる。


「それが事実として一人歩きするわ」


 今は、


 ただの可能性。


 誰かの都合のいい真実に、


 変えさせてはいけない。



 ◇



 仕事を終えたあと、


 ルカリオの部屋へ、


 足を向けた。


 もう、


 眠っている。


 五歳。


 今日も、


 王になるための勉強をして、


 疲れて、


 眠った。


「……」


 守りたい、


 その気持ちだけは、


 ずっと、


 変わらない。


 けれど、


 そのために、


 私は、


 何人の人生を、


 動かしているのだろう。


 セナを、


 婚約者にした。


 カイル・ヴァレンとの距離まで、


 変えた。


 ルカリオ自身にも、


 王であることを、


 背負わせた。


 それでも、


 やめるつもりは、


 まだなかった。



 ◇



 私室へ戻る。


 机には、


 二つの記録。


 ラグナ、


 リリアナ王女。


 その横に、


 セナ・ロウの名。


 二度目。


 まだ証拠にはならない。


 けれど、


「捨てるには惜しいわね」


 だから、


 記録を残す。


 人を見る。


 先に備える。


 それが、


 今の私にできること。


 そして、


 もし三度目が起きたなら。


 今度は、


 偶然という言葉だけでは、


 済まないでしょう。


 私は、


 眠るルカリオのいる方角へ、


 視線を向けた。


 その前に、


 備えておかなければならない。




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