第17話
ルカリオと何もしないで過ごした日から、数日。
森は、いつも通りのはずだった。
ちびは元気。
ミアナも元気。
ドルガは相変わらず食い意地が張っている。
ルカリオも、あの日以来少し機嫌がいいらしい。
王宮の面倒なことはまだ続いている。
でも、
オレの仕事は変わらない。
そう思っていた。
「……なんか変」
朝、
頭数を確認しながら、足が止まった。
「何が?」
近くにいた騎士団員が聞く。
「ラグナ」
「どこか悪そうか?」
「いや。そうじゃないんだけど」
ヴァルが、いつもなら落ち着いている時間なのに、立ったり伏せたりを繰り返している。
ルウは何度も森の外側を見る。
ネーヴェの尾も落ち着かなく動いている。
ドルガでさえ、餌を食べながら何度も顔を上げた。
「今日、みんなちょっと変じゃないですか?」
「そうか?」
「うん」
一頭だけじゃない。
何頭も、少しずつ違う。
喧嘩するほどじゃない。
暴れてもいない。
でも、
落ち着かない。
「先生」
少し離れたところにいたミレーヌを呼ぶ。
「何?」
「見てほしい」
「誰を?」
「何頭か」
「何頭か?」
「……みんなかも」
ミレーヌの眉が上がった。
◇
診てもらった。
熱、なし。
外傷、なし。
呼吸、問題なし。
食欲も完全に落ちているわけじゃない。
ミアナも、ちびも身体的には異常なし。
「病気って感じじゃないわね」
ミレーヌが言う。
「でも落ち着かない」
「そうね」
やっぱり、オレだけの気のせいじゃないらしい。
「記録ある?」
「あります」
詰所へ戻って、飼育記録を出す。
最近は前よりずっと読めるし、書ける。
食事。
睡眠。
排泄。
行動。
天気。
人工香を使った日。
そういうものを少しずつ、毎日残している。
「随分読めるようになったじゃない」
ミレーヌが横から覗く。
「字の話は後でいいです」
「褒めてるのよ?」
「今それどころじゃない」
「はいはい」
過去数日の記録を確認する。
食欲も睡眠も、昨日までは普通。
「今日だけ?」
「今のところ」
「外から何か入った形跡は?」
カイルが聞く。
「警備記録ではありません」
騎士団員が答える。
「大きな音も?」
「特には」
オレもラグナたちを見る。
近づけば少しは落ち着く。
でも、いつものように完全に力が抜ける感じじゃない。
「……何かに反応してる?」
「何に?」
「分かりません」
それが、一番気持ち悪い。
◇
「セナがもっと近くにいれば、落ち着くんじゃないか?」
隊員の一人が言った。
「駄目」
ミレーヌが即答した。
「濃くすればいいってものじゃないの」
ルカリオに噛まれたときに分かった。
オレの匂いは、適度ならラグナを落ち着かせる。
でも濃すぎれば、逆に興奮させることがある。
「オレもそれは嫌です」
あれをラグナ相手にやるとか怖すぎる。
「なら」
カイルがラグナたちを見る。
「人工香を使う」
「そうね。規定量で、一部区域だけ」
ミレーヌも頷いた。
少しして、ユリウスさんまで呼ばれてきた。
「問題があるときだけ呼ばれる気がするんですけど」
「監察とはそういう仕事です」
「大変ですね」
「他人事のように言わないでください」
相変わらずだ。
◇
人工香が薄く使われる。
オレは少し離れて様子を見た。
しばらくすると。
歩き回っていたヴァルが伏せた。
ルウも森の外を見るのをやめる。
ドルガはようやく餌へ集中した。
「……効いてる」
「そうね」
「だから、無意味ではないと言っているでしょう」
ユリウスさんが言う。
「分かってますよ」
人工香には、ちゃんと効果がある。
それは間違いない。
ただ。
「……先生」
「何?」
「まだ、ちょっと変じゃない?」
一頭が耳を動かす。
別の一頭も、しばらくするとまた顔を上げた。
さっきよりは落ち着いている。
でも、
いつもの穏やかさとは少し違う。
「効いてはいるわね」
ミレーヌがラグナを見る。
「今は、それ以上は言えないわ」
「……はい」
理由が分からないままなのが、引っかかった。
◇
昼前、
王宮から使者が来た。
「セナ・ロウ殿へ」
「またオレ?」
「今回は王宮医官より、相談がございます」
「医官?」
「リリアナ王女殿下が、朝からひどくお泣きになっております」
「赤ちゃんだからじゃ?」
「通常より激しく、原因が分からないとのことです」
熱はない。
空腹でもない。
医官が確認できる範囲では、身体にも異常がない。
それで、
国獣の血が濃い王族に対する、オレの匂いの影響を確認したいらしい。
「近づいて大丈夫なんですか?」
「抑香魔道具を使用し、十分な距離を取っていただきます。反応が強い場合は、すぐ退室を」
「それなら」
カイルも同行することになった。
森を出る前に、もう一度ラグナたちを見る。
人工香のおかげか、朝よりはかなり落ち着いていた。
「今日の時間、残しておいて」
ミレーヌが言った。
「最初に変だと思った時間。人工香を使った時間。落ち着いた時間」
「全部?」
「全部」
「……はい」
書くことが増えた。
でも、
今日は残しておいたほうがいい。
何となく、そう思った。
◇
リリアナがいる部屋へ着く前から、泣き声が聞こえた。
「……すご」
本当にかなり激しい。
部屋へ入る。
ヴィオラ王妃がリリアナを抱いていた。
明らかに疲れて見える。
「急に呼び立てて申し訳ありません」
「いえ」
リリアナは顔を真っ赤にして泣いている。
王宮医官からも、熱なし、授乳済み、身体にも目立つ異常なしと説明される。
「……オレ、何すれば?」
「今は、そこにいてください」
「それだけ?」
「反応を確認します」
動物なら。
耳。
尾。
呼吸。
身体の向き。
見れば何となく分かることもある。
人間の赤ちゃんは、完全に専門外だ。
◇
オレは抑香魔道具をつけたまま、十分離れて待つ。
リリアナは泣き続けている。
こっちを見るわけでもない。
やっぱり、
オレが来ただけでどうにかなる感じじゃない。
やがて、王宮医官が人工香を調整した。
規定量を、安全を確認しながら使う。
少し待つ。
泣き声が弱くなった。
「……あ」
さらに小さくなる。
最後には、眠った。
ヴィオラ王妃がほっと息を吐く。
「やはり、人工香が有効なようです」
医官が言った。
「……じゃあ」
オレ、必要なかったんじゃ。
そう思った。
「これが安定して使えるようになれば、多くの問題が解決しますね」
ヴィオラ王妃が人工香の器具を見る。
「長期的な影響については、まだ検証中です」
カイルが答える。
「承知しています。だからこそ、研究を進める必要があります」
言っていることは分かる。
オレ一人が、どこにでも行けるわけじゃない。
人工香が誰でも使えて、ちゃんと効くなら。
そのほうがいい。
「森の様子は」
ヴィオラ王妃が聞いた。
「ラグナはどうなのです?」
「今日ですか?」
「ええ」
「朝はちょっと落ち着かなかったですけど、人工香を使ってだいぶ戻りました」
「……そう」
一瞬、
何かを考える顔をした。
そのあと、マリエル王妃まで部屋へ来た。
「リリアナの様子はいかがです?」
「今は眠りました」
「それはよかった」
それから、マリエル王妃の視線がオレで止まる。
「セナまで?」
「王宮医官から呼ばれました。でも結局、人工香で落ち着きましたよ」
「そうなの」
そこで、
何となく、森のことも口にした。
「朝からラグナもちょっと変だったんです」
「ラグナも?」
「はい」
マリエル王妃の目が、ほんの少しだけ動いた。
「いつごろから?」
「朝の頭数確認くらいです」
「……そう」
それ以上は何も言わなかった。
◇
森へ戻ると、ラグナたちは朝よりずっと穏やかだった。
ヴァルは伏せている。
ルウも落ち着いている。
ドルガは、また餌のことしか考えていない。
ちびも元気に遊んでいる。
「戻ってる」
「そうね」
ミレーヌの横で、今日の記録を開く。
「最初に変だと思ったのは?」
「このくらい」
時刻を書く。
「人工香を使ったのは?」
「ここ」
「落ち着いたのは?」
「このあたりだと思います」
一つずつ残す。
そこへ、カイルが王宮側の記録を持ってきた。
「王女殿下の経過も預かってきた」
「見てもいいんです?」
「照合のためだ」
リリアナが激しく泣き始めた時間。
人工香を使った時間。
眠った時間。
並べる。
「……」
手が止まった。
「先生」
「何?」
「これ」
ラグナが落ち着かなくなった時間。
その少しあとに、リリアナが激しく泣き始めている。
ぴったりじゃない。
でも。
「近いですね」
「近いわね」
それから、
双方とも人工香を使用したあとに落ち着いている。
「じゃあ、やっぱり人工香が効いただけ?」
「鎮まった理由としては十分考えられるわ」
「じゃあ、偶然?」
「それはまだ分からない」
「……」
ミレーヌが、最初の二つの時刻を指した。
「人工香を使ったのは、異変が起きたあとでしょう」
「あ」
「だから、落ち着いた時刻が似ていることと、異変が近い時間に始まったことは分けて考える」
「……なるほど」
「一回なら偶然で済む」
ミレーヌが記録を閉じる。
「だから、残すのよ」
ユリウスさんも記録を見る。
「現段階では、関連があるとも、ないとも言えません」
「やっぱりそう言うんですね」
「証拠がありませんから」
「でも捨てない?」
「可能性まで捨てる必要もありません」
人工香の使用量。
時刻。
ラグナの反応。
その日の天候。
ほかの刺激。
これからは、もう少し細かく残すことになった。
「書くこと増えた……」
「勉強になっていいじゃない」
「先生、字を覚えさせるために増やしてないですよね?」
「そんなわけないでしょ」
「顔が怪しい」
その横で、
ちびが記録用紙へ鼻を近づけた。
「……こら」
ぱく。
「食うな!」
紙を咥えて逃げる。
「待て! それ大事なやつ!」
ちびは完全に遊びだと思っている。
ルウまで何事かと寄ってきた。
「増えるな!」
「セナ、破られるぞ」
「分かってます!」
カイルがちびの前へ回る。
「そっち行った!」
「先生、笑ってないで!」
結局、
紙の端は少し、よだれまみれになった。
「……最悪」
「読めるからいいでしょ」
「よくないです」
でも、
いつもの森に戻ったみたいで、
少しだけ安心した。
◇
仕事が終わるころ、
カイルと、少しだけ二人になった。
「最近、変なことばっかりですね」
「王宮か、ラグナか?」
「両方」
「そうだな」
隣にいる。
好きだと認めてから、
こういう何でもない距離まで、前より気になるようになった。
「疲れてないか?」
「オレ?」
「ああ。森と王宮を行ったり来たりしている」
「これくらいなら大丈夫です」
「無理なら言え」
「……はい」
こういうところ、
前から変わってない。
なのに、
今は、前より嬉しい。
それが、
少し困る。
オレはまだ、ルカリオの婚約者。
カイルが距離を取った理由も知っている。
好きだと分かってしまったから、
離れている距離まで、
前よりずっと気になるようになった。
◇
数日後、
今度はネーヴェが、短い時間だけ落ち着きを失った。
低く唸る。
場所を変える。
「ネーヴェ?」
様子を見る。
でも、
少しすると、何事もなかったように伏せた。
「……何だったんだ」
短い。
本当に、それだけ。
前回のことがある。
だから、
時間だけは書いておいた。
◇
午後、
王宮から簡単な報告が来た。
リリアナ王女が、一時的に激しくぐずった。
ほどなく沈静。
「……」
記録を見る。
ネーヴェが落ち着かなかった時間。
近い。
「先生」
「見せて」
ミレーヌが前回の記録と並べる。
一度目、
複数のラグナに異変。
近い時間に、リリアナが激しく泣いた。
二度目、
ネーヴェが短時間だけ落ち着きを失う。
近い時間に、リリアナがぐずる。
「……二回」
「二回ね」
「偶然じゃない?」
「まだ言えない」
「二回もあるのに?」
「二回しかないとも言える」
ミレーヌが答える。
「昨日は双方に人工香も使っている。今日は異変自体が短すぎる」
「じゃあ」
「今は、記録が二つあるだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
何でも、
すぐ答えにしない。
ミレーヌらしい。
「どっちが先なんですかね」
「それも分からない」
「ラグナが変になるから、王女殿下が泣くのか」
「分からない」
「王女殿下が泣くからラグナが変になるのか」
「分からない」
「何も分かんないですね」
「だから残すの」
記録を指す。
「次があったときに比べられるように」
「……はい」
次、
そんなもの、
ないほうがいいけど。
◇
夕方、
ラグナたちは穏やかだった。
ちびはミアナのそばで遊んでいる。
王宮からも、リリアナは今は眠っていると知らせが来た。
何も、
問題は起きていない。
机の上には、
二日分の記録。
近い時間に起きた、
似た異変。
でも、
それが何を意味するのかは、
まだ誰にも分からない。
一度なら偶然。
二度なら――
まだ、
偶然かもしれない。
オレは、その紙を飼育記録の間に挟んだ。
三度目がないことを、
そのときは、
何となく願っていた。




