幕間Ⅲ ヴィオラ王妃
部屋へ戻って、
ようやく、
私は娘の顔を、ゆっくり見ることができた。
リリアナは眠っている。
小さな手、
柔らかな頬、
規則正しく上下する胸。
血統の儀で泣いたことなど、もう忘れてしまったような顔で。
「……あなたは何も知らないのね」
当然だ。
生まれて、
まだ二十一日。
眠る、
泣く、
乳を飲む。
抱けば温かい。
それだけ。
昨日までと、
何一つ変わっていない。
今朝まで、
この子は、
ただ、生まれたばかりの王女だった。
それが、
たった一滴の血で、
次の王になるかもしれない子供として、
見られるようになった。
◇
結果が出た瞬間のことを思い返す。
『ルカリオ殿下の記録値との差を確認できません』
予想していなかった。
いいえ。
この子が、
濃い血を持って生まれる可能性は、
十分に考えていた。
私の家には、
代々、
国獣の血が濃く現れる者がいる。
だからこそ、
今日という日を、
何通りも想定してきた。
ルカリオ殿下より薄い場合、
近い場合、
上回る場合。
けれど、
優劣そのものを測れないほど、
同等。
そこまでは、
考えていなかった。
「……もう少し」
眠る頬へ指を添える。
「もう少しだけ、薄ければ」
そんなことを、
一瞬、
思ってしまった。
そうであれば、
この子は、
ただの王女として、
もっと静かに生きられたかもしれない。
ルカリオ殿下と比べられることも、
誰かの野心を背負わされることも、
少なかったのかもしれない。
けれど、
私は、
それが幸福だとも言い切れない。
王族として生まれた以上、
何も持たない者が、
必ず安全でいられるわけではない。
力が弱ければ、
利用されない、
狙われない、
そんな単純な世界ではない。
力は、
危険を呼ぶ。
同時に、
身を守る盾にもなる。
「……あなたが持って生まれたものですものね」
この子は、
まだ何も望んでいない。
王位が欲しいとも、
いらないとも、
言っていない。
だからこそ、
今、
他人の都合で、
最初から選択肢を奪わせるわけにはいかない。
この子に、
王位を得る資格があるのなら、
いつか、
自分の意思で選べる日までは、
その権利を残しておく。
絶対に王にする、
そういうことではない。
王になるか、
ならないか、
それを決める権利まで、
誰かに奪わせない。
それが、
今の私にできることだ。
◇
ルカリオ殿下の顔を思い出す。
五歳。
まだ、
ほんの幼い子供。
あの子もまた、
濃い血を持って生まれた。
ただそれだけで、
王位継承権第一位となった。
周囲から、
次の王として育てられている。
あの子自身が、
そう望んだからではない。
「……似たようなものですわね」
ルカリオ殿下が、
悪いわけではない。
あの子を、
引きずり下ろしたいわけでもない。
リリアナの権利を守ることと、
ルカリオ殿下を傷つけることは、
同じではない。
問題なのは、
二人の子供を、
自分たちの都合で使おうとする大人たち。
――その中に、
これから、
私自身も入らなければならない。
皮肉なものだ。
◇
「王妃殿下」
控えめな声。
「入りなさい」
側近が入室する。
その顔を見ただけで、
もう、
何かが動いているのだと分かった。
「すでに複数の家から、お祝いと……今後のご支援について申し出が届いております」
「今後の?」
「はい」
「早いわね」
血統の儀が終わって、
まだ、
どれほど経ったというの。
「朝までは」
私は娘を見る。
「皆、この子が健やかに育つことを願っていたはずでしょう?」
「……」
「それが数時間で、次の王の話?」
「王女殿下のお血筋が、それほど――」
「まだ何も決まっておりません」
言葉を遮る。
「お忘れなく」
「……はい」
同等、
それが、
一番厄介だ。
リリアナが、
明確にルカリオ殿下を上回っていれば、
話はまだ単純だった。
逆も、
同じ。
けれど、
差が測れない。
だから、
誰もが、
自分に都合のいい理屈を作れる。
現在の第一位を維持すべき。
同値なら、
将来発現する能力で決めるべき。
家格を考慮すべき。
年長者を優先すべき。
陛下がお決めになるべき。
どれも、
一見、
もっともらしく聞こえる。
そして、
そのどれもが、
誰かの都合を含んでいる。
◇
「すでに一部では、王太子位について早急に――」
「必要ありません」
「ですが」
「ルカリオ殿下を引きずり下ろせとは申しておりません」
はっきり言う。
「リリアナの権利を守ることと、あの子を傷つけることは別です」
「……承知いたしました」
「本当に?」
相手を見る。
「王女殿下のためにと、皆が熱を上げておりますので」
「だからこそです」
王女殿下のため、
便利な言葉だ。
それを掲げれば、
どんなことでも、
正しい行いに見えてしまう。
「リリアナのためという言葉を、勝手な行動の免罪符にすることは許しません」
側近が深く頭を下げた。
「ご実家にもお伝えします」
「ええ」
私の実家は、
大きな力だ。
家格、
財力、
人脈。
それを、
私は生まれたときから持っていた。
使える力があるなら、
使う。
それは、
私にとって当然のことだった。
持つ者には、
持つ者の責任がある。
ただし、
力は、
使えば必ず、
思った方向だけへ動くとは限らない。
◇
「ご実家に近い一部の方々からは、ルカリオ殿下の継承権そのものを再考すべきとの声も」
表情が冷えるのを、
自分でも感じた。
「誰が?」
「複数名おります」
「余計なことをしないよう伝えなさい」
「しかし、王女殿下のためには――」
「先ほど申し上げたことが聞こえませんでしたか?」
「……失礼いたしました」
支持者。
そう呼ばれていても、
その全員が、
私のために動いているわけではない。
自分の家。
将来の官職。
王が変わったあとの恩賞。
子供の縁談。
財産。
それぞれ、
欲しいものがある。
私が、
リリアナを守る。
そう言ったところで、
同じ旗の下に立つ全員が、
同じ意味で、
娘を守ろうとするわけではない。
だから、
制御しなければならない。
◇
「マリエル王妃は」
ふと、
その名が口から出る。
「血統の儀より前に動かれましたわね」
側近が顔を上げた。
「セナ・ロウの件でございますか」
「ええ」
外国から来た平民。
十八歳。
動物に好かれる特殊な体質。
国獣ラグナを、
驚くほど安定させる。
ルカリオ殿下にも、
その匂いは強く作用する。
国獣院の監察を受け、
勤務継続を認められた。
特別飼育官として、護獣騎士団とともに勤務し、
カイル・ヴァレンの信頼も得ている。
「まさか」
少し笑う。
「偶然、婚約させたわけでもないでしょう」
リリアナの血の結果が出る前、
マリエル王妃は、
既に、
セナ・ロウをルカリオ殿下へ結びつけた。
もし、
私の子が、
ルカリオ殿下を脅かすほどの血を持っていたら、
そのとき、
何が必要になるか、
先に考えて、
動いていた。
「さすがね」
心からそう思う。
あの方を、
出自だけで侮る人間ほど、
愚かなものはいない。
私には、
家があった。
資金があった。
親族がいた。
生まれたときから、
多くのものを持っていた。
マリエル王妃には、
ほとんど何もなかった。
それでも、
今、
第一王妃として、
私の前にいる。
持たない者が、
一つずつ積み上げ、
あそこまで来た。
「一手先ではないわね」
「はい?」
「二手先を見ている」
だからこそ、
次に何をしてくるのか、
考えなければならない。
◇
「こちらも、セナ・ロウを取り込むべきではないでしょうか」
側近の言葉に、
視線を向ける。
「何のために?」
「王女殿下の安全のためです」
「現時点で?」
「彼の匂いは、ルカリオ殿下にも作用すると」
「だからリリアナにも必要だと?」
「可能性はございます」
私は、
眠る娘を見る。
「今のところ、この子には大きな異常はありません」
医官も、
慎重に見ている。
人工香もある。
「必要もない人間を巡って、マリエル王妃と争うほど暇ではありません」
「しかし」
「血が同等だからといって、必要なものまで同じとは限りません」
ルカリオ殿下には。
すでに「威圧」という力が現れている。
リリアナには、
まだ、
何もない。
血統の儀では、
能力の種類までは分からない。
この子が、
どんな力を持つのか。
あるいは、
何も発現しないのか、
まだ、
誰にも分からない。
◇
人工香。
研究は、
続ける価値がある。
セナ・ロウという、
一人の特殊な少年に依存するより、
誰でも、
条件を守れば、
一定の効果を再現できる方法のほうが、
国家にとって、
ずっと健全だ。
研究に、
資金が必要なら出せる。
国獣院とも、
医官とも、
正式に協力できる。
もちろん、
安全性の確認は必要。
国獣医官たちが、
長期的な使用に慎重なのも理解している。
それでも、
研究を止める理由にはならない。
一人の体質だけに、
国が頼るほうが、
よほど危うい。
◇
「……ふぇ」
小さな声、
話を止める。
「リリアナ」
目を覚ました。
眉を寄せ、
泣き始める。
「乳母をお呼びいたします」
「いいわ」
立ち上がる。
「私が」
抱き上げる。
小さな身体、
軽い。
「どうしたの?」
もちろん、
答えはない。
泣く、
それだけ。
侍女が、
部屋の人工香を、
ほんの少しだけ調整した。
しばらくすると、
泣き声が、
少しずつ弱くなる。
「……」
やがて、
また、
目を閉じた。
「やはり」
頬を撫でる。
「効いているようね」
「はい」
人工香。
少なくとも、
今のこの子には、
役に立っている。
そう見えた。
◇
「この子には」
誰に聞かせるでもなく、
呟く。
「私がいる」
まだ、
何も選べない。
だから、
選べる日が来るまで、
私が守る。
それでいい。
――けれど、
ふと、
思う。
王にならなくても、
この子が、
幸せなら、
それで。
「……」
そんな簡単な世界なら、
よかった。
今、
この段階で、
こちらから、
王位など望まないと宣言すれば、
それで争いは終わるかもしれない。
けれど、
王族の世界で、
権利を自ら手放すことは。
必ずしも自由にはつながらない。
弱い、
退いた、
守る力がない。
そう見られれば、
この子が将来、
どのような扱いを受けるか、
分からない。
マリエル王妃が、
ルカリオ殿下を守るため、
セナ・ロウを先に囲ったように。
私も、
この子を守るため、
持っているものを、
使わなければならない。
「……同じなのかもしれませんわね」
方法は、
違う。
考え方も、
違う。
でも、
子供を守るため、
自分にできることをする。
その一点だけなら、
あの方も、
私も、
そう遠くないのかもしれない。
理解できることと、
譲れることは、
別だけれど。
◇
「王妃殿下」
側近が、
最後の確認をする。
「今後の方針はいかがいたしましょう」
「まず」
リリアナを抱いたまま、
答える。
「陛下と評議の判断を待ちます」
「はい」
「同時に、リリアナの継承上の権利が、不当に軽んじられないよう準備を」
「承知いたしました」
「ただし」
強く、
言う。
「勝手な声明は出させないで」
「はい」
「ルカリオ殿下や、その周囲を傷つけるような動きも認めません」
「……はい」
「リリアナのため」
その言葉を、
もう一度、
口にする。
「その名を使えば何をしても許されるなどと、誰にも思わせないこと」
「承知いたしました」
それでいい。
私は、
娘のために、
動く。
けれど、
娘を理由に、
誰かが勝手に、
暴走することまでは、
許さない。
◇
側近たちが下がる。
また、
静かになった。
腕の中で、
リリアナが眠る。
今日、
何が起きたのか、
何も知らない。
王冠も。
王位も。
派閥も。
ルカリオ殿下という名さえ、
まだ、
知らない。
小さな手を、
指先へ近づける。
きゅ、
握られた。
「……」
この手で、
いつか、
何を選ぶのだろう。
王位を望むのか、
望まないのか。
別のものを、
欲しがるのか。
今は、
誰にも分からない。
この子自身にも、
それを決める日が来るまでは、
守る。
この子が、
持って生まれたものを、
誰かの都合で、
先に奪わせない。
リリアナのものを、
誰にも、
勝手に奪わせはしない。




