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17/25

幕間Ⅲ ヴィオラ王妃

 部屋へ戻って、


 ようやく、


 私は娘の顔を、ゆっくり見ることができた。


 リリアナは眠っている。


 小さな手、


 柔らかな頬、


 規則正しく上下する胸。


 血統の儀で泣いたことなど、もう忘れてしまったような顔で。


「……あなたは何も知らないのね」


 当然だ。


 生まれて、


 まだ二十一日。


 眠る、


 泣く、


 乳を飲む。


 抱けば温かい。


 それだけ。


 昨日までと、


 何一つ変わっていない。


 今朝まで、


 この子は、


 ただ、生まれたばかりの王女だった。


 それが、


 たった一滴の血で、


 次の王になるかもしれない子供として、


 見られるようになった。



 ◇



 結果が出た瞬間のことを思い返す。


『ルカリオ殿下の記録値との差を確認できません』


 予想していなかった。


 いいえ。


 この子が、


 濃い血を持って生まれる可能性は、


 十分に考えていた。


 私の家には、


 代々、


 国獣の血が濃く現れる者がいる。


 だからこそ、


 今日という日を、


 何通りも想定してきた。


 ルカリオ殿下より薄い場合、


 近い場合、


 上回る場合。


 けれど、


 優劣そのものを測れないほど、


 同等。


 そこまでは、


 考えていなかった。


「……もう少し」


 眠る頬へ指を添える。


「もう少しだけ、薄ければ」


 そんなことを、


 一瞬、


 思ってしまった。


 そうであれば、


 この子は、


 ただの王女として、


 もっと静かに生きられたかもしれない。


 ルカリオ殿下と比べられることも、


 誰かの野心を背負わされることも、


 少なかったのかもしれない。


 けれど、


 私は、


 それが幸福だとも言い切れない。


 王族として生まれた以上、


 何も持たない者が、


 必ず安全でいられるわけではない。


 力が弱ければ、


 利用されない、


 狙われない、


 そんな単純な世界ではない。


 力は、


 危険を呼ぶ。


 同時に、


 身を守る盾にもなる。


「……あなたが持って生まれたものですものね」


 この子は、


 まだ何も望んでいない。


 王位が欲しいとも、


 いらないとも、


 言っていない。


 だからこそ、


 今、


 他人の都合で、


 最初から選択肢を奪わせるわけにはいかない。


 この子に、


 王位を得る資格があるのなら、


 いつか、


 自分の意思で選べる日までは、


 その権利を残しておく。


 絶対に王にする、


 そういうことではない。


 王になるか、


 ならないか、


 それを決める権利まで、


 誰かに奪わせない。


 それが、


 今の私にできることだ。



 ◇



 ルカリオ殿下の顔を思い出す。


 五歳。


 まだ、


 ほんの幼い子供。


 あの子もまた、


 濃い血を持って生まれた。


 ただそれだけで、


 王位継承権第一位となった。


 周囲から、


 次の王として育てられている。


 あの子自身が、


 そう望んだからではない。


「……似たようなものですわね」


 ルカリオ殿下が、


 悪いわけではない。


 あの子を、


 引きずり下ろしたいわけでもない。


 リリアナの権利を守ることと、


 ルカリオ殿下を傷つけることは、


 同じではない。


 問題なのは、


 二人の子供を、


 自分たちの都合で使おうとする大人たち。


 ――その中に、


 これから、


 私自身も入らなければならない。


 皮肉なものだ。



 ◇



「王妃殿下」


 控えめな声。


「入りなさい」


 側近が入室する。


 その顔を見ただけで、


 もう、


 何かが動いているのだと分かった。


「すでに複数の家から、お祝いと……今後のご支援について申し出が届いております」


「今後の?」


「はい」


「早いわね」


 血統の儀が終わって、


 まだ、


 どれほど経ったというの。


「朝までは」


 私は娘を見る。


「皆、この子が健やかに育つことを願っていたはずでしょう?」


「……」


「それが数時間で、次の王の話?」


「王女殿下のお血筋が、それほど――」


「まだ何も決まっておりません」


 言葉を遮る。


「お忘れなく」


「……はい」


 同等、


 それが、


 一番厄介だ。


 リリアナが、


 明確にルカリオ殿下を上回っていれば、


 話はまだ単純だった。


 逆も、


 同じ。


 けれど、


 差が測れない。


 だから、


 誰もが、


 自分に都合のいい理屈を作れる。


 現在の第一位を維持すべき。


 同値なら、


 将来発現する能力で決めるべき。


 家格を考慮すべき。


 年長者を優先すべき。


 陛下がお決めになるべき。


 どれも、


 一見、


 もっともらしく聞こえる。


 そして、


 そのどれもが、


 誰かの都合を含んでいる。



 ◇



「すでに一部では、王太子位について早急に――」


「必要ありません」


「ですが」


「ルカリオ殿下を引きずり下ろせとは申しておりません」


 はっきり言う。


「リリアナの権利を守ることと、あの子を傷つけることは別です」


「……承知いたしました」


「本当に?」


 相手を見る。


「王女殿下のためにと、皆が熱を上げておりますので」


「だからこそです」


 王女殿下のため、


 便利な言葉だ。


 それを掲げれば、


 どんなことでも、


 正しい行いに見えてしまう。


「リリアナのためという言葉を、勝手な行動の免罪符にすることは許しません」


 側近が深く頭を下げた。


「ご実家にもお伝えします」


「ええ」


 私の実家は、


 大きな力だ。


 家格、


 財力、


 人脈。


 それを、


 私は生まれたときから持っていた。


 使える力があるなら、


 使う。


 それは、


 私にとって当然のことだった。


 持つ者には、


 持つ者の責任がある。


 ただし、


 力は、


 使えば必ず、


 思った方向だけへ動くとは限らない。



 ◇



「ご実家に近い一部の方々からは、ルカリオ殿下の継承権そのものを再考すべきとの声も」


 表情が冷えるのを、


 自分でも感じた。


「誰が?」


「複数名おります」


「余計なことをしないよう伝えなさい」


「しかし、王女殿下のためには――」


「先ほど申し上げたことが聞こえませんでしたか?」


「……失礼いたしました」


 支持者。


 そう呼ばれていても、


 その全員が、


 私のために動いているわけではない。


 自分の家。


 将来の官職。


 王が変わったあとの恩賞。


 子供の縁談。


 財産。


 それぞれ、


 欲しいものがある。


 私が、


 リリアナを守る。


 そう言ったところで、


 同じ旗の下に立つ全員が、


 同じ意味で、


 娘を守ろうとするわけではない。


 だから、


 制御しなければならない。



 ◇



「マリエル王妃は」


 ふと、


 その名が口から出る。


「血統の儀より前に動かれましたわね」


 側近が顔を上げた。


「セナ・ロウの件でございますか」


「ええ」


 外国から来た平民。


 十八歳。


 動物に好かれる特殊な体質。


 国獣ラグナを、


 驚くほど安定させる。


 ルカリオ殿下にも、


 その匂いは強く作用する。


 国獣院の監察を受け、


 勤務継続を認められた。


 特別飼育官として、護獣騎士団とともに勤務し、


 カイル・ヴァレンの信頼も得ている。


「まさか」


 少し笑う。


「偶然、婚約させたわけでもないでしょう」


 リリアナの血の結果が出る前、


 マリエル王妃は、


 既に、


 セナ・ロウをルカリオ殿下へ結びつけた。


 もし、


 私の子が、


 ルカリオ殿下を脅かすほどの血を持っていたら、


 そのとき、


 何が必要になるか、


 先に考えて、


 動いていた。


「さすがね」


 心からそう思う。


 あの方を、


 出自だけで侮る人間ほど、


 愚かなものはいない。


 私には、


 家があった。


 資金があった。


 親族がいた。


 生まれたときから、


 多くのものを持っていた。


 マリエル王妃には、


 ほとんど何もなかった。


 それでも、


 今、


 第一王妃として、


 私の前にいる。


 持たない者が、


 一つずつ積み上げ、


 あそこまで来た。


「一手先ではないわね」


「はい?」


「二手先を見ている」


 だからこそ、


 次に何をしてくるのか、


 考えなければならない。



 ◇



「こちらも、セナ・ロウを取り込むべきではないでしょうか」


 側近の言葉に、


 視線を向ける。


「何のために?」


「王女殿下の安全のためです」


「現時点で?」


「彼の匂いは、ルカリオ殿下にも作用すると」


「だからリリアナにも必要だと?」


「可能性はございます」


 私は、


 眠る娘を見る。


「今のところ、この子には大きな異常はありません」


 医官も、


 慎重に見ている。


 人工香もある。


「必要もない人間を巡って、マリエル王妃と争うほど暇ではありません」


「しかし」


「血が同等だからといって、必要なものまで同じとは限りません」


 ルカリオ殿下には。


 すでに「威圧」という力が現れている。


 リリアナには、


 まだ、


 何もない。


 血統の儀では、


 能力の種類までは分からない。


 この子が、


 どんな力を持つのか。


 あるいは、


 何も発現しないのか、


 まだ、


 誰にも分からない。



 ◇



 人工香。


 研究は、


 続ける価値がある。


 セナ・ロウという、


 一人の特殊な少年に依存するより、


 誰でも、


 条件を守れば、


 一定の効果を再現できる方法のほうが、


 国家にとって、


 ずっと健全だ。


 研究に、


 資金が必要なら出せる。


 国獣院とも、


 医官とも、


 正式に協力できる。


 もちろん、


 安全性の確認は必要。


 国獣医官たちが、


 長期的な使用に慎重なのも理解している。


 それでも、


 研究を止める理由にはならない。


 一人の体質だけに、


 国が頼るほうが、


 よほど危うい。



 ◇



「……ふぇ」


 小さな声、


 話を止める。


「リリアナ」


 目を覚ました。


 眉を寄せ、


 泣き始める。


「乳母をお呼びいたします」


「いいわ」


 立ち上がる。


「私が」


 抱き上げる。


 小さな身体、


 軽い。


「どうしたの?」


 もちろん、


 答えはない。


 泣く、


 それだけ。


 侍女が、


 部屋の人工香を、


 ほんの少しだけ調整した。


 しばらくすると、


 泣き声が、


 少しずつ弱くなる。


「……」


 やがて、


 また、


 目を閉じた。


「やはり」


 頬を撫でる。


「効いているようね」


「はい」


 人工香。


 少なくとも、


 今のこの子には、


 役に立っている。


 そう見えた。



 ◇



「この子には」


 誰に聞かせるでもなく、


 呟く。


「私がいる」


 まだ、


 何も選べない。


 だから、


 選べる日が来るまで、


 私が守る。


 それでいい。


 ――けれど、


 ふと、


 思う。


 王にならなくても、


 この子が、


 幸せなら、


 それで。


「……」


 そんな簡単な世界なら、


 よかった。


 今、


 この段階で、


 こちらから、


 王位など望まないと宣言すれば、


 それで争いは終わるかもしれない。


 けれど、


 王族の世界で、


 権利を自ら手放すことは。


 必ずしも自由にはつながらない。


 弱い、


 退いた、


 守る力がない。


 そう見られれば、


 この子が将来、


 どのような扱いを受けるか、


 分からない。


 マリエル王妃が、


 ルカリオ殿下を守るため、


 セナ・ロウを先に囲ったように。


 私も、


 この子を守るため、


 持っているものを、


 使わなければならない。


「……同じなのかもしれませんわね」


 方法は、


 違う。


 考え方も、


 違う。


 でも、


 子供を守るため、


 自分にできることをする。


 その一点だけなら、


 あの方も、


 私も、


 そう遠くないのかもしれない。


 理解できることと、


 譲れることは、


 別だけれど。



 ◇



「王妃殿下」


 側近が、


 最後の確認をする。


「今後の方針はいかがいたしましょう」


「まず」


 リリアナを抱いたまま、


 答える。


「陛下と評議の判断を待ちます」


「はい」


「同時に、リリアナの継承上の権利が、不当に軽んじられないよう準備を」


「承知いたしました」


「ただし」


 強く、


 言う。


「勝手な声明は出させないで」


「はい」


「ルカリオ殿下や、その周囲を傷つけるような動きも認めません」


「……はい」


「リリアナのため」


 その言葉を、


 もう一度、


 口にする。


「その名を使えば何をしても許されるなどと、誰にも思わせないこと」


「承知いたしました」


 それでいい。


 私は、


 娘のために、


 動く。


 けれど、


 娘を理由に、


 誰かが勝手に、


 暴走することまでは、


 許さない。



 ◇



 側近たちが下がる。


 また、


 静かになった。


 腕の中で、


 リリアナが眠る。


 今日、


 何が起きたのか、


 何も知らない。


 王冠も。


 王位も。


 派閥も。


 ルカリオ殿下という名さえ、


 まだ、


 知らない。


 小さな手を、


 指先へ近づける。


 きゅ、


 握られた。


「……」


 この手で、


 いつか、


 何を選ぶのだろう。


 王位を望むのか、


 望まないのか。


 別のものを、


 欲しがるのか。


 今は、


 誰にも分からない。


 この子自身にも、


 それを決める日が来るまでは、


 守る。


 この子が、


 持って生まれたものを、


 誰かの都合で、


 先に奪わせない。


 リリアナのものを、


 誰にも、


 勝手に奪わせはしない。




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