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第11話

 婚約が正式に発表されたのは数週間後だった。


 ラグナの森は何も変わらなかった。


「お前は何も変わらないな」


 しゃがむと、ちびがよたよた走ってくる。


 まだ成獣みたいに滑らかには動けない。


 途中で一度ふらつきながら、それでもオレのところまで来て、小さな身体を膝へ押しつけた。


「元気だな」


 頭を撫でる。


 毛は生まれたばかりのころより、だいぶふわふわしてきた。


 少し離れたところではミアナがこちらを見ている。


 警戒しているわけじゃない。


 子供が何をしているのか確認しているだけだ。


「今日はちゃんと飯食えよ」


 ちびがオレの指を嗅ぐ。


「そこに餌はない」


 言った直後、


 今度は横から巨大な鼻がポケットへ突っ込んできた。


「ドルガ」


 押し返す。


「お前は餌目当てだろ」


 ぐい。


「ないって」


 ぐい。


「本当にない」


「セナ」


 後ろから騎士団員の声。


「ドルガの朝の分、もう量ったぞ」


「分かりました」


 立ち上がる。


 すると、


 声をかけてきた隊員が、妙な顔をしていた。


「何ですか?」


「いや……」


「?」


「セナ……さま?」


「やめてください」


 即答した。


「早いな!」


「何ですか、それ」


「殿下の婚約者になったんだろ?」


「なりましたけど」


「じゃあ呼び捨てってまずくないか?」


「昨日までは普通に呼び捨てだったじゃないですか」


「昨日までは婚約者じゃなかっただろ」


 そこへ別の隊員まで来た。


「何の話だ?」


「セナをどう呼ぶか」


「セナだろ」


「殿下の婚約者だぞ」


「じゃあ……セナさん?」


「やめてください」


「本人に拒否されたぞ」


「セナ殿?」


「それも嫌」


「注文多いな」


「普通にセナでいいです」


 何で昨日婚約しただけで、急に呼び方を変えられなきゃいけないんだ。


 オレ自身は何も変わっていない。


「でも公の場じゃそうもいかないだろ」


「ここ森ですよね」


「まあな」


「じゃあセナで」


「本人が言うならいいか」


 結局、


 それで終わった。


「セナ、ドルガ見とけ」


「はい」


 いつもの呼び方。


 いつもの仕事。


 そのほうが楽だ。


 ラグナは最初から何も変わらない。


 人間も、


 これくらいなら、すぐ元に戻るらしい。



 ◇



 もちろん。


 本当に何も変わらないわけじゃなかった。


 王宮から正式な通知が届いた。


 オレとルカリオの婚約が登録されたこと。


 王家の関係者として、最低限の護衛や警備の対象になること。


 王宮へ呼ばれた場合の出入りが簡単になること。


 公の場では、ルカリオの婚約者として扱われること。


 そして、


「……これ」


 届けられた箱を開けて、


 しばらく固まった。


 中に入っていたのは、小さな魔道具だった。


 装飾は少ない。


 でも、


 見ただけで分かる。


「抑香魔道具……」


 昔、


 店の窓越しに何度も見た。


 値段も覚えている。


 仕事でもらった金を少しずつ貯めて、


 あといくら、


 まだ足りない、


 そうやって計算していた。


 いつか買おうと思っていた。


 そのために働いていたと言ってもいい。


 目の前にあるものは、


 たぶん、


 あの店で見ていたものより、さらに性能がいい。


「すご……」


 欲しかった。


 間違いなく、


 ずっと。


 なのに。


「それ、使わないの?」


 ミレーヌに聞かれて顔を上げた。


「先生」


「朝から箱見てるだけじゃない」


「いや」


 机の上の魔道具を見る。


「ずっと欲しかったんでしょ?」


「そうなんですけど」


「嬉しくない?」


「嬉しいですよ」


「そう見えないわよ」


「高いし」


「値段で喜ぶものじゃないわよ」


「でも高いですよ、これ」


「だから?」


 ミレーヌが呆れた顔をする。


「……なくても何とかなってたなって」


 口にして、


 自分でも少し驚いた。


 昔は、


 これさえあればと思っていた。


 人のそばにいられる、


 厚着しなくて済む、


 誰かの鼻を気にしなくていい、


 そう思っていた。


 でも、


 今は。


 騎士団員たちは、臭うと言いながら普通に話しかけてくる。


 風下に座れと言いながら、一緒に飯を食う。


 ミレーヌは何も気にせず字を教える。


 ラグナの前なら、


 そもそも隠す必要すらない。


 それに、


 カイルだって。


 婚約するまでは、


 匂いがあっても普通に近くにいた。


「……何か変ですね」


「何が?」


「欲しかったものなのに」


「欲しいものって、手に入るころには変わってることもあるわよ」


「そんなもんですか」


「そんなもんじゃない?」


 ミレーヌはそれ以上聞かなかった。


 箱だけ見て。


「壊さないうちにしまっときなさい」


「はい」


 高いし。


 普段は使わない。


 必要なときだけにする。


 箱を閉じたところで。


「仕事は問題ないか?」


 声がした。


 カイルだった。


「問題ないです」


「記録は?」


「ここ」


 記録帳を持ち上げる。


 以前なら、


 カイルはそのまま横まで来た。


 オレの肩越しに記録を見ることもあった。


 今日は、


「見せてくれ」


 少し離れたまま、


 手だけ出した。


「……」


 記録帳を渡す。


「食事量は問題ないな」


「はい」


「ちびの体重は?」


「昨日より増えてます」


「分かった」


 返す。


 手渡すときも、


 指が触れない。


「……」


「何だ?」


「何でもないです」


 気のせい、


 そう思おうとした。



 ◇



 でも、


 一つじゃなかった。


 ラグナを一緒に見るとき、


 以前なら隣に立っていた。


 今は半歩後ろ。


 道具を渡すとき、


 以前なら直接手渡していた。


 今は近くの台へ置く。


 食事のときも、


「相変わらず草ばっかりだな」


「野菜です」


 騎士団員はいつも通り。


「婚約者になったんだからもっといいもの食えよ」


「婚約と肉食わないの関係ないでしょ」


「王宮から肉送ってもらえ」


「だから食べないって」


 笑いながら話す。


 でも、


 気づけば、


 視線が勝手に別のところへ行く。


 少し離れた席。


 カイル。


 他の隊員と話している。


 こっちを見ない。


「……」


 何で、


 オレ、


 隊長がどこにいるかばっかり見てるんだ。


「セナ?」


「何です?」


「聞いてる?」


「聞いてないです」


「堂々と言うな」


 適当に返しながら、


 また見てしまった。



 ◇



 昼過ぎ。


 王宮から小さな包みが届いた。


「何です、これ」


「殿下からだと」


「ルカリオ?」


 開ける。


 菓子。


 小さな花。


 それから紙。


「手紙?」


「婚約者からの手紙じゃないか?」


「五歳ですけど」


 読めるところを追う。


 文章自体は侍従が書いたらしい。


 最後の名前だけ、


 少し歪んだ文字で、


 ルカリオ、


 とある。


「婚約者には贈り物をするものだと教わりました。だから贈りますって、何やってんだ、あいつ」


 思わず笑った。


「立派な婚約者じゃないか」


「五歳ですからね?」


「ちゃんと花まであるぞ」


「花もらって何すればいいんです?」


「飾れよ」


「食えないし」


「お前、贈り物の基準が食えるかどうかなのか?」


 周りが笑う。


 オレも笑った。


 それから、


 何となくカイルを見る。


「……」


 笑っていなかった。


 怒っているわけじゃない。


 不機嫌にも見えない。


 ただ、


 少しだけ、


 表情が固い。


 目が合う前に、カイルは視線を外した。


 胸の奥が、


 また、


 引っかかった。



 ◇



 午後、


 ミアナとちびの様子を記録するため、森の奥へ入った。


 カイルも一緒だった。


 他の隊員たちは別の個体を見に行っている。


 二人だけ。


 前なら、


 別に何も思わなかった。


 今は、


 妙に静かだ。


「ちび、朝より動いてますね」


「ああ」


「食事量も問題なし」


「そうだな」


 仕事の話。


 それだけ。


 紙に記録する。


 カイルは少し離れたところに立っている。


 やっぱり、


 遠い。


「隊長」


「何だ?」


 顔を上げる。


「ここの数字、昨日ので合ってますか?」


「見せてくれ」


 差し出す。


 でも、


 カイルは近づかない。


 オレのほうが、


 一歩、


 近づいた。


 その瞬間、


 カイルの足が、


 ほんの少し、


 後ろへ下がった。


「……」


 今度は、


 見間違いじゃない。


「隊長」


「何だ」


「最近、オレのこと避けてません?」


 沈黙。


 思ったより長い。


 普通なら、


 気のせいだ、


 そう言える。


 でも、


 カイルは。


「避けている」


「……」


 認めるとは思わなかった。


「何で?」


「避けなければならないからだ」


「何で?」


 同じことを聞く。


「お前はルカリオ殿下の婚約者になった」


「形式だけです」


「形式でも婚約は婚約だ」


「でも仕事は今まで通りですよ」


「ああ」


「だったら距離まで変える必要あるんですか?」


「ある」


「何で」


 また。


 答えが止まった。


「殿下の婚約者と俺が必要以上に親しいと、余計なことを言う者が出る」


「余計なこと?」


「噂だ」


「別にオレは気にしません」


「お前だけの問題ではなくなる」


 カイルの声が少し硬くなる。


「今のお前の評判は、殿下にもつながる」


「……」


 それを言われると、


 反論しにくい。


 ユリウスにも言われた。


 個人だけで済む話と、


 国や制度が絡む話は違う。


 オレはもう、


 自分一人の立場じゃないらしい。


「でも」


「セナ」


「オレは気にしません」


 もう一度言った。


「俺が気にする」


「……なんで」


 自分でも、


 何度同じことを聞くんだと思う。


 カイルは答えない。


「隊長だから?」


「……」


「オレの上司だから?」


「それもある」


「それだけ?」


 口から出ていた。


 カイルがオレを見る。


 目が合う。


 心臓が、


 少し速くなった。


「……祭りのときは」


 言ってから、


 やめればよかったと思った。


「あんなに近かったのに」


 何を言ってるんだ。


 それじゃ、


 あの夜は何だったんですかって、


 聞いてるみたいだ。


 カイルも黙った。


「……だからだ」


「え?」


「あれ以上、近づくべきじゃない」


「……」


 意味、


 分からない。


 いや、


 少しだけ、


 分かる気がする。


 でも、


 その先を考えるのが怖い。


 もし、


 オレと同じように、


 カイルもあの夜を気にしているなら。


 もし、


 あれ以上近づいたら困る理由が、


 王子への礼儀だけじゃないなら。


「……」


 聞けない。


 オレのこと、


 どう思ってるんですか。


 そんなこと、


 自分がどう思ってるかも、


 まだちゃんと分からないのに。


「……分かりました」


 結局、


 そう言った。


 納得なんてしていない。


「セナ」


 呼び止められる。


「はい」


 カイルが何か言おうとする。


 でも、


「……幼獣の記録を頼む」


「……はい」


 仕事の話だった。


 何となく、


 胸の奥が痛かった。



 ◇



 重くなった空気なんて、


 ちびには関係ない。


 よたよたと近づいてきて、


 まずオレの脚へ身体を押しつける。


 そのあと、


 カイルの靴まで嗅いだ。


「お前は楽でいいな」


 頭を撫でる。


「何がだ」


「何でもないです」


 婚約も、


 身分も、


 噂も、


 ちびには関係ない。


 誰の婚約者だから近づいちゃいけないなんて、


 そんなこともない。


「お前は好きなところ行けていいな」


 ちびがオレの手を舐める。


「……ほんと楽そう」


「セナ」


「何です?」


「記録」


「あ」


 仕事しないと。


 それでも、


 さっき言われた言葉が。


 ずっと頭から離れなかった。


『あれ以上、近づくべきじゃない』


 あれ以上、


 って、


 どこからが、


 あれ以上なんだろう。



 ◇



 帰る前、


 支給された抑香魔道具を試してみることにした。


 使い方は簡単だった。


 服につける、


 少し待つ。


「……すご」


 自分でも分かる。


 ほとんど匂わない。


 短時間用とは違う。


 ずっと性能が高い。


 近くにいた隊員にも聞く。


「どうです?」


「ほぼ分からないな」


「本当に?」


「ああ。これならかなり近くても平気だ」


 昔なら、


 喜んだはずだ。


 これで人に近づける、


 そう思ったはず。


 視線が、


 勝手にカイルを探した。


 少し離れたところにいる。


「……」


 匂いは、


 ほとんどしない。


 なのに、


 距離は変わらない。


 そこで、


 やっと分かった。


 今、


 オレとカイルの間にあるものは、


 匂いじゃない。


 ずっと欲しかった魔道具を手に入れたのに。


 それでも、


 カイルは前より遠い。



 ◇



 夜。


 部屋の机には、


 いろいろなものが置いてある。


 ルカリオから届いた菓子。


 小さな花。


 歪んだ字の名前が書かれた手紙。


 王家から支給された高価な抑香魔道具。


 昔のオレなら、


 どれも持っていなかった。


 王家の庇護もある。


 仕事もある。


 ラグナもいる。


 人間とも、


 前より普通に話せるようになった。


 欲しかったものは、


 たぶん、


 前よりずっと増えた。


 なのに、


 考えているのは、


 カイルが一歩下がったこと。


 祭りで握られた手。


『お前と』


 そう言われた声。


 肩が触れても、


 離れなかった夜。


「……」


 手を見る。


 あのとき、


 手を離されたのが。


 少し残念だった。


 今日、


 カイルが離れたのが、


 嫌だった。


「……オレ」


 そこで、


 やっと、


 少し分かった。


 隊長に、


 カイルに、


 近くにいてほしかったんだ。


 誰でもいいわけじゃない。


 人なら誰でも近くにいてほしいなんて、


 今まで一度も思ったことはない。


 むしろ逆だった。


 誰かが近づけば、


 自分から離れていた。


 それが一番楽だった。


 なのに、


 今は、


 離れられたくない。


 窓の外を見る。


 森のある方向。


 匂いを消せば、


 人に近づけると思っていた。


 だから、


 ずっと、この魔道具が欲しかった。


 なのに今は、


 匂いなんてほとんどしないのに。


 一番近くにいてほしい人だけが、


 前より遠かった。




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