第10話
翌朝、
いつものように森へ向かう。
いつもの道。
いつもの騎士団員たち。
いつものラグナ。
何も変わっていない。
なのに。
「セナ」
「……はい」
呼ばれて振り返る。
カイルがいた。
「昨日はよく眠れたか?」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、カイルは仕事へ戻る。
「……」
普通だ。
ものすごく普通。
昨日、手をつないだ。
祭りの途中で帰ろうとしたオレについてきた。
『俺はまだ祭りを見たい、お前と』
そう言った。
人のいない高台で、
肩が触れても離れなかった。
帰り際には、
『来年もある』
なんて、言ったくせに。
「何で普通なんだよ……」
小さく呟く。
「何が?」
「うわっ」
横から騎士団員に話しかけられた。
「何でもないです」
「今、何か言ってただろ」
「独り言」
「怖いな」
「放っといてください」
何なんだ、
昨日のあれ。
いや。
カイルが普通なら、オレも普通にしていればいい。
そもそも何を期待しているんだ。
昨日、祭りに行った。
それだけだ。
「セナ・ロウ殿」
今度は聞き慣れない声がした。
森の入口に、王宮の紋章をつけた男が立っている。
「オレ?」
「はい。マリエル王妃殿下より、王宮へお越しいただきたいとの仰せです」
「……王妃?」
嫌な予感しかしない。
横を見る。
カイルもこちらを見ていた。
「オレ、王妃に何かしました?」
「していたら私が聞きたい」
さっきまでの「俺」じゃない。
王宮の人間がいるからか。
カイルの口調も変わっている。
「理由は?」
カイルが使者へ聞く。
「私からは申し上げられません」
「そうか」
分からないらしい。
ますます嫌だ。
◇
「これ必要ですか?」
「必要だ」
「いつものじゃ駄目?」
「駄目だ」
王宮へ行く前に、服を替えさせられた。
いつもの飼育用の服では駄目らしい。
汚れてはいない。
破れてもいない。
でも駄目。
「面倒くさい……」
「王妃殿下に会うんだぞ」
「服で話するわけじゃないでしょ」
「そういう問題じゃない」
騎士団員が呆れながら襟を直してくる。
「近い」
「あ、悪い」
一歩離れた。
それから抑香魔道具も渡される。
昨日と同じ簡易型。
でも昨日は祭りへ行くためだった。
今日は王妃に会うため。
同じものなのに、全然違う。
「準備できたか?」
外へ出るとカイルがいた。
「隊長も来るんです?」
「王宮入口まではな」
今日は制服。
姿勢。
話し方。
全部、団長というより貴族に見える。
昨日、私服で露店を歩いて。
ドルガみたいな形の菓子を見て笑っていた人と同じには見えない。
「何だ?」
「……別人みたいだなって」
「誰が?」
「隊長」
「同じ人間だ」
「それは分かってます」
分かってる。
でも、何だか変な感じだった。
◇
初めての王宮は落ち着かない場所だった。
天井が高い。
廊下が広い。
磨かれた床。
歩いている人たちの服も、森とは全然違う。
入口でカイルと別れた。
「終わったらここへ戻れ」
「待ってるんです?」
「ああ」
「仕事は?」
「調整した」
「……そうですか」
また胸の奥が少し引っかかる。
「何かあれば、王妃殿下の前でも遠慮せず話せ」
「怒られません?」
「礼儀は守れ」
「難しい注文ですね」
カイルが少し笑った。
「行ってこい」
「はい」
案内されて奥へ進んだ。
◇
マリエル王妃は、
思っていたより普通の人に見えた。
もっと怖い人を想像していた。
王妃だから、
偉そうで、
近づくだけで緊張するような、
そういう人。
でも、
「初めまして、セナ・ロウ」
声は穏やかだった。
「お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ」
教えられた通り頭を下げる。
「楽にしてください。今日はあなたを叱るために呼んだわけではありません」
顔に出てたのか。
「まず、お礼を申し上げたかったのです」
「礼?」
「ラグナのこと。そして、ルカリオのことです」
「ああ」
「あなたが森へ来てから、ラグナたちの状態が安定していると聞いています。幼獣も無事に生まれました」
「オレはそんなに何もしてないです」
「そうでしょうか」
「産ませたのは先生ですし」
王妃が僅かに笑う。
「ミレーヌ医官からも、あなたが母獣を落ち着かせたと聞いています」
「……知ってるんですね」
「ええ。それから」
王妃の視線がオレの腕へ落ちた。
「ルカリオが怪我をさせたこと。改めて、母としてお詫びします」
「もう治りました」
「傷は残っていませんか?」
「ほとんど」
「そう」
少しだけ、
本当に安心した顔をした。
王妃じゃなく、
普通の母親みたいだ。
「読み書きも勉強しているそうですね」
「……はい?」
「飼育記録を書くために、ミレーヌ医官から習っているのでしょう?」
「何でそんなことまで知ってるんですか?」
「必要なことは把握しています」
穏やかに言う。
「故郷では、動物の世話をして生活していたとか」
「……」
そこまで。
背中が少し落ち着かなくなる。
オレがこの国へ来る前のことだ。
「調べたんですか?」
「ええ」
隠しもしない。
「あなたは私の息子へ強い影響を与える可能性がある人です。何者かを知らないままにしておくことはできません」
「……そうですか」
言っていることは分かる。
でも気持ちいいものではない。
たぶんこの人、
思っているよりずっと怖い。
◇
「ヴィオラ王妃の出産が近づいています」
突然、話が変わった。
「……はい」
ヴィオラ王妃。
オレがこの国へ来たとき、
街中で懐妊を祝っていた人。
「王族の子供は、生まれたあと国獣の血の濃さを調べられます」
「ルカリオも?」
「もちろんです」
マリエル王妃は静かに話す。
「王位継承順位は、単純に生まれた順で決まるものではありません。性別も関係ありません」
「じゃあ」
「王家に受け継がれる、国獣の血。その濃さが大きく影響します」
「……だからルカリオが一番なんですか?」
「ええ」
生まれた順番は関係ない。
国獣の血が今の王族の中でも特に濃いから、五歳のルカリオが王位継承権第一位なんだ。
「ヴィオラ王妃は、国獣の血が比較的濃く現れる一族の出です」
「生まれてくる子も?」
「分かりません」
王妃の答えは冷静だった。
「ルカリオより薄いかもしれない。同程度かもしれない。あるいは、上回る可能性もあります」
「上回ったら?」
「王位継承を巡る状況は、大きく変わるでしょう」
「……」
王位とか、
継承とか、
正直、
オレにはまだ遠い話だ。
でも目の前の人の顔を見ていると、
少しだけ分かる。
この人は息子が心配なんだ。
「あなたの匂いは、ラグナだけではなく、ルカリオにも強く作用する」
「強すぎると噛まれますけど」
「ええ」
そこは否定しない。
「だから管理は必要です。それでも、適切な距離と濃度を守れば、あの子を安定させる助けになる可能性がある」
王妃がまっすぐオレを見る。
「何より、ルカリオ自身があなたを信頼しています」
「……」
「あなたは、あの子にとって必要な人です」
「オレはラグナの飼育係です」
思わずそう返した。
「ええ」
王妃はすぐに頷く。
「ですから、その仕事を辞めてほしいとは申しません」
なら何の話だ。
少し間が空いた。
王妃はまるで。
次の食事の予定でも話すみたいな穏やかな声で言った。
「あなたには、ルカリオと婚約していただきます」
「……」
聞き間違えた?
「誰と?」
「ルカリオです」
「五歳ですよね?」
「ええ」
「いや、だって、え?」
思わず姿勢が崩れる。
「オレ、十八ですけど」
「ええ」
「男ですけど。平民ですけど」
「それは問題ではありません。王族の婚約は性別・身分を問いません」
「いやいやいや」
問題あるだろ。
いや、そこも気になったけど一番は。
「五歳ですよね?」
「ええ」
「だって……おかしいでしょ」
「混乱するのは無理もありません」
王妃はどこまでも落ち着いている。
オレだけがおかしくなったみたいだ。
◇
「この婚約は、実際の婚姻を目的としたものではありません」
「……婚約なのに?」
「形式的なものです」
王妃が説明する。
一時的。
政治的。
ルカリオが成人するより前に解消する予定。
そのあと実際に誰と結婚するのかは、また別の話。
「じゃあ何のために?」
「あなたを、ルカリオに近しい人物として正式に位置づけるためです」
「別に婚約じゃなくてもいいんじゃないですか?」
「例えば?」
「専属の飼育係とか」
「雇用関係は弱いのです」
「弱い?」
「配置は変えられます。国獣院の判断によって、別の職務へ移される可能性もあります」
「……」
「あなた自身が辞職することも、帰国することもできる」
確かに。
「そして、ヴィオラ王妃の出産後に王位を巡る争いが起きれば、あなたを別の王族の側へ引き入れようとする者も現れるでしょう」
そこでようやく意味が分かった。
「要するに」
「はい」
「オレをルカリオのために取っておきたいってことですか?」
少し失礼かもしれない。
でも王妃は怒らなかった。
「そういう面があることは否定いたしません」
否定しないんだ。
「あなたをルカリオの婚約者とすれば、あなたには明確な政治的立場ができます」
「……囲い込み?」
「そう呼びたいのであれば」
怖い。
やっぱりこの人、怖い。
穏やかな顔で全部認める。
「もちろん、あなたにも利益があります」
「利益?」
「王家の庇護を受けられます。外国人の平民という現在の立場より、身分上の安全も保障されるでしょう」
王宮への出入り。
生活の保障。
必要な場合には。
「抑香魔道具も王家から支給できます」
「……」
前なら、
それだけで話を聞いたかもしれない。
ずっと欲しかったものだ。
何年も金を貯めていた。
人のそばで暮らすために。
何枚も服を着込まなくて済むように。
欲しかった、
はずなのに。
今、
一番最初に浮かんだのは、
魔道具じゃなかった。
「婚約したら、森の仕事は?」
王妃が僅かに目を細めた。
「続けて構いません」
「今まで通り?」
「基本的には」
少し肩の力が抜ける。
「じゃあ条件があります」
「聞きましょう」
「ルカリオのためでも、ラグナの世話をやめろって言われたら婚約しません」
「承知しています」
「王宮から仕事のやり方にいちいち口出しされるのも困ります」
「国獣の管理に関する実務判断は、護獣騎士団と国獣医官を優先させます」
「あと」
「まだありますか?」
「あります」
当然だ。
自分の話なんだから。
「ルカリオは知ってるんですか?」
「話はしてあります」
「本人は?」
一瞬だけ。
王妃の返事が遅れた。
「嫌がってはいません」
「嫌がってないと、やりたいは違うでしょ」
王妃が黙る。
「オレ、本人に聞きます」
「……ええ」
「いいんです?」
「もちろんです」
むしろ、
少し笑ったように見えた。
まるで、
オレがそう言うと分かっていたみたいに。
◇
「聞いた」
別室へ来たルカリオは、
オレが婚約の話を出すと、あっさり答えた。
「分かってる?」
「僕の婚約者になるんだろう」
「……それ、どこまで分かってる?」
「失礼だな。僕は五歳だぞ」
「五歳だから聞いてるんだけど」
ルカリオがむっとした。
「嫌じゃないの?」
「なぜ嫌なんだ?」
本気で分からない顔だ。
「だって婚約だぞ」
「そうだ」
「オレと」
「そうだ」
「十八歳の」
「知っている」
「男の平民」
「知っている」
駄目だ。
本人が一番気にしてない。
「婚約者は大切にしなければならないと習った」
「……誰に?」
「母上だ」
見る。
少し離れたところでマリエル王妃が微笑んでいる。
教育が早い。
「だから僕がセナを守る」
「オレのほうが大きいですけど」
「僕は王子だ」
「またそれ」
「王子は守る側だ」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
本人は妙に真面目だ。
何だか、
婚約というより、
新しい役目を与えられたと思っている気がする。
「でも」
ルカリオを見る。
「オレは今まで通りラグナの世話するからな」
「当然だ」
返事が早い。
「お前のためだけに王宮にいるとかもしない」
「分かっている」
「オレがお前だけのためにいるわけでもない」
そこで、
ルカリオが少し考えた。
「……分かっている」
さっきより返事が遅い。
本当に全部分かっているのかは怪しい。
でも、
少なくとも、
オレがラグナの世話を続けることを嫌がってはいない。
「本当に婚約していいの?」
「いい」
「後で嫌だって言うなよ」
「言わない」
「オレ、結構口うるさいぞ」
「知っている」
「何で知ってるんだよ」
「僕を何度も叱った」
「それはお前が危ないことするからだろ」
「ほら」
「……」
何か負けた気がする。
五歳児に。
でも、
ルカリオ本人が嫌じゃない。
ラグナの仕事も続けられる。
実際、
オレがそばにいることでルカリオの役に立つこともあるらしい。
成人する前には解消する。
なら、
形式だけなら。
「……分かりました」
マリエル王妃を見る。
「受けます」
「ありがとうございます、セナ」
初めて、
呼ばれた名前に温度を感じた。
「これで、あの子のそばにあなたがいてくださる」
その顔は、
少し安心しているように見えた。
政治のため。
囲い込むため。
それだけじゃないのかもしれない。
息子を心配する母親。
その部分も本物なんだろう。
だから、
嫌いにはなれなかった。
やり方は、
かなり怖いけど。
「セナ」
「何?」
「婚約者になったのだから、僕をもっと大切にしていいぞ」
「今までと同じです」
「なぜだ」
「急に何か変わるわけじゃないだろ」
「変わる」
「何が?」
「婚約者になった」
「……」
先が思いやられる。
何でオレが、
五歳児と婚約することになるんだ。
◇
王宮を出ると、
カイルが待っていた。
「話は終わったか?」
「……はい」
「長かったな」
「まあ」
言いづらい。
何でだろう。
悪いことをしたわけじゃない。
「何かあったのか?」
やっぱり気づく。
「……婚約することになりました」
カイルの足が止まった。
「誰と」
思ったより低い声だった。
「ルカリオ殿下」
「……殿下と?」
「オレも同じ反応しました」
「……」
「形式だけらしいです。成人する前には解消するって」
「そうか」
少し間、
カイルの顔が変わった。
さっきまでの、
いつものカイルじゃない。
王宮へ来たときと同じ、
貴族で、
護獣騎士団長で、
国に仕える人の顔。
「王妃殿下がお決めになり、セナ自身も了承したのであれば、私から申し上げることはない」
「……そうですか」
「婚約、おめでとう」
「……ありがとうございます」
何だ、
それ。
自分から話したくせに、
何を言われたかったのか分からない。
でも、
もっと、
別の反応をしてほしかった気がした。
◇
帰り道、
変なことに気づいた。
遠い。
カイルが。
一歩。
いや、
半歩くらい。
いつもより離れている。
昨日、
祭りの帰りは、
隣を歩いていた。
肩が触れそうなほど近くても。
どちらも離れなかった。
今は、
その間に一人入りそうな隙間がある。
「……」
何となく、
隣へ寄る。
ほんの少しだけ。
すると、
カイルも少し動いた。
距離が戻る。
「……?」
今、
避けられた?
そんなはずない。
オレの匂いなら。
カイルは最初から知っている。
昨日だって魔道具が切れてから一緒にいた。
それでも、
もう一度近づこうとすると。
やっぱり、
僅かに離れる。
「隊長」
「何だ」
「……」
なんで離れるんですか。
喉まで出た。
でも、
言えなかった。
オレは今、
ルカリオの婚約者になった。
形式だけだとしても、
王子の婚約者。
なら、
貴族のカイルが今まで通りじゃなくなるのは、
普通なのかもしれない。
「何でもないです」
「そうか」
それきり、
会話は続かなかった。
◇
森へ戻れは、
何も変わらなかった。
ルウが寄ってくる。
ドルガはポケットを嗅ぐ。
「何もないって」
ちびも、
オレを見つけると、まだ少し危なっかしい足取りで近づいてくる。
「お前は元気だな」
しゃがむ。
小さな身体が膝へぶつかった。
ラグナにとっては、
オレが誰と婚約しようが関係ない。
明日からも、
餌をやる。
体調を見る。
記録を書く。
ミレーヌに字を直される。
ルカリオだって、
これまで以上に森へ来るかもしれない。
何も失っていない。
むしろ、
王家の庇護までついた。
欲しかった抑香魔道具だって、必要なら支給される。
条件だけ見れば、
悪い話じゃない。
なのに、
森の向こうを見る。
カイルが隊員と話をしている。
距離は、
ほんの少し、
たった一歩。
昨日までは、
近すぎると思っていたはずの距離だった。
たった一歩離れただけなのに、
今日は妙に、
遠く見えた。




