第九話
赤西が最寄り駅に着く頃には、午後二時を回っていた。人がまばらな駅前広場を駆け抜ける。出口が二つしかない小さな駅の中へ、赤西が入ろうとした、その時。
「あっ……すみません……」
男性の小さな声と同時に、冷たい液体が腹部にかかったような、不快感を覚えた。苛立ちながらも声のした方を振り返る。そこには、グレーのパーカーのフードを被り、よれよれのジーンズを履いた、赤西と同年代であろう背の高い青年が立っていた。
大人しそうな印象の青年は、申し訳なさそうに俯いている。フードを深く被っていて髪型まではわからないが、気弱そうな外見と裏腹に、凛とした目つきをしている。
その青年の手には缶コーヒーが握られており、缶の飲み口が赤西の腹部へと向けられていた。赤西が自分の腹部を見ると、白いワイシャツの腹部が、派手にコーヒーで汚されている。
どうやら目の前の青年に、誤ってコーヒーをかけられてしまったようだった。こんな目に遭うなんて、今日の赤西はついてないらしい。
だがコーヒーをぶちまけられて、多少スーツを汚された程度でいちいち怒っていたら、社会人なんてやってられない。クリーニング代はかかるだろうが、洗えばいいだけの話だ。
それに、現在時刻から考えれば、こんなところで時間を食ってしまえば、帰社予定時刻を過ぎてしまうだろう。これ以上遅くなったら上司に、サボっていると思われてしまうのは間違いない。
これ以上、上司の評価が下がるのだけはごめんだ。
「ああいえ、まあ、洗えばいいだけなんで。気にしないでください」
赤西は青年にこう言い捨てて、駅へ立ち去ろうとした。正直なところ、知らない人に絡まれて、時間を取られている場合じゃない。今の赤西にとって、コーヒーで汚れたワイシャツよりも、一刻も早く本社に戻って、上司に怒られない方が重要である。
赤西は仕事用のスーツとワイシャツが、汚れてしまったことに、落胆はしていた。しかし今後の仕事のことを考えれば、こんなやりとりに、時間を取られるわけにはいかない。
「いえ、お詫びさせてください……!」
だが目の前の見知らぬ青年は、そう食い下がってくる。その表情は真剣そのもので、缶を持ってない左手には札束が握られている。クリーニング代だろうか。
だが赤西は急いでいたし、スーツを誤って汚されたぐらいで、わざわざお詫びされる話だ、と思っていない。一張羅が汚されて苛立ちはしていたものの、適当に流して立ち去るつもりだった。
それに、急いでいる時に知らない人から絡まれるのは、上司からの評価もあるし、本当に面倒くさいのだ。赤西は青年に背を向ける。
「気にしてないんで大丈夫です、では」
そう、駅まで急ごうと歩みを進める。赤西は自身のワイシャツが、コーヒーまみれになってしまったことを、完全に気にしてないわけではない。しかし赤西は一刻も早く、仕事に早く戻ることを、優先したい気持ちが強かったのだ。
しかし駅に向かおうとする赤西の肩を、青年が突然両手で掴んできた。いきなり見知らぬ青年から身体を掴まれ、恐怖で肩が震える。
「突然亡くなった身内がいるんです。あなた記者でしょう? 何か知らないんですか?」
青年はそのまま赤西に、いきなり大きな声で迫ってきた。数は少ないものの、駅前広場にいる人々の視線が、こちらへ向いた気がする。突然大声を出された驚きと、注目を集めてしまった恥ずかしさで、赤西の心情はぐちゃぐちゃだ。
だが赤西の混乱した感情が落ち着けば、青年から言われた言葉を考える余裕が出てきた。身内に突然亡くなった人間がいる? そもそも記者の腕章を外していたのに、なぜ自分の職業を知っているのだろうか。赤西は一つずつ疑問を解消していくことにした。
「なんで俺が記者だって分かったんですか?」
今赤西は記者の腕章を外しているから、一目で新聞記者だと分かる格好はしていないはずだ。赤西は訝しげに謎の青年を睨む。
青年は赤西から睨まれて驚いた表情を見せた後、赤西の鞄を指さすと、気まずそうな顔をしながら教えてくれた。
「鞄から見えてますよ、○○新聞社って……」
赤西が慌てて鞄を確認すると、ポケットの隙間から少しだけ、赤い腕章が覗いていた。そういえば新聞社の腕章を、取材終わりに雑に鞄に突っ込んで、そのまま放置していたことを思い出す。
赤西は慌てて、腕章を少しだけ丁寧に鞄に押し込め、ファスナーを閉じた。こんなに小さく覗いている腕章で、自分の身分が新聞記者だと気付けるなんて、この青年はよっぽどの観察眼の持ち主だろう。
赤西はパーカー姿の青年に向き直る。一瞬こちらのやり取りに注目していた周りの人々も、こちらに関心を失ったのか、各々の生活に戻っていた。赤西は青年が言っていた言葉が気になって、こう青年に尋ねた。
「身内に、突然亡くなった人がいる、っておっしゃってましたが……?」
赤西は仕事や上司のことをいったん忘れ、新たな手掛かりに喰いついてみる。
青年の身内が教団と関係があるかはわからない。だが疑わしい事例は一つでも多く調べた方が、母の死の真実へたどり着きやすくなるだろう、と思っていた。
この件に関しては、上司からサボりだと思われても仕方ない。後から、上手い言い訳でも考えてやり過ごそう。上司の小言よりも今は、目の前の有力情報だ。
赤西は青年の言葉を待つ。
「……遠い親戚が、高所から落ちて亡くなったって話でした。この間亡くなった女優さんも、そんな風に亡くなったって聞いたので」
青年は俯きながら、ぼそぼそとした声で、淡々と話す。先ほどまでの必死な様子と打って変わって、大人しくなった青年に面食らった。先ほどまでの勢いはどうしたのだろう。だが態度の急変した青年に、驚いている場合ではない。
「その親戚の方のお名前は?」
赤西はそう尋ねる。だが青年は微動だにせず、赤西の質問に答えなかった。フードを深く被っているせいで、青年の感情は見えない。
青年からはこの件に関して、これ以上詳しい話は聞けない気がして、赤西は落胆した。
スーツにコーヒーはぶちまけられるし、帰社したいのに無理やり引き留められるし、今日は散々だ。赤西は苛立ちながらも、黙っている青年を置いて今日は帰ることに。
置いてけぼりにされた青年は、駅舎の中に消えていく、赤西の背中を見送った後、札束を握りしめた左手を見て、こう力なく呟いた。
「あ、クリーニング代……」




